今週から3学期ですね。健康に気をつけて、学業に励んでください。
先週は、元旦が休日であった以外は普通の一週間でした。東京が木曜まで休みだったので、新規の仕事が殆どなく、年末に滞留していた作業の消化で、ごく通常の仕事量をこなしました。
木曜日に蒸し器(鍋の中に置いて使う台のようなもの)を買い、週末に中華まんじゅうと蒸し餃子、湯葉巻きの加熱に使ってみました。調理方法に蒸すという選択肢が増えただけで、料理の可能性が大きく広がったような気がします。まんじゅうや餃子のような半調理品を買うのは久しぶりですが、まんじゅうは
仕方ないにしても、餃子は、やはり自分で作ったものに比べると食べた時の満足感のようなものが足りない気がしました。おそらく、味は半調理品のほうがおいしいでしょう。でも、料理は単に旨い不味いだけではないように思います。
料理だけでなく、すべてのものに、作り手の想いや気迫のようなものが込められていると思います。その想いの重さが消費者に、意識されるとされざるとを問わず、伝わるのだと思います。それは、なにも料理のような個人的なものだけではなく、工業製品にも言えることでしょう。消費者に伝えたいものがあっ
て作られるものは、自ずと存在感があるように感じられます。文章も然りです。論語に「巧言令色鮮矣仁」という言葉がありますが、言葉の背後にある意志が、伝わる相手には伝わるものです。
小林秀雄が友人である今日出海との対談のなかでこんなことを言っています。
「自己を紛失するから空虚なお喋りしかできないエゴイストが増えるのだ。自分が充実していれば、なにも特に自分のことを考えることはない。自分が充実していれば無私になるでしょう。それは当たり前な事でしょう。それが逆になっている。手前が全然ないから他人に見放されると不安になるでしょう。だか
ら画家が売り絵を描くのも、文士が売り原稿を書くのも、みんな、あれは不安なんですよ。ただ金のためじゃないと思うね。寂しい人ですよ。僕はそう思っている。」
私は、日常生活を通じて小林の言う「自己」というものを充実させたいと思うのです。料理も掃除も仕事も、ひとつひとつは何ということもないことですが、そこに自分というものを見出したいと思うのです。なかなか具体的にどうこうと説明できることではないのですが、生活の所作から仕事の選択、対人関係の選択に至るまで、全ては自己の表現です。だから、そうしたひとつひとつのことに、まずは注意を払い、次に変えるべきところは変えていき、自分のありたい姿というものを模索していきたいと考えています。
では、また来週。