「芸術新潮」の最新号に日本民藝館で開催中の特別展「西洋家具の美」が紹介されていたので、子供と一緒に出かけて来た。出展品の中心は18世紀の英国家具、なかでも椅子である。美しいとは言っても18世紀の家具である。木は痩せ、摩耗も顕著で、家具という実用品から美術品あるいはゴミの領域へと入っている。
木の変化については、木工を始めた6月中旬以降のこのブログサイトで何度か書いている。わずか1週間、それどころか切断してすぐに、木は微妙に動く。塗装を施してあるとは言え、百年単位の時間を経れば、完成直後の姿とはかなり違っているはずだ。その年月を、目の前の家具の色艶、摩耗、それらを含めた全体の佇まいに読み取る感性や美意識がある人には垂涎の展示品であるに違いない。
昨年9月に一時帰国した折りに、やはり子供と一緒に茂原近くの山のなかにあるas it isという美術館を訪れた。ここで表現されている美意識と、この「西洋家具の美」との間に近しいものが感じられる。
姿形が美しいということもさることながら、モノは使われてこそ価値がある。使われる、というのは使い手である人間との間に関係が構築されるということだ。関係そのものは目には見えないけれど、大事に使われたものなのか、粗雑に扱われたものなのかは、年月を経てもどこかしらに痕跡をとどめているものである。
モノが美しい、というときの「美しさ」は、そこにある物理的な要素と、そこに反映されている時間的要素と、それらを読み取ることのできる人と出会うという運的要素とが揃った時に、感じる人にだけ感じられるものなのだろう。
木の変化については、木工を始めた6月中旬以降のこのブログサイトで何度か書いている。わずか1週間、それどころか切断してすぐに、木は微妙に動く。塗装を施してあるとは言え、百年単位の時間を経れば、完成直後の姿とはかなり違っているはずだ。その年月を、目の前の家具の色艶、摩耗、それらを含めた全体の佇まいに読み取る感性や美意識がある人には垂涎の展示品であるに違いない。
昨年9月に一時帰国した折りに、やはり子供と一緒に茂原近くの山のなかにあるas it isという美術館を訪れた。ここで表現されている美意識と、この「西洋家具の美」との間に近しいものが感じられる。
姿形が美しいということもさることながら、モノは使われてこそ価値がある。使われる、というのは使い手である人間との間に関係が構築されるということだ。関係そのものは目には見えないけれど、大事に使われたものなのか、粗雑に扱われたものなのかは、年月を経てもどこかしらに痕跡をとどめているものである。
モノが美しい、というときの「美しさ」は、そこにある物理的な要素と、そこに反映されている時間的要素と、それらを読み取ることのできる人と出会うという運的要素とが揃った時に、感じる人にだけ感じられるものなのだろう。