熊本熊的日常

日常生活についての雑記

仕事

2016年01月17日 | Weblog

『四世 桂米團治 寄席随筆』を読了。弟子の米朝らが米團治の書き残したものを編纂した本で、岩波書店から本体価格10,000円で販売されている。ここで岩波のブランドであるとか価格といったものについてどうこう語るつもりはないが、私は10,000円でも安いくらいだと思った。年明け早々からよいものに巡り合った縁を喜んでいる。公私様々なところに書かれた文章が集められているが、やはり私的な文章が面白い。「凡想録」と自ら題した手帳の文章が、記された日付とあわせて読むと、「時代」という言葉でしばしば表現される時の潮流というものが上辺だけのものであって、人の思想や哲学といったものに普遍性を感じる。また、普遍性のある思考というものができるようにならなければ生きている甲斐がないとも思う。

米朝が師の忘れられない言葉として以下のような引用をしている。
「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかい、むさぼってはいかん。値打は世間が決めてくれる。ただ一生懸命に芸を磨く以外に世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」
この言葉の「芸人」のところを「人間」に置き換えても意味は通じると思う。米を作るのが農民ではないし、釘を作るのは工員や職人ではない。人間が作るものは自然の摂理のなかで生み出されるものであって、様々な仕事はその摂理のなかにおける介助役の間での役割分担にすぎないと思うのである。生まれてしまった以上、一生懸命に生きるよりほかにどうしようもないのである。一生懸命だからといって、そのことを無闇に誇ったり驕り高ぶったりすると他人と衝突することになる。人は社会のなかでしか生きることができないのだから、貪ることなくただただ世間が決める値打のなかで生きて行くよりほかにどうしようもないのである。時にそれが満足の行くものであるかもしれないが、たいていは自分が思っているほどに他人は評価しないものである。だから、他人の評価に振り回されていると不平不満だけが募って哀れな状況に陥ってしまう。米團治の言葉はそういうことを意図しているのではないのだろうが、そういうふうに読むこともできるだろう。

ところで、今日は年明け後最初の落語会だ。 席が前のほうで舞台が近かった所為もあるのだろうが、三増紋之助の曲独楽が一番愉しかった。

本日の演目

柳家あおば「道灌」
柳家権太楼「火焔太鼓」
柳家さん喬「ちりとてちん」
鼎談:小さん、さん喬、権太楼
三増紋之助 曲独楽
柳家小さん「幇間腹」

開演 13:00 終演 15:30
小金井 宮地楽器ホール