初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

東横映画第1回作品「こころ月の如く」

2020年05月29日 22時08分14秒 | Weblog


東京へ京都へと、親父はこれからの

仕事のことでよく出掛けていました。

幸い、東京で仕事が見つかったようでした。

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戦後、新しい映画会社が誕生しました。

東横映画(とうよこえいが) です。

その東横映画撮影所の第1回作品

題名「こころ月の如く」です

親父はこの仕事を引き受けました。

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監督は稲垣浩(いながきひろし) さん、

俳優さんは、上原謙(うえはらけん) で

加山雄三さんのお父さんです。

女優さんは

轟夕起子(とどろきゆきこ) さんで

現代劇でした。

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親父は時代劇の人ですが

現代劇もできるのでした。

親父は満州時代の4年間の

ブランクを埋めたようでした。




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東横映画はその後、東映と名前を
変えることになります。

時々、止まる腕時計

2020年05月26日 21時12分06秒 | Weblog


当時、中学生になると

入学祝いに貰うのに、

万年筆と腕時計が

ありました…

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私は、親父からまず

パーカースタイルの万年筆を

貰いました。

そして、腕時計も貰いました

… … …

親父の時計は、秒針のついた

懐中時計で細い鎖がついていて

背広のチョッキのポケットに

入れて、愛用していました。

つまり、わが家では私の腕時計が

初めてでした。

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私は毎日、決まった時間に、

腕時計のゼンマイ?のネジ

竜頭を一杯巻いていました。

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私の貰った腕時計は日本の有名な

メーカー製品だったのですが、

時々、止まるのです。

市内の時計店で見て貰ったのですが

どうも、直りませんでした。

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この中学生時代の時々、止まる

腕時計がトラウマになって

以後、このメーカーの製品から

遠ざかることになりました。





パーカースタイルの万年筆

2020年05月24日 20時46分46秒 | Weblog


浜松の駅前に中央繁華街、

田町(たまち) があります。

戦災で焼け野原になった

通りの左右に、テントがけの

店がズラリ並んでいました。

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万年筆ばかりを扱っていた

テントの店で、親父に

万年筆を買って貰いました。

昔は、中学校に入学すると

入学祝いに万年筆と腕時計を

貰うという習慣があったようです

… … …

戦後間もなく、アメリカから

パーカー万年筆がどっと入って

きました…

このパーカー万年筆は独特のスタイルで

ベークライト製?の軸にペン本体がすっぽり

隠れていました。

トップの添付写真のような形をしていました。

アメリカ製パーカーペンは高価ですから

中学生になった私には、パーカースタイルの

万年筆です。勿論です…しかし初めて

万年筆を手にして感激しました…

… … …

同時にインクももらいました。

明るいブルーの色合いで気に入りました

インクの名前は確かエンゼルインクとありました。

瓶のレッテルが Engel とEで始まっていました。

綴りとしては angel とAの筈ですが、この誤字が

私には妙に気に入っていました。





学制改革6・3・3・制

2020年05月23日 18時28分23秒 | Weblog


そうそう、私が入学した中学校は

女子のいない男子のみの中学校です。

当時、まだ学制改革前でしたから、

旧制中学校は、進学を目的にした

男子のみの学校でした。

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私が浜松の中学校へ編入した

翌年、日本は学制改革が行われて

「6・3・3(ろくさんさん)制」に

なります…

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6は小学校六年、次の3は

中学校三年。その次の3は

高校三年という新しい制度に

なることになります。

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大東亜戦争の敗戦で、私の学業(満州)は

なくなり、一年間のブランクのまま

旧制中学一年生(浜松)へ強引に編入して

その翌年、こんどは6・3・3制の

学制改革を迎えることになりました。

… … …

昭和21年、私の74年前の出来事

です…



浜松の中学校へ編入

2020年05月20日 19時04分25秒 | Weblog


私が通うことになった浜松の

中学校は小高い丘の上にありました。

その中学校に1年生として編入される

ことになりました。

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編入される1年生のクラスが

いくつあって、その何組に入ったのか

覚えていません…

… … …

入学の当日、私は教壇の脇に立って

先生の紹介で

「どうぞよろしくお願いします…」

と挨拶しました。

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下鴨小学校3年生から満州新京特別市の

春光国民学校(しゅんこうこくみんがっこう) に

転校するときも、私は教壇の脇に立って

「どうぞよろしくお願いします…」と

すでに挨拶しています。

私には中学校の挨拶は二度目です。

… … …

小学校、中学校の転校、編入でも

私はクラスに何となく溶け込んで

友だちも、大勢できました。

… … …

最近、問題にもなっている

いじめなどは受けませんでした。


静岡県庁教育課の答は

2020年05月19日 19時24分55秒 | Weblog


静岡県庁、教育課の人は私をジッと見て

「思い切って、中学1年生に編入してみますか?」と

聞いてきました…。

私は、別に考えもなく

戸谷の叔母さんを見ながら

それでお願いしますと云いました。

… … …

中学1年生の前半の授業を

私は自習で追いかけることになりました。

当時、日本は戦後のどさくさで

私の中学校への編入も

あっさり、決まったのでしょう

… … …

県庁へ一緒に行ってくれた

戸谷の叔母さんも、了解してくれました。

戸谷の叔母さんには子供さんがいません。

「貴方さえ良ければそれて、いいよ…」と

頷いてくれました…

… … …

私は、中学1年の授業の前半が

ブランクのまま、浜松市の中学校

1年生に編入することになりました。

… … …

現在、新型コロナウィルスで全国的に

学校が閉鎖されて、授業をどうする!

と問題になっています。




私の学校編入について

2020年05月18日 17時32分49秒 | Weblog


静岡県庁の教育課で

戸谷の叔母さんの説明を聞いた上で

係の人は私たちに

「外地から引き揚げてきた児童の

内地の学校への編入は…」と

話し始めました…

… … …

例えば、外地で小学校6年生は

内地の小学校では5年生に…

外地で5年生だった子は内地の小学校へは

4年生に編入されることになっている…

つまり、1年、留年すると云われました。

… … …

貴方は中学校1年生の年齢でありながら

中学校へ入学していない…

もっとも、敗戦によって入学する中学校が

なかったからですが…

もう一度、小学校6年生から始めますか?

どうしますか?と私に聞かれました…





静岡県庁、教育課へ

2020年05月17日 19時06分46秒 | Weblog


私が豪華な食事を済ませたころ

戸谷の叔母さんは、紋付きの和服姿で

現れました…

… … …

「さあ、県庁へ行きましょう…」と

13歳の私と叔母さんは出かけますが

静岡県庁まで歩いて行ったのか?

どうしたのか…

記憶に残っていません…

… … …

静岡県庁の教育課の担当者に

叔母さんは、私の母親の手紙を

参考に、13歳の私のことを

説明してくれました…

… … …

敗戦によって私の通っていた

小学校(国民学校) は無くなりました

そして中学校も無くなりました

中学校へ入学出来ないまま

半年過ぎていました…

つまり、小学6年生の夏から

中学1年生の夏まで

空白な状態が私でした…。




戸谷家で豪華な食事を

2020年05月16日 21時10分23秒 | Weblog


戸谷(とだに) の叔母さんに会いました

私が幼稚園時代に一度お目にかかったのか

よく覚えていませんが…

広い綺麗な部屋へ案内されました

母親からの手紙を叔母さんに

手渡しました。

手紙を読み終わった叔母さんは頷いて

「貴方と一緒に県庁へ行きましょう…」

と頷いて、そうそう…と気が付いたように

「貴方、ご飯を食べる?」と云って台所?の

ほうへ行かれました。

… … …

やがて部屋のテーブルに並べられた

料理にびっくりしてしまいました。

復興途中の日本だというのに…

真っ白なご飯、生卵、焼き海苔、

魚の干物に湯気の上がった味噌汁です。

… … …

現在の旅館の朝食のメニューです。

当時の日本の家庭ではお米は米穀通帳

(べいこくつうちょう) を使って手に入れ

ていました

毎日、ご飯は必ず薩摩芋などを

混ぜた、ご飯が日常でした…

それが戸谷家で真っ白のご飯の

ご馳走でした。



13歳の私は一人で静岡へ

2020年05月15日 19時05分04秒 | Weblog


親父は日本の映画界に復帰する

ために京都へまた、東京へ

出掛けていました…

浜松のバラックの新居には私と

弟2人に母親の4人で生活して

いました…

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私の日本での復学問題にどうしても

静岡県庁へ行かなくてはなりません

4人で行くと旅費も大変ですどうするか?

そこで母親は私に「悪いけど、あんた一人で

行ってくれない!」ということになりました。

… … …

13歳の私は一人で、親戚の戸谷の叔母さん宛の

手紙を持って、国鉄浜松駅から電車か汽車に乗って

静岡へ出発しました。

その時の私は呑気なのか、別に恐いとも思わないで

気楽に国鉄静岡駅に向かいました。

… … …

到着した静岡は浜松同様、戦災の後、

復興の市街でした…

静岡駅からどうして行ったのか覚えて

いませんが、焼け残ったのか

戸谷(とだに) と表札のかかった邸宅に

たどり着きました…。

添付の写真は現在の静岡県です