「月をさす指は月ではない」という。禅の言葉で、覚りを語る言葉を覚りだと思ってはいけない、という意味だそうだ。言葉がなければ、物事を伝えることはできないが、言葉は伝えたいことそのものではない、ということでもある。
ひとつひとつの言葉の意味は、辞書にあるような通り一遍のものでしかない。しかし、それらがつながり合うと、ある言葉が伝える内容が、語り手と聞き手の組み合わせによって大きくも小さくもなる。言葉の背後にある、語り手と聞き手の経験や考えの奥行が言葉のなかに織り込まれるためだろう。
経験は、体験とは違う。「経験を積む」という言葉はあるが、「体験を積む」とは言わない。経験は、人生の上での出来事のことではなく、その出来事を体験した結果として何事かを了解することだ。物事を了解するには、それを受け容れる下地が必要だ。例えば、ジグソーパズルのピースがひとつ与えられた時、それがはまる場所がないと、そのピースは意味を成さない。ところが、ある程度ピースが埋まっていると、その新たなピースによって物事が明確になったり、全く別のものが見えてきたりする。下地の無い人間は、どのような言葉を与えても、それを了解することができないのである。
物事は常に変化している。新しい経験を積んで下地を常に整えておかないと、その下地が役に立たなくなってしまう。ここがジグソーパズルと人生の大きな違いである。毎日、どんなに小さな事でもいいから、何かひとつでも新しいことをやってみる、そんなことを心がけて生活をしてみたら楽しいかもしれない。
と、まぁ、こんな内容の手紙を子供の誕生日に書き送った。人と話をしていて、おもしろいと感じる相手とつまらないと感じる相手の違いが、この下地にあるのではないかと思う。子供は心身ともにこれから成長を続けるので、経験云々など意識しなくても、ある程度下地は形成されていくだろう。しかし、私の年代になるとそうはいかない。放っておくと、あっという間に下地は薄く狭くなってしまう。類は友を呼ぶ、という。日々、人と話をしていて、つまらない奴だと思う相手が多いとしたら、自分の下地が小さくなっていることを疑わなくてはいけない。本来なら年齢を重ねる毎に下地が広く厚くなり、事に触れて、そこに何か新しい事を見出し、日々の生活は楽しい驚きと了解に満ちるはずである。それが歳を取ることの面白さでもあろう。毎日の生活が面白くないとしたら、それは自分が成すべき最低限の努力を怠っているということだ。子供に手紙を書きながら、自戒した次第である。
ひとつひとつの言葉の意味は、辞書にあるような通り一遍のものでしかない。しかし、それらがつながり合うと、ある言葉が伝える内容が、語り手と聞き手の組み合わせによって大きくも小さくもなる。言葉の背後にある、語り手と聞き手の経験や考えの奥行が言葉のなかに織り込まれるためだろう。
経験は、体験とは違う。「経験を積む」という言葉はあるが、「体験を積む」とは言わない。経験は、人生の上での出来事のことではなく、その出来事を体験した結果として何事かを了解することだ。物事を了解するには、それを受け容れる下地が必要だ。例えば、ジグソーパズルのピースがひとつ与えられた時、それがはまる場所がないと、そのピースは意味を成さない。ところが、ある程度ピースが埋まっていると、その新たなピースによって物事が明確になったり、全く別のものが見えてきたりする。下地の無い人間は、どのような言葉を与えても、それを了解することができないのである。
物事は常に変化している。新しい経験を積んで下地を常に整えておかないと、その下地が役に立たなくなってしまう。ここがジグソーパズルと人生の大きな違いである。毎日、どんなに小さな事でもいいから、何かひとつでも新しいことをやってみる、そんなことを心がけて生活をしてみたら楽しいかもしれない。
と、まぁ、こんな内容の手紙を子供の誕生日に書き送った。人と話をしていて、おもしろいと感じる相手とつまらないと感じる相手の違いが、この下地にあるのではないかと思う。子供は心身ともにこれから成長を続けるので、経験云々など意識しなくても、ある程度下地は形成されていくだろう。しかし、私の年代になるとそうはいかない。放っておくと、あっという間に下地は薄く狭くなってしまう。類は友を呼ぶ、という。日々、人と話をしていて、つまらない奴だと思う相手が多いとしたら、自分の下地が小さくなっていることを疑わなくてはいけない。本来なら年齢を重ねる毎に下地が広く厚くなり、事に触れて、そこに何か新しい事を見出し、日々の生活は楽しい驚きと了解に満ちるはずである。それが歳を取ることの面白さでもあろう。毎日の生活が面白くないとしたら、それは自分が成すべき最低限の努力を怠っているということだ。子供に手紙を書きながら、自戒した次第である。