熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Noa Noa

2009年07月29日 | Weblog
国立近代美術館でゴーギャン展を観てきた。ゴーギャンが好きというわけでもないのだが、まとめて観ると何か面白いことでもあるかなと思い、木工教室の帰りに高田馬場から東西線で竹橋へ出てみたのである。混んでいるようなら観るのはやめようと思っていたが、かなり余裕をもって鑑賞できる状況だった。

ひとりの画家の作品が、キャリアの初期から晩年まで変わらないというのは珍しい。ゴーギャンといえば彼のブルターニュ時代やタヒチでの創作に見られる独特のスタイルが印象深いのだが、そこに至る変遷があるはずだと、その変化を見ることも期待していた。本展では初期の作品もあるのだが、展示の主題は「我々は何処から来たのか 我々は何物か 我々は何処へ行くのか」である。これはゴーギャンが遺言として描いた作品で、いわば人生の集大成を表現したものだ。大きな作品だが、それまでに繰り返し描いてきたモチーフを組み合わせて構成されている。本当の絶筆は「女性と白馬」だが、どちらも自らの死を意識した作品でありながら、そこに描かれている世界観は明らかに違うように見える。

ゴーギャンは、もともと美術が好きで、絵画を蒐集したり、趣味として絵を描いたりしていたのだそうだ。ゴーギャンといえば画家、ということなのだろうが、彫刻作品もある。彫刻にしても木彫もあれば、大理石を使ったものもある。趣味で描いていたころの作品は彼の師でもあったピサロやシスレーのような雰囲気の風景画が多いように思う。「多い」というのは、単に私がそういう作品を多く観たというだけのことなのだが。それが、画家を生業とするようになって、独自のスタイルへの指向を強めたように見える。自己の表現ということにこだわれば、やはり師を超えなければならないという課題を否応なく背負うことになるのだろう。

表現者としては、それで自分の目指すものをひたすら追い求めればよいのだが、生活者として、あるいは画家としては、それだけでは済まない。自分の作品が経済的価値を持たなければ、生活できないのである。おそらく、描きたい絵というものと、売れる絵というものとは、画家の思うようには重ならないだろうし、重ねることにそもそも関心の無い画家も少なくないだろうし、関心はあっても相反してしまう表現者だって少なくないだろう。それが人生の現実だ、と言ってしまえば実も蓋も無いが、在りたい自分と在る自分との距離に悩むのは画家だけではあるまい。

特に芸術家にとっての大きな壁は、自分が創造したものを世間に認知させることだろう。人は習慣に生きるものだ。新しいものに対しては、とりあえず拒絶反応を見せるものである。歴史に名を刻む芸術家のなかに、死後になってから評価された人が少なくないのはその所為だ。存命中に評価を得るには、パトロンとの出会いが不可欠なのである。そして、その出会いというやつは、偶然の所産である。所謂、営業活動とかマーケティングというものも、ブレイクスルーをもたらす一助にはなることもあるだろうが、そんなもので評価されるものは所詮その程度のものでしかないと思う。

ゴーギャンはどのような心境でこの世を去っただろうか。株式仲買人から画家に転じて以降は、金策に追われる日々が続いたようだが、最後の作品「女性と白馬」を眺めていると、本人は自分の人生に納得して旅立ったのではないかと思えてくる。