日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

満天の星空

2012年11月19日 | インポート
朝の5時ごろに空を眺めたら、鮮やかな、まばゆいような満天の星だった。

澄み切った夜空(明け方)に、星たちがくっきりと輝き、それぞれがその存在を鼓舞しているようで圧倒されるような美しさだった。

西の空には、見つけやすいオリオン座が鎮座している。

久し振りに見た、美しすぎるような眺めだった。

200年ほど前の江戸時代に、日本全国を測量して回っていた伊能忠敬測量隊も、星空を眺めながら、要所要所で天文測量を実施し、地球の大きさを知るための資料としたり、その結果に基づいて測量結果の位置の補正を行なっていたという。

雲仙市愛野町の深浦庄屋さんの家に宿泊した時にも、天文測量を実施したという記録が伊能忠敬の測量日記に残っている。

以下に、1812年12月7日の測量日記の記述を紹介する。(長崎市在住の伊能忠敬研究会会員の入江正利氏による研究成果である「伊能忠敬・長崎県測量」より抜粋)


 晴天。朝七つ半後(午前6時過ぎ)に両手共に森山村を出立した。

後手は永井、門谷、尾形、佐助。

我等は先に愛津村(愛野町)へ行く。

肥前国高来郡川床村(諫早市川床町)に打ち止めた○床の印より初(原文の通り)める。

長野村(諫早市長野町)、有喜村(諫早市有喜町)。

同村の諫早と長崎街道(矢上への街道)の追分にて野陣で昼休み。

○矢の印迄、二十九町四十一間(3238.18m)。唐比村(諫早市森山町唐比)。

それより島原領愛津村の○合の印で海辺と街道を合流して測る。

一里二町二十一間(4183.63m)。街道は通ばかりで一里三十二町二間(7421.82m)。

是より沿海の愛津村の内、字土井の○土の印まで、沿海が六町四十五間(736.36m)。

是より止宿へ打ち上がる。又、西の海辺へ横切る。

愛津村(愛野町)の測所迄、二町三十間(272.73m)。

それより字田畑(田端)、字迫、西の海へ出る。

愛津村の内、字釜床で打ち止めて○釜の印を残す。十二町五十間五尺(1401.52m)。

二口の合計は十五町二十間五尺(1674.24m)。惣測二里十八町七間五尺(9832.42m)。

 坂部、今泉、箱田、保木、甚七は昨日打ち止めた井牟田村(諫早市森山町井牟田)より初(原文の通り)める。

森山村枝万灯、枝釜分(釜ノ鼻)。枝田尻、百姓の清次宅で昼休み。

枝江代(江城)、枝唐津、板谷川(有明川)を渡り十三間(23.64m)、川の中央が界。

島原領愛津村の○合の印で街道の手と合流して測る。

沿海を測り、一里三十四町十五間四尺(7664.85m)。

両手一同は愛津村(南高来郡愛野町乙田端)の止宿に着く。

本陣は庄屋の深浦九郎左衛門宅。両手一同一緒に宿泊する。

島原の付回役人の林鉄兵衛と奥村立助、勝手方の堂崎村の庄屋江川彦左衛門、島原村の森崎惣左衛門、島原町年寄の姉川伊兵衛、同乙名の木田勘助が(挨拶に)来る。

佐嘉の江頭伊平と荒木丈右衛門が来る。

島原より使者の奥村加兵(奥村嘉兵衛)が領主(十二代松平忠凴)より国の産物を持参し、贈られる。品物は別記。

此の夜は晴天で測る。


以上は、伊能忠敬測量隊の測量日記の一日分の抜粋。

最後の一行に、「此の夜は晴天で測る。」という記述があるが、これが天文測量を実施したという記述になる。

およそ200年前の今ごろに近い季節に、伊能忠敬測量隊は、現在の愛野町の深浦さんの家の庭で、星空を見ながら天文測量を実施している。

深浦さんのお宅は、少し高台の開けた所にあり、天文測量を実施するには好適な場所だったはずだ。。

私が眺めたような、まばゆいばかりの満天の星の中から、北極星などを見つけて観測したのであろう。

水平面から北極星を仰ぎ見る高度角は、おおむねその地点の緯度と同じ数値を示す。

地球を球体と仮定して、その極北方向の無限遠に北極星が存在している図を描けば、その概念は理解しやすい。

要するに、地軸の方向と限りなく平行に近い位置に北極星が存在しているという事になり、地球上のその地点における水平線は、地球球体の円の接線方向となる。

地球を地軸に平行に分断した断面の中で、そのような図形を描いて考察してみれば理解がしやすい。

厳密に言えば、北極星は地軸の延長線上には存在してはいないので、時々刻々と地球の極北方向を中心にしてわずかばかりずつ回転している。

また、地球は球体ではなく、東西方向に扁平な回転楕円体であるから、上記の概念は正確に言うと微妙に違うが、おおむね合っている。

久し振りに見た満天の星からの連想。




豊田一喜