喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

バレンタイン・デー

2012-02-15 | ブログ
 2月14日、バレンタイン・デー。

 昔は、ドキドキしたものです。
まるで自分の人気度をはかるものさしのように思っていたり。

 今は、そんなに気にすることもなくなりました。

 妻と娘たちから大きな箱に入ったチョコをもらいました。
一人では食べきれないので、みんなで食べました。
プレゼントする方もそれを考えていたのかも。
 でも、そうやってみんなで食べるのもいいものです。

 職場の方、そして教え子から。

 うれしいものでした。

             岬人

  


 

「積小為大」  訪問者数、過去最高を更新

2012-02-12 | ブログ
 今日の佐田岬は、ぬけるような青空。

 年に比べると田舎には不便なことがけっこうある。
 なかでも医療と情報の不便さが大きいと思っているが、
光ネットがひかれ、インターネットによる情報の不便さは感じなくなった。

 佐田岬の超田舎にいても世界とつながることができる。
フェイスブックを利用するようになり、そのすごさに驚いている。
これにより山梨や京都の方とも新たにつながりを持つことができている。
 ただ、デジタルは道具であり、アナログを大切にしなければならないと考えているので、
いつかこの人たちとも実際に会いたいと思っている。

 毎日書いている喜久家プロジェクトブログも2年になった。
書くことが苦手な私にとってこれはすごいことで、よく続いている。

 自分の感性をふり返りながらも、
読まれることを意識して書いている。
相手を意識して書くということが、自分とだけ向き合う日記と大きくちがうところ。

 初めの頃は、訪問者が20人程度で、
その人たちの顔が見える人数だった。
 それが少しずつ増え始め、全く知らない方からコメントが書かれることもでてきた。
しかも訪問者数が100人を超し始めると、ほとんどの方の顔が見えない。

「毎日、楽しみにブログを読んでいます。」
と言われて、この方も読んでいてくれたんだ、と気づかされることも多々ある。

 先週の訪問者総数が、過去最高の1542人となった。
1日平均220人の方が読まれたことになる。
 2年間をかけて、10倍以上の訪問者数となった。
続けることは、何とすごいことだろう。



 尊敬する双海町の若松進一さん風に言えば、
たまに書くことは平凡なこと。
でもそれを毎日欠かさず書き続けることは、もう平凡ではなく、それを非凡という。
 つまり平凡と非凡の差は、持ち得た能力の差というよりも
「続けること」の差が大きい。
 二宮尊徳のいう「積小為大」へとつながる。

 今日もできる限り、読んでくださるみなさんの顔を思い浮かべながら
ブログを書いている。

                    岬人

 

田舎で飲むジャック・ダニエル old No.7

2012-02-11 | 田舎暮らし
田舎で飲むジャック・ダニエル old No.7


 初めてジャック・ダニエルを飲んだのはアメリカコロラド州へ研修に行った時だった。
この人こそアメリカンといった風貌のトム・ハワースに出会った。
ひげ面で体格の良い彼は、いつも楽しく・思いきったことをさせてくれた。

 テネシー・ウイスキーのジャック・ダニエルが大好きで、
私もよく飲ませてもらった。
 日本に帰国するためあいさつに行ったときも
紙袋に包んだジャックダニエルをお土産として私に差しだした。
大らかな彼の気持ちがとてもうれしかった。

 あれから8年、ジャック・ダニエルをよく飲んでいる。
今日もビールを買いに行った店で目にとまり、ついつい買いこんだ。
そして家に帰り、ストーブの前で味わった。

 その箱には次のようなことが書かれていた。

『時とともにすべてのものは変化します。
しかし、ジャック・ダニエル蒸留所が造り出すテネシー・ウイスキーの製法は、
100年以上経った今も変わっていません。
 時間のかかるチャコール・メローイング製法で一滴一滴ろ過した芳醇な味わい。
まろやかで均整のとれた琥珀色のウイスキー。

 このジャック・ダニエル・オールドNo.7が初めて金賞に輝いたのは、
1904年セントルイスで開催された世界博覧会でした。
翌1905年にはベルギーで開催された世界博覧会においても金メダルを獲得しています。
そして次々と国際的な博覧会で7つの金賞を受賞していきます。
ジャック・ダニエル・オールドNo.7がこれまでに受けた数々の栄誉は、
ボトルに貼られた黒ラベルのなかに、みつけられるはずです。

 そして、ウイスキーに相応しい個性的なデザインと、
選ばれた四角いボトルも100年前から変わっていません。
現在ではジャック・ダニエルのシンボルとして世界140カ国以上で親しまれています。

 ジャック・ダニエル・オールドNo.7は、決して変わらない。
変えてはならないものを静かに語っているのです。』
 

時代が変わっても変わらないもの。
変えてはならないものは、田舎にもあります。

 ストーブの炎を見ながら、
ほろ酔い気分でそんなことを考えていました。


                岬人


平礒の大タブの樹

2012-02-09 | ブログ


 巨木にひかれることが多い。
幹の根元にいると安らいだ気持ちになる。

 平礒のホンダという所にあるタブの樹は、
その大きさで県内有数らしい。

 地元では、この樹を根本にある大きな石とともに山神様と呼んでいる。 
久しぶりにそばに寄ってみた。

 

 しばらく前の台風で枝が折られたものの、
外に向けて張り出す枝の大きさは、まるで山のようだ。
 樹齢は、何年ぐらいだろう?
 この郷の様子をずっと見つめ、見守ってきたタブの樹。

 たくさんの鳥たちもこの樹で羽を休めたことだろう。
 私も幼い頃、夏の日差しをよけるためにひと休みしたものだ。

 きっとこれからも立ち続け、見守り続けていくことだろう。
久しぶりの樹の下で、久しぶりに安らいだ気持ちになった。



 郷にはそんな場所がいくつもある。
 


佐田岬みつけ隊 「どこよりも碧い・青い佐田岬半島で…」

2012-02-08 | 佐田岬の風景
 伊方町町見郷土館のサポーターに「佐田岬みつけ隊」がある。
私も名前だけは連ねているものの、活動に参加していないのが心苦しい。
 
 それでも毎月学芸員の高嶋さんから、みつけ隊通信が送られてくる。
今月号には新メンバーの紹介がされていた。
その方の文章があまりにも心に残った。

『アコウと大楠に逢いたくて八幡浜駅から特急バスに乗りました。
細長く海に突き出た半島は、地図で感じたギザギザとした厳しさもなく、
優しさにあたたかく縁取られていました。

 そしていつしか眼下に広がる2つの海は、
頭上の天空とつながり、
まるで大自然が私を青いトンネルの中に誘ってくれたような、
ピュアな至福感につつみこまれました。

 私が隊員に参加させていただきましたのは、昨年、
講演の機会をいただき、町見郷土館をお訪ねしたのがご縁の始まりになります。
 
 館内では、裂織りのベストや背負子体験をしましたが、
帰り道、坂道を背負子を背に、しっかりとした足取りで元気に上がって来るおばあさんに出逢いました。
 そのあまりにも元気な足取りやお姿から、
現在の生活の中に綿々と息づく、先人たちが誇りと共に、
今に伝えようとしている郷里への愛のようなものの熱さに感動させていただきました。』


 

 よその方が感じられた佐田岬半島。
その感性がとても新鮮で心に響く。

 碧い、青い佐田岬。

               岬人

柑橘収穫の幸せ

2012-02-07 | ブログ


 年が明けて、毎週のように休みは家族総出で収穫作業をしている。
 そこで感じたことがある。

 体は疲れるのだが、心はさわやか。
なぜだろう?

 手が届かないため、木に登って収穫していて気がついた。
目に入るのは、甘夏の黄色、葉っぱや山の緑、枝の茶色、海や山の青。
自然で目にやさしい色の数々。



 聞こえてくるのは、打ち寄せる波の音、鳥たちのさえずり、そして収穫しているみんなの笑い声。
自然で耳にやさしい音の数々。



 鼻に届くのは、甘夏の香り、甘夏の木の匂い、土の匂い。
自然で鼻にやさしい香りの数々。
すーと体の中に入ってくる。



 
これらが、心さわやかなもとだと気がついた。

 自然に抱かれて、土の上に立つ。
そのすばらしさを体は知っているようだ。

 収穫作業をしながら感じる幸せ。
ここにも幸せがあった。

                岬人


みかん山カフェ

2012-02-06 | ブログ
みかん山カフェ


 昨日は、休みだったので家族総出で柑橘収穫。
 雇って手伝ってもらっている二名津の石井さん、三崎ALTのハリソン、
喜久家ボランティアのリタの協力もあり、
総勢10名の収穫作業。

 10時になり、コーヒーブレイク。
みかん畑にシートをしき、コンテナをテーブル替わりにし、自然いっぱいのカフェに早変わり。

 ここでのコーヒーやお菓子のおいしいこと、おいしいこと。
 子どもたちは特にこのひとときを楽しみにしている。

 楽しみはいろんなところに転がっている気がする。


                  岬人

佐田岬灯台から未来へ叫べ 僕らの夢

2012-02-05 | ブログ

 
 2月3日、立春を前に少年式が行われた。
江戸時代でいえば元服のようなもの。

 しっかりとした志を立て、自分の人生を歩んでいく。
そんな自覚をする日。

 少年式の後の記念行事では、名取小学校から佐田岬灯台までの30㎞を歩いた。
私も初めてだが、子どもたちと体験を共にすることにした。

 日本一細長い佐田岬半島。
それぞれの地区ごとに景観もちがっていることを肌で感じた。
それを楽しみながら、時にはおしゃべりしながら、
時には一人でもの思いにふけりながら一歩一歩前へ進んだ。

 10時30分に旧名取小学校を出発し、12時30分に二名津到着。
ここで昼食のおにぎり弁当をとる。
まだ半分にも来ていない12㎞地点なので、口につめこむような昼食となり再出発。

 しかし、15分ほどの休憩で足が固まり始めていた。
急に足取りが重くなり始め、違和感を感じながらちょうど半分の三崎港あこう樹まえを通過した。
ここから与侈口まで一気に上り、そこから串のみのこしまでまた一気に下がる。
そしてさらにまた正野藤実まで一気に上るというアップダウンをくり返す。

 足を止めると先ほどのようなことになるので、
みんな止まらずに佐田岬灯台をめざす。
しだいに口数も減り、足の痛みが気になり始める。
 長浜をまわればもうすぐそこ。
重たい足を前へ前へ。
そしてついにゴールの佐田岬灯台駐車場が見えた。
 3人のお母さん方と一緒にゴール。 
時間は夕方5時。
もう間もなく夕日の時刻。

 みんな完歩した満足感と痛さとで生きていることを実感した。



 その後、九州に沈んでいく夕日に向かって、
子どもたち一人ひとりが未来へ向かっての決意を叫んだ。

 みんな今日の日のことは、一生忘れることがないだろう。
すばらしい想い出ができた。

 そんな余韻にひたりながら、
夕日は沈んでいった。

 

 

田村菓子舗 ~青石ワークショップ~

2012-02-04 | ブログ
田村菓子舗 ~青石ワークショップ~


 2月4日、立春。
先週から厳しい寒さが続いていますが、日の入りが遅くなるなど
春が近づいているのもまちがいないようです。

 日本一細長い佐田岬半島でお菓子屋を営む田村菓子舗があります。
現在跡継ぎをしているよっくんで三代目。

 その田村菓子舗が店舗改装することになりました。
その床に地域の青石をしき、デザインするというアイディア。
しかもその活動を地域の人たちに呼びかけ、楽しんでもらおうという考え。

 私も子どもたち3人と喜久家ボランティアのリックとリタを連れて参加しました。
店の前にはすでに大勢の人たちがつめかけ、
その後も1人増え、2人増え。
子どもから大人までが集まりました。

 最初に三代目のよっくんからあいさつがあり、
次に設計士の眞田井さんから青石やデザインの説明がありました。
 そしていよいよ活動がはじまりました。
青石選び、青石に名前やメッセージ書き、つわぶきの花・ウニをイメージしたデザインを
思い思いにモルタルに埋めていきました。

 途中、ぜんざいや甘酒、金太郎芋タルトがふるまわれ、
そのおいしさに思わず顔もほころびます。

 全体ができたときは床に花が咲いたようにかわいく、
完成がとても楽しみです。

 地域コミュニティーの集いの場になればという
三代目よっくんの思いは、たくさんの人たちをひきつけ、
未来に夢を与えました。

 すばらしい地域コミュニティーが、ここ佐田岬二名津にあります。

                   
                         岬人

「少年式」 ふるさとウォーク30㎞ ~夕日に誓うぼくらの未来~

2012-02-03 | ブログ
 明日2月4日は、立春。

 今朝の佐田岬は、瀬戸地域でかなり路面が凍結していました。

 今日2月3日は、愛媛県では多くの中学校で少年式が開かれます。
 
 少年式の後は、記念行事を行います。
「ふるさとウォーク30㎞ ~夕日に誓う僕らの未来~」

 ふるさと三崎地域を30㎞歩きます。
旧名取小学校を10:30にスタートし、各地区をまわり、ゴールは佐田岬灯台。
そこで夕日に向かって自分の誓いを叫びます。

 私も保護者としていっしょに歩きます。



 

 

生まれ育った家

2012-02-02 | ブログ


 写真の家は、平礒喜久家の離れにある小屋。
記憶をたどると、物置小屋として使っていた。
農作物を乾燥させたり、保管したり、道具を置いていた。
雨降りの内職として、おセキばあちゃんが作業していたことを思い出す。

 あれから、30年以上が経つ。
小屋にはツタがからまり、「ツタのからまる小屋」となっている。
おまけに屋根から雨もりがしていて、このままだと崩れ落ちてしまいそう。

 地区には、空き家がありその結末は何ともさびしい。
かつては、そこにもにぎやかな家庭があった。
家族の笑い声がこだまする。

 喜久家もそんなさびしさがただよう一軒だったが、
喜久家プロジェクトを起こすために、5年前持ち主の河野喜久雄さんに相談した。
「過疎化する平礒の将来が心配なんよ。
国内外の若者ボランティアに来てもらって、地域に新しい風を吹かせたいんやけど、
そのために空き家を貸してほしい。」

 返事は即答で、
「うん、わかった。どうぞ、使ってくれ。」

「喜久家」はこうして始まった。
喜久雄さんの気持ちを大切にしたく、
ボランティアが生活する家を「喜久家」とした。
喜びがずっと続く家という願いもこめて。
 喜久家の命名には、そんな秘話があった。

 喜久雄さんが昨年末ボランティアがいなかった時期に、家や小屋の様子を見に帰り、
いたみがひどくなった小屋をながながと見ていた。

 そして喜久雄さんが出したこたえは…。