初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

引き揚げ船がなんと

2015年10月31日 21時14分19秒 | Weblog


私はスマートに見えるリバティ船に

乗りたかったのですが

日本の輸送船に乗せられました



京都から満州へ行くときは

神戸港から「みどり丸」という客船でした

いよいよ葫蘆島(ころとう)から日本へ引き揚げるのは

なんという船だろうと甲板を歩きながら

キョロキョロあたりを探しました



船橋の下に銘板が張ってありました

まず、明治△△年とあります

なんと古い船なんだなあと思いながら

船名を見つけて我が目を疑いました



なんと「信濃丸(しなのまる)」 と

記されています

日本海に入ってくるバルチック艦隊を

発見して、「敵艦見ユ…」と東郷平八郎元帥の

旗艦「三笠」に発信したのがこの「信濃丸」です

そして日本海海戦が始まります

… … …

ついこの間まで、戦時教育を受けていた私には

「天気晴朗なれども波高し…」とか

「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ…」など

すぐ思い浮かぶのでした



この「敵艦見ユ」と打電した歴史的な船に

乗船できたことは不思議でした

少し年配の船員さんに、このことを話すと

笑顔で私の話を聞いてくれてそれから

機関室などを案内してくれることになります









葫蘆島から引き揚げ船に

2015年10月30日 18時10分36秒 | Weblog


新京から無蓋貨車の列車で遠路

葫蘆島(ころとう)にやってきました

列車でも食事時間になると、

世話係の人が用意していました



葫蘆島(ころとう)から次は

停泊している引き揚げ船に乗船するのですが

何時乗船できるか未定でした

… … …

ここ引き揚げ者収容所でも世話係の人が

食事の用意をしていました

献立は、野菜や豚肉を八宝菜のように煮込んで

油がどさっと入っていることもありました

この脂っこい料理が苦手の人もいたようでした

世話係の人は油をとらないと体力が

もたないよ…と云っていました



停泊している船は

洒落たクリーム色の貨物船が

何艘か並んでいました

… … …

後でわかったのですが

第二次世界大戦下、米国で

大量に建造された標準輸送船

リバティ船と呼ばれていました



遂に私たちのグループの乗船する

日がやってきました

並んでいるリバティ船の横を

通り過ぎて、古ぼけた日本の

輸送船に導かれていきました






葫蘆島(ころとう)に到着

2015年10月29日 17時34分30秒 | Weblog


引き揚げ者を乗せた列車は

南を目指して出発しました

沿線は 高梁畑(こうりゃん)が

地平線まで続いていて、

列車が一時間走っても景色は

一向に変わりません



途中、食事時間がくると

どこででも列車は臨時停車します

各貨車の中から代表が集まって

食事の用意をします。

… … …

子供だった私は貨車から

降りられないので、どういう段取りで

どこで調理しているかわかりません



引き揚げ列車は何日の何時に到着という

スケジュールもなく列車は止まったり、

走ったりでひたすら、目的地、葫蘆島(ころとう)を

目指します。

途中、些細なこともありましたが

奇跡的に雨が一滴も降りませんでした

… … …

幸運に恵まれて、列車の全員無事に

葫蘆島(ころとう)に到着しました



大きなバラックの小屋が並んでいて

そこへ全員、収容されました

… … …

部屋の中は東北の震災で小学校の講堂へ

避難した家族の様子と似ています

… … …

この引き揚げ者収容所のまわりは

鉄条網が張り巡らされていました

鉄条網は引き揚げ者がみだりに外出して

行方不明になるのを防ぐのか

また、外の怪しい人間から

防ぐためだったのでしょう

… … …

港には引き揚げ船が待っていました








いよいよ日本へ帰れる

2015年10月28日 18時59分54秒 | Weblog


いよいよ日本へ帰れることになりました

引き揚げ者一人は着の身着のままに

リュックサック一つで

満鉄(まんてつ)新京駅(しんきょう)か

南新京駅に大勢は集まりました

… … …

どうゆう組み合わせのグルーブでどの駅から

乗車したのか覚えていません



まず列車で中国に近い葫蘆島(ころとう)へ

行って、そこから船で日本へ帰るという

ルートでした。

… … …

新京から奉天(ほうてん)まで

行ってそこから支線で葫蘆島へ行きます

もう一つ新京→奉天→朝鮮半島→日本という

ルートもあったのでしたが、このルートで

引き揚げた人は大変だったとあとで聞きました



私たちは5人家族です。

出発駅に出掛けたのですが

引き揚げ者の乗る汽車は牛や馬を運ぶ

貨物列車でした。

駅に集まった大勢の引き揚げ者一同

唖然としてしまいました



その貨物列車は有蓋貨車(ゆうがいかしゃ)ではなく

無蓋貨車(むがいかしゃ)です。

無蓋貨車にムシロかシートを敷いて、

大勢の家族で乗り込みます。

… … …

運動会でシートを敷いた父兄席(家族)のような

有様です

… … …

雨が降ったらどうするのかと心配でしたが

とりあえず汽車は引き揚げ者家族を乗せて

出発しました








リンゴの唄

2015年10月27日 23時10分46秒 | Weblog


新京ではいつ、日本へ帰れるのか

それにたいする何の音沙汰もなく、

毎日目標もなくだらだらと

過ぎていきました

… … …

何もない満州、新京でひとつの

娯楽としては、夜になると

日本からのラジオ放送が聞こえました



新京はラジオ放送は停波したままでしたから

電波的に満州の空は、まったくクリアです

電離層が地上に下がってくる夜になると

日本のラジオ放送がはっきりと聞こえてきました



日本で戦後歌謡曲ヒット第一号は

並木路子(なみき・みちこ)が明るく歌う

サトウハチロー作詞、

万城目正(まんじょうめ・ただし)作曲の

「リンゴの唄」で、新京の日本人社会でも

ヒットしたようでした。



やっと、日本へ引き揚げのメドが立ちました

日本へ持って帰れるのは各人が背負えるだけの

リュックサック一つと現金△△円だけという

厳しいものです。

私たちこどものリュックサックは

知れています。両親は持って帰るものを選ぶのに

苦慮していました








満蒙開拓団の悲劇

2015年10月26日 23時49分31秒 | Weblog


満蒙開拓団の人々が北満から歩いて

新京にたどり着くというのは

日本で云えば東海道五十三次どころではない

見渡す限り広大な平原を止まることなく歩いて

歩いて逃亡をつづけるということでした



集団の中には身体の弱かった人や

歩けなくなった人はその場に残して、

また、乳飲み子を抱いた家族も

おられたでしょう

母親の背中で亡くなった子供はその場で

土に埋めて、逃亡の人々に遅れないよう追いかける



足手まといの我が子を現地の人々に渡したりして

兎に角、逃れる集団に遅れないよう、人間として

どん底の環境で新京へやってきたのでした

… … …

現地人に託された子供たちは

中国残留孤児として戦後、

日本で大問題になります



新京の日本人たちは、

この悲惨な話を聞いて

皆で少しばかりの金を集め、

見舞金としました








向日葵の種とねじり菓子

2015年10月25日 22時36分05秒 | Weblog


蒋介石の国府軍と毛沢東の八路軍の

内戦はしばらくして戦場がどこかへ移りました

そして住んでいた新京、

新化街は平常に戻りました



夏の満州に育つ向日葵は一抱えもある

巨大な花で、花が終わるとピーナッツぐらいの

大きさの種がいっぱい出来ます

種は、図のように縞模様、ストライプです



この種を素焼きの鍋で焼き上げて

コップ一杯いくらで売っていました

時々、歩きながら食べました

それに、ねじり菓子も売っていました



元満州赤十字病院(略して満赤=まんせき)の

前を歩いていると、ずた袋に穴を開けてそこから

頭を出した奇妙な服装、髪は茫々、

なんとも云えない真っ黒によごれた顔の集団に出会いました



早速、この集団について、日本人社会で話題になりました

日本の国策で渡満した満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)の

集団とわかりました。

北満へ侵攻してきたソ連軍から

逃れるため満蒙開拓団の人々は

新京へ歩いてきたのでした








国府軍と八路軍の軍票

2015年10月24日 20時47分31秒 | Weblog


国府軍と八路軍の装備は

小銃に機関銃、迫撃砲ぐらいの

軽装備のようでした

といっても小学六年生の私には

軍隊の装備がどんなものか

知りませんが



新化街の住居のそばにあった

半建ち女学校(ボランティア塾)を

挟んで両軍がドンパチ戦闘を始めるのです

住んでいる日本人は、

家に入って窓に畳を立てかけて

流れ弾を防ぐのでした



ある日は、国府軍が勝って

翌日に、こんどは八路軍が勝つと

一進一退の日替わり内戦でした

幸い、私の周りの日本人にはけが人が

出ませんでした。



戦が落ち着いてから家の周りを見回すと

小銃か機関銃の弾痕があちこちに付いていました

この戦で困ったことは

国府軍が制圧しているときは国府軍の軍票(ぐんぴょう)を

使いだし、八路軍があたりを制圧する日は、今度は八路軍の

軍票を使い出すのです

… … …

近所の店では、この二種類の軍票を歓迎しません

なくなった満州国発行の銀行券(紙幣)だけがいつも

流通する。不思議な時期でした。






国府軍と八路軍

2015年10月23日 22時09分42秒 | Weblog


盛京大路(せいきょうたいろ)から

新化街(しんかがい) へ引っ越してから

私の通学していた春光国民学校校舎が

野原の向こうに見えるくらい近くなりました

… … …

春光国民学校は休校状態で

閉鎖したままというか、出入り自由で

教室、職員室も何故か散らかったままでした

そんなある日、校舎が誰かの放火か不審火で

黒煙を上げて焼失してしまいました



私は六年生の授業半ばで、教室もなくなり

勉強もストップしたまま

で毎日、毎日が無駄に経過していきます

… … …

私は残された教科書で自習するほど優等生でもありません

… … …

新化街に居住している大人たちが相談して、

元先生方数人で小学六年生、中学一年生の授業が

開かれることになりました

… … …

近くの半建ちの女学校の校舎が教室でした

教室といっても未完成でしたから教壇に黒板は

ありましたが,教室の机、椅子はなく、床は土でした



毎日、家から自分の座る折りたたみの椅子と机代わりに

首から紐で支える、写生用の画板を持って行きました

授業は、英語、算数、などでした

そして、ボランティアの先生方が自分で謄写版印刷された

プリントが教科書でした。



あまり遠くない満鉄(まんてつ)のモウカトン駅に

中華民国の国府軍・蒋介石(しょうかいせき)の

兵隊が集結しているというニュースが聞こえてきました

それと北から南下してきた

共産党(毛沢東)の八路軍(パーロぐん、はちろぐん)で

内戦が始まりました。








異国の丘

2015年10月22日 19時07分28秒 | Weblog


新京で、あるとき、元関東軍兵士は

××へ集まってくれ…と知らせてきました

武装解除された元軍人が新京でも大勢

生活していたのでしょう



私の父親は民間人でしたから

集まりに出掛けませんでした

新京にいた元軍人は軽い気持ちで

集合場所に出掛けていったのでしょう



集合場所に集まった元軍人たちは

そのまま「シベリア抑留」されてしまいます
(後でわかったことですが)

日本の敗戦によって戦争は終わっているのに

満州よりもっと寒いシベリアで強制労働させるとは

ひどいことをするものです



敗戦国、日本が一方的に悪者扱いですが

戦勝国も結構、酷いことをしています

… … …

シベリア抑留から帰還した兵士が「NHKのど自慢」で

歌ったことから有名になった「異国の丘」があります。

竹山逸郎(たけやま・いつろう)の歌ったレコードを

早速、買い求めました。



後に、作曲者も「シベリア抑留」からの帰還者の

吉田正とわかりました。

その後、歌謡曲ヒットメーカーになり、

私は「有楽町で逢いましょう」が好きでした