「安全な」食べ物-東大名誉教授 養老 孟司
賞味期限切れの食品が問題になった。そうでなくても、雪印をはじ め、食品の表示関係の不正が多い。そういう問題がちゃんと摘発さ れるのだから、日本社会もずいぶん規則どおり、きちんとしてきたと 思う。これからも、その意味でどんどん良い時代になっていくであろ う。私が育った時代は食糧難で、食べ物があれば幸いだった。あの ころ、賞味期限ってあったかしら。食べ物があれば、アッという間に 食べてしまう時代だったから、食べ物を見た瞬間がつまり賞味期限 だった。大勢の兄弟でもいようものなら、それで当然だった。目に入 ったら即食べないと、だれかに食べられてしまう。いまはそんな心配 はない。いい時代になった。これからもどんどん良くなるであろう。若 い人は信じられないだろうが、お米なんてまったくなく、みそ、しょうゆ うもない時代だった。私が食べられたものはカボチャとサツマイモだ け。だからこの二つは、もう私は食べない。出てきたら、かならず残 す。やっとお米が食べられるようになり、お正月におもちが食べられ る時代になった。そのおもちを大切にしまっておくと、カビが生えた。 その青いカビを落としておもちを食べた。カビの全部は落ちなかったと 思うが、私の母親は医者だったから、ペニシリンが青カビから作られ ることを知っていた。きっと年中、オデキをつくっていた息子の健康を 考えて、ペニシリン入りのおもちを食べさせていたのであろう。親の 気持ちはありがたいということが、この年齢ににってようやくわかる。
製造年代不詳
辻調理師専門学校をつくった辻静雄さんに、以前ごちそうになったこ とがある。おいしいものをさんざん食べさせていただいて、最後に食 後酒としてコニャックが出た。レッテルを見ると、ア-ジュ・アンコニュ とフランス語で書いてある。年代不詳という意味だというくらいは、私 でもわかった。ひどいものである。当時は作った時期もわからないも のを、日本人に売りつけていたらしい。たいへん高価なものだったと 思うが、おいしかったからどんどん飲んだ。いまはそんなことはあるま い。賞味期限が書いてあるはずである。作った年代が不詳な飲み物 なんて、人に飲ませるものではないと思う。まだどこかにあるかもしれ ないが、連絡してくだされば、私が引き取ってあげてもいい。懐かしい から大切にとっておきたい。私事だが、今年は古希になった。家内は 還暦である。どちらも老眼だから細かい字は見えない。ときどき賞味 期限から数年遅れの缶詰なんかを食べさせられる。娘はまだ目が見 えるから、すぐに気がついて、お母さん、ダメじゃないの、としかってい る。いちおう私は科学の知識がある。化学変化の速度は、温度が10 度高いと二倍になる。それなら常温で2年もつものなら、冷蔵庫では4 年以上はもつだろうと思う。食品の変化はおおかた化学変化に違いな いからである。そう思って家内の味方をするが、若い人の勢いにはか なわない。
健康にも留意
いい時代になった。安全なものしか、食べられないようになってい る。将来は私たち夫婦のような、目の悪い老人のために、賞味期 限切れの食べ物を食べようとすると、ブ-ッとブザ-が鳴るように なるだろうと思う。目が悪い弱者のことを考慮するのは、福祉として 当然だからである。食品に限らず、健康に留意することが、ごく普 通になった。ここでも良い時代になりつつあると思う。たばこはめっ たなところで吸えないし、来年は東京都のタクシ-も禁煙になるとい う。私の住んでいる神奈川県はすでに夏ごろから禁煙になっている。 とてもすばらしい進歩だと思う。こうしてたばこも酒もだんだんなくなっ ていくに違いない。私が通った中学と高校はカトリック系で、ドイツ人 の神父さんが校長だった。この学校の生徒だったころには、もちろん 酒もたばこもやらなかった。私が育った理想の青春時代に向かって、 日本社会全体が動きつつある。古希の老人も、これなら安心して死 ねるというものであろう。思い残すことはない。