怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

細川重男「鎌倉幕府の滅亡」

2024-02-14 15:49:58 | 
前にレヴューした呉座さんの本に紹介してあったものです。

あんなに堅固だったはずの鎌倉幕府が何故あんなに簡単に滅亡してしまったのか?
その理由を鎌倉幕府の権力構造の変遷から解き明かしています。
そんなに専門的なものでもなく文章も読みやすく、足を痛めてやることもない中で仕方なくと言う面もありましたが結構すいすい読めました。
鎌倉幕府成立当初は、源頼朝と結びついた東国武士団を主体とする御家人を構成員とした組織で、建前としては鎌倉殿の前に平等であった。
頼朝死後は将軍の地位は若い頼家が継承したが、幕府としては13人の合議制の最高議決機関が設置される。これはまさに大河ドラマの「鎌倉殿の13人」の世界なのだが、壮絶な御家人間の抗争となる。その経過が簡単にまとめられていますが、梶原景時滅亡、阿野全成誅殺、比企の乱、源頼家暗殺、畠山合戦、牧氏の変、そして激しい内戦となった和田合戦などなどすさまじい内部抗争でまさに仁義なき戦いの世界。権謀術数の限りを尽くし最後は剥き出しの暴力で決着をつける。「鎌倉殿の13人」を見ていただけに、登場人物を演じていた役者の次々と名前が頭に浮かんできて、ドラマを見る前に読んでいたらもっとわかりやすかったか。
抗争は北条義時の勝利で終わったのだが、その結果源実朝暗殺をもたらし、後鳥羽上皇による承久の乱が勃発するが、幕府軍が朝廷軍を撃破。
北条義時は政所別当、侍所別当を兼ねる執権として幕府最高指導者となり、幕府の権力を集中する。その息子泰時の時代になると政治訴訟制度を整備し「関東御成敗式目」を発布、評定衆を設置、合議制と法治主義に基づく執権政治体制が完成する。
それでも泰時死後には執権派と将軍派との抗争宝治合戦が勃発、執権派が勝利。その後訴訟制度を整備して権力基盤の安定のため迅速で公平な裁判と言う御家人たちのニーズにこたえる政策を実行、幕府としては安定期を迎える。
執権政治の体制が完成する一方、幕府の公職である執権職と北条氏家督である得宗という私的地位の分離が起こり元執権である北条氏家督が幕府の最高指導者となっていく。
やがて時宗の代になると二月騒動を経て将軍権力の代行者として将軍を制度的に棚上げし得宗専制政治となるのだが、鎌倉幕府は安定期と言えども内部抗争を繰り返し要所要所で敵対者を暴力で排除している。そう思うと平安時代には権力闘争はあっても暴力的に抹殺することはなく、まさに平安な時代。京都の朝廷から見れば鎌倉の武士団は暴力団に他ならない。
時宗は独裁的権力を得て蒙古襲来「元寇」に対応していく。時宗独裁体制でなければ元寇という未曾有の危機に対して機敏に対応できたかと思うと歴史の妙を感じるのですが、個人独裁はあまりにも時宗に権力が集中したため時宗死後にその体制が問われる。
特権的支配層の代表である寄合衆の合議機関である寄合が最高議決機関となる。それでも例によってより寄合衆の中での主導権争いは絶えず、平禅門の乱、霜月騒動、嘉元の乱と続く。
時宗は対蒙古政策のために西国の非御家人を正式に御家人にし、全武士階級を幕府の支配下に組み入れようとしている。しかし全国の武士を統制するには幕府の実務行政能力を超えており、地方支配機関への分権しか対応できない状況となっていた。それでも幕府中央要職は世襲によって特権支配層に独占されており、非御家人の御家人化は旧来の特権身分のはく奪であり、地方機関への分権や守護の権限強化は鎌倉幕府の中央集権制の否定となる。独裁者時宗亡き後には強権的に推し進めることはできずにその試みは霜月騒動を経て放棄され、御家人制度はこれまでと同じく閉鎖的なものにとどまった。
鎌倉後期の御家人たちの大半は政権中枢から排除される一方各種軍事的経済的負担は課せられ続けていて、東国武士政権の性格から本来関わる必要のない西国の諸問題にも振り回されるようになってしまった。
現実の武士社会に適合したニーズに的確・迅速に対応するための守護探題といった地方機関に支配権を付与すると言った御家人制の根本的な改革が必要だったのだが、その萌芽は霜月騒動によって葬られてしまった。その後の幕政改革は小手先のものとなり、多くの武士の支持を失った特権階級の支配する鎌倉幕府はあっけなく滅んでしまう。
鎌倉幕府を滅ぼした動乱は武士たちにとっては新たな武士社会の秩序を構築するための源平合戦に続く二度目の熾烈で長い「いっせい殺し合い」だった。
この動乱後に成立した室町幕府の体制は守護による間接統治の体制を取り、武家社会の中央集権から地方分権制への体制変換だった。
鎌倉幕府が滅亡した理由として得宗北条高時が極悪非道で統治能力がなかったからなどと言われるが、高時の個人の資質よりも幕府を牛耳ていた特権支配層が鎌倉では盤石な体制であっても全国の武士からは遊離していて新しい武士のための体制が求められていたことが、あまりにもあっさり崩壊した理由なんだろう。




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