初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

イーストマン・カラー

2016年02月29日 19時04分51秒 | Weblog


富士フイルムのカラー・フィルムを使って

松竹大船は二本の総天然色映画を公開しました

さくらフィルム(小西六=コニカ)のカラーフィルムを

使った総天然色映画が日活で作られた噂を父親から

聞いたことがありました…

さくらカラーフィルム用にカメラも製作されて

そのカラーカメラのノイズが凄くて,セット撮影での

台詞(録音)は,オール・アフレコで大変だったとも聞いていました

… … …

それを、インターネットで調べてみましたが,不明でした



松竹大船と日活?で総天然色映画が製作されたころ、

コダクローム、エクタクロームなどを発売していた

イーストマン・コダックでカラー作品用の映画フィルム

イーストマン・カラーが完成したようでした



松竹大船、日活?に遅れて,大映でも

総天然色映画が企画されました

しかも、企画は時代劇の総天然色映画で

新しい,イーストマン・カラーを

使用するということを父親から聞きました



父親にイーストマン・カラーのことを聞いても

白黒作品で使われているNCミッチェルカメラで

撮影できる,新しいフィルムだということでした



父親は監督の衣笠貞之助さん,制作スタッフ、

それに新しくカラー用照明器具を製作する

R電舎の若社長らがパンナム航空で

ハリウッドにカラー作品制作の問題点の調査、

現状視察に一ヶ月の予定で渡米しました








総天然色映画「夏子の冒険」

2016年02月28日 21時06分34秒 | Weblog


総天然色映画「カルメン故郷に帰る」は

ロケーションが主で,屋内のセットが少ない

作品でした

… … …

富士フイルムの外式リバーサルですが

色温度がとうやらディライト・タイプだったのでしょう

当時の感度の低いカラーフィルムを

セット撮影で使用すると色温度変換フィルターが

必要になります。

結果、フィルムの感度が極端に

低くなって,セット撮影が困難だったのでしょう



リバーサル・フィルムから劇場用プリントを

仕上げるのは大変だったと想像します

一応,松竹大船の第一回カラー作品(総天然色映画)は

興行的に成功したのでしょう

… … …

翌年(1953年=昭和28年)松竹大船は第二作

「夏子の冒険」を若原雅夫(わかはらまさお)、

角梨枝子(すみりえこ)主演

北海道ロケを中心に制作しました



松竹大船は富士フイルムを使って総天然色映画を

二本制作しました。

… … …

次に大映京都撮影所(太秦)が追いかけるように

しかも、時代劇で総天然色映画を制作することになりました



松竹大船では現代劇で,明るいロケーション中心で

制作しました

… … …

それに対して、時代劇では、どうしてもスタジオ内の

セット撮影が中心になります

父親に,セット主体の制作にどんなフィルムを使うのかと

聞きました…

最近、完成したコダックのイーストマン・カラーだといいました












総天然色映画「カルメン故郷に帰る」

2016年02月27日 19時58分28秒 | Weblog


テレビ放送が始まって、

同じ動画で勝負する映画の

斜陽化が始まりました



当時のテレビはモノクロ画面でした

映画もモノクロ作品が多かったのですが

テレビと差別化をはかるためでしょうか

映画は総天然色映画といわれるカラー作品が

メーンになりました

… … …

色彩豊かなカラー作品(動画)を見たければ

映画館へ、モノクロ動画は家庭のテレビでという

棲み分けが考えられたのでしょうか



日本でのカラー作品はアメリカ(イギリス)から

入ってくる総天然色映画だけでした

日本でも制作しようと

企画があったのでしょう



私が高校3年のころに、松竹大船作品で

木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」が

日本初の天然色映画が制作されました



アメリカの色彩映画はモノクロ三本の

フィルムを使うテクニカラーが主でしたが

いくら発色が素晴らしいとはいえ

モノクロ作品に比べて三倍のフィルムを使い

そして撮影カメラ,レンズはバカでかい

テクニカラー用特殊カメラが必要でした



松竹の「カルメン故郷に帰る」は

一本のフィルムで撮影できる

富士フイルムのリバーサル・カラーで

制作されました

リバーサル・カラーはモノクロ作品で

使用するNCミッチェル・カメラで

撮影できます









日活撮影所

2016年02月26日 22時52分54秒 | Weblog


テレビ放送が始まって

だんだんテレビが勢いを増してきました

同時に、映画製作業界の斜陽化がいわれるように

なってきました



戦後,復活した映画撮影所に日活があります

日活撮影所は、調布市にありました

… … …

最初、文芸映画、時代劇を制作していましたが

石原慎太郎の芥川賞受賞作品「太陽の季節」を

制作するにあたって,慎太郎の弟、石原裕次郎が

端役で出演しました



石原裕次郎のほかに

小林旭、浅丘ルリ子、待田京介、赤木圭一郎、

二谷英明、岡田真澄、川地民夫、和田浩治、

葉山良二、中原早苗、笹森礼子、清水まゆみ、

浜田光夫、高橋英樹、松原智恵子、和泉雅子

吉永小百合

新しいスターがどんどん誕生しました



撮影所に広大な現代のオープン・セットができました

銀座界隈の風景のセットで「日活銀座」といわれていました

また、銀座(本物の)など雑踏の繁華街に

,隠し撮りのロケーションもよく行われました



この隠し撮りは、撮影所で出演する俳優さんと

スタッフは綿密な打ち合わせをして

時間を決めて、べつべつに現場(銀座)に出発します

そして,俳優さん、スタッフは現場で一度も顔を合わすことなく

隠しカメラ(カメフレックス)は時間通りスタートします。

するとカメラの画面の中に俳優さんがフレームインして

まわりの雑踏に気付かれることなくロケは終了します

カメラと俳優さんづきの助監督との連絡は

トランシーバーで行ったそうです








テレビと映画

2016年02月25日 21時17分33秒 | Weblog


テレビはニュースのほかに

アナウンサーを中心に

鼎談とか座談会がありました

ラジオのトーク番組では

音声だけでしたが、テレビになって

出演者のネクタイ,衣装が見えますし

身振り手振りや表情が番組に加わります

テレビは新しく感じられました



ラジオドラマは音声だけでしたが

テレビドラマになって動画が加わりました

ラジオドラマはテープレコーダーを駆使して

組み立てていましたが、テレビドラマは

まだ、録画機がありません。

すべて生ドラマです。制作しているスタジオで

タイトルからエンドマークまですべて処理しなくては

なりませんでした



我が家の14インチのテレビを

父親と二人で,テレビドラマ(生)をよく見ました

カツドウ屋(映画人)の父親は画面構成を渋い顔で

眺めていました

… … …

映画では、登場する二人の俳優さんのそれぞれの

アップを同じ焦点距離のレンズで切り返していくのに

テレビ・ドラマでは、それぞれの俳優さんのアップを写す

レンズの焦点距離が違うのです。レンズの焦点距離が

違うと,なんとなく場面の雰囲気が違ってきます



また、二人の俳優さんのアップショットで一人は

キチッと正面を向いているのに,もう一人の俳優さんの

アップに切り替わると横顔になることがありました

… … …

ワンカットずつ,厳密なカットで積み重ねていく映画に

比べて、テレビ・ドラマのカットは、少し違っていました









ニュース映画

2016年02月24日 20時15分05秒 | Weblog


居間に置かれた14インチのテレビを

私はよく見ました

特に、1日何回か放映されるニュースは

新鮮に感じていました



各社のニュースをまとめて

上映しているニュース映画館で動画の

ニュースを見ていました

… … …

三条河原町東角(京都)に専門のニュース映画館

京映がありました



プログラムは各社のニュース(黒白)を何本か続けて

上映します、

… … …

そして最後に、ディズニーのミッキーマウス

などの短編漫画を上映していました

このディズニーの漫画はテクニカラーの総天然色で

駒ブレもなく安定した画面でした



ニュース映画(動画)をニュース映画館では一週間ごとに

変えていました

居間で見られるようになった

テレビ・ニュース(動画)は毎日新しく放映されます

しかも,内容がその日の事件や話題です

ニュース映画ではめったに取り上げなかった

火事現場で消火活動がよく放映されていました



テレビ・ニュースのスタイルは

黒のテロップに写植の白文字のタイトルが写り

そして、BGMが流れる、ニュース映画と

同じスタイルでした



我が家で毎日、テレビニュースを見るようになって

あれだけ通っていた,京映ニュース映画館はだんだん

遠のいていきました










大阪テレビ

2016年02月23日 23時46分31秒 | Weblog


我が家にやってきた14インチブラウン管テレビは

居間ではなく別の八畳間に置かれました

… … …

大阪テレビの放送は

午前10時に,テストパターンが写し出され

そしてオープニング・メロディの番組から始まりました



料理番組の「料理手帳」,12時からの「ニュース」

午後1時「婦人ニュース」などあって午後2時から

放送は休憩



午後5時から放送開始で15分ほどの連続生ドラマなど、

また、東京からネットでラジオ東京テレビ制作の「日真氏飛び出す」

などでした



添付の写真はOTV、大阪テレビの社屋の写真です

… … …

社屋は4階建て一階は営業局、

二階はテレシネとマスター(送出)、技術局

三階はフィルム現像室、報道局、編成局

四階は映画部、総務局だったと思います

屋上のアンテナはSTリンクで、生駒山山頂の

テレビ放送送信局とマイクロウェーブで結ばれています

… … …

写真手前は大阪テレビ局ですが,右奥に見えるのは

毎日放送テレビ局です、大阪テレビから毎日放送テレビへは

歩いて5分ほどの距離でした





一億総白痴化

2016年02月22日 18時51分29秒 | Weblog


街頭テレビでテレビの魅力に

ひかれたのでしょうか

家庭にテレビが浸透していきました



当時のテレビ受像機を振り返ると

14インチの小さなテレビ画面は

映画館で見るスクリーンに比べて

遙かに小さくそれに、ピントがなんとなく甘く

ドラマのナイトシーン(夜景)が

白っぽく浮き上がって見えました

… … …

専門用語で回路の直流再生が

悪いということでしょうか



街の喫茶店や食堂などでは客寄せに

棚の上にテレビが乗せてありました

… … …

夕餉前のひととき、うどん屋へ

入ったことがありました

店に、おやじさんが一人、座っていました

おやじさんは、口をあんぐりと開けて

ボーッとテレビを見上げていました

その姿に私は唖然としたことがありました



日本中が,テレビに熱中しているのを見て

評論家の大宅壮一(おおや・そういち)は

「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、

テレビばかり見ていると、

人間の想像力や思考力を低下させてしまう」

と「一億総白痴化(いちおくそうはくちか) 」と

流行語を生み出しました







三種の神器

2016年02月21日 19時40分34秒 | Weblog


ついに我が家にテレビがやってきました

父親が会社の近くの家電店から

購入しました。

… … …

勿論、分割払いのはずです

実感として現在の超大型,薄型液晶テレビの

値段以上だったでしょう

我が家には松下電器(ナショナル製)の

白黒ブラウン管14インチテレビです。

当時、1インチ=1万円と云われた

時代でした



戦後、我が家は満州から引き揚げてきました

世の中も落ち着いてきました

京都市左京区西田町の家に

電話、電気洗濯機、電気冷蔵庫そして

テレビ受像機がやってきました



当時、世の中では,洗濯機、冷蔵庫、

そしてテレビの三点を

家電の三種の神器(さんしゅのじんぎ)と

いわれていました

… … …
三種の神器とは、日本神話の天孫降臨(てんそんこうりん)で

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ) から

鏡・玉・剣を授けられたとあります



家電の三種の神器は,日本中の家庭で順番とか

時間は、とにかく揃っていくのです

… … …

高度成長時代が始まりました。

この内需拡大のエネルギーは凄かったのですね



ラジオ部品街の四条寺町(京都)の店でも

洗濯機、冷蔵庫、テレビが売り場面積を

広げていきました

… … …

その後、三種の神器は,カラーテレビになったり

乗用車になったり時代時代でいろいろいわれました










比叡山山頂にて

2016年02月20日 22時41分56秒 | Weblog


民間放送ラジオが始まったときは

すでにテープレコーダーが実用に

なっていましたから番組は一部、録音した

番組を流していました



民間放送テレビが始まったときは

録画できるビデオレコーダーは、まだ

なかったので放送時間すべてが

生放送(放映)でした



それぞれテレビ局でその日の全番組を

生放送できないので、他局で制作される

番組を放送していました。



東京の日本テレビやラジオ東京(TBS)で

制作されたドラマを大阪テレビで

放送(ネット)していました



日本電電公社は,東京で制作のテレビ番組を

全国に送るのにマイクロ回線が設置されていました

東京→名古屋→大阪とあちこちの高い山の頂上に

大きなパラボラアンテナを備えた中継局がありました



京都の北に聳える比叡山に電電のマイクロ中継局の1つが

ありました。そこへ学校から見学に出かけたことがありました

これが、マイクロ波の増幅に使用する進行波管(しんこうはかん)

ですと、細長い真空管を示しながら説明を受けた思い出があります

当時は、真空管全盛時代でした。