今さら10月のことを記事化してすみません。
10月26日の午後1時過ぎには、大阪の梅田にいた。
その日は、朝に梅田行きのバスに乗り、梅田から阪急電車で大阪府茨木市にある総持寺に行っていたが、その後、再び阪急電車で梅田に戻ったのである。
そして、そのあと、地下鉄御堂筋線の乗り場へ向かっていった。
地下にある御堂筋線のホームに入ると、千里中央行きの電車に乗った。
御堂筋線は、大阪市街地を南北に貫く地下鉄路線で、路線は北は江坂駅までだが、江坂からは北大阪急行に直通運転しているため、実質は、千里中央まで1本の路線になっている。
電車は、中津、西中島南方、新大阪、東三国、江坂の順に停車した。
中津と西中島南方の間で、電車は地下から地上に出て、高架を走るようになった。
それからしばらくは、車窓はオフィスビルが多かった。
江坂からは、北大阪急行に乗り入れるため、乗務員が交代した。
江坂を出てからは、車窓は、オフィスビルに変わって、集合住宅が目立つようになった。
そして、次の駅は、緑地公園である。
電車が緑地公園駅に止まると、下車して、改札の外に出て、駅の西に向かって歩いた。
その途中、遠足に行っていたと思われる小学生の集団何組かとすれ違った。
西に向かって歩き、道路を横断すると、服部緑地である。
そこは、広い緑地公園だった。
緑地公園をしばらく歩くと、日本民家集落博物館に到着した。
各地の古い民家を移築して展示している屋外博物館である。
入り口は、「河内布施の長屋門」である。
長屋門に、入場券の窓口があり、そこで券を購入して館内へ入った。
入って右手に向くと、白い土蔵があった。
それは、「大阪堂島の米蔵」だという。
説明によると、堂島川沿いに残されていた唯一の米蔵である。
さらに歩くと、古民家ではないが、昔の人たちの生活に欠かせない道具類が展示されている建物があった。
また、昔の民家の茶の間を再現した場所があったが、家具類も、現代では見られないものだった。
さらに歩いていくと、大柄な建物である合掌造りの家が目に入った。
それは、「飛騨白川の合掌造り民家」だった。
その民家は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
その民家は、内部に入ることができた。
靴を脱いであがると、囲炉裏のある部屋があった。
また、建物内では、その民家が飛騨地方にあった当時の生活に欠かせないものが展示されていた。
そのあと、少し歩くと、入母屋屋根の民家が目に入った。
それは、「摂津能勢の民家」だった。
その民家は、江戸時代初期の建築と推定されていて、その博物館に移築されている民家の中では最古だという。
それから少し歩くと、横長の母屋と母屋の左手に小さな寄棟屋根の納屋のある民家が目に入った。
「日向椎葉の民家」で、宮崎県の椎葉村から移築されたものだという。
その民家をあとにして、少し歩くと、柱と茅屋根だけの建物があった。
それは、「奄美大島の高倉」である。
それから少し歩くと、茅屋根・茅壁の民家に立ち寄った。
それは、「信濃秋山の民家」である。
その民家は、長野県北部の新潟県との境に近い秋山郷から移築したもので、そのタイプの民家は、全国で唯一、その建物のみが保存されているという。
屋根だけではなく、壁も茅なのが目についた。
また、その建物では、ボランティアガイドによる親切な説明も聞くことができた。
壁は、すべて茅だけでできていて、板壁や土壁はない。
また、内部の床も、囲炉裏はあるものの、板は使われてなく、地面に筵を敷いただけだった。
それでも、夏は涼しく、冬は暖かく過ごせたというそうである。
前述のとおり、その形態の民家は、本来建っていた秋山郷には既になく、その博物館に移築展示されているものが、唯一残っているものだという。
本当に貴重な建物である。今後も大切に残して欲しいものであるが、各所に痛みが目立っていた。茅の調達や葺き替えなどの経費の確保が難しくなっているという話を聞いた。
今後も、大切に維持され、いつまでもきれいな状態を保ってほしいと思う。
都合により、今回はここまでとさせていただきます。
続きは、また後日書かせていただきます。