落語には芝居噺というものがある。芝居というものが当たり前に人々の日常のなかにあったからこそ、それを題材にした噺ができたはずだ。娯楽が少ない時代だからとはいいながら、芝居が人気を集めたのは何故だろう。そもそも娯楽は何だろう。素朴に楽しいとか面白いとか思えるものを娯楽というのであって、理屈を考えなければならないようなものではないのだろうが、「そもそも」などと思うこと自体が野暮である。
それで芝居だが、かつては芝居というものが国民常識であった時代があったらしい。今は芝居というものがどれほど人気のあるものなのか知らないが、このブログの毎年の大晦日の頁にあるように、私自身が芝居を観るのは年に数えるほどだけだ。「忠臣蔵」のあらすじはなんとなく知っているが、歌舞伎の「忠臣蔵」の何段目がどういう話かということは知らない。それで毎日の生活に不自由があるわけもないのだが、芝居噺を聴くときには、芝居を知って聴いたほうが一層面白く聴けるのかなとも思うのである。殊に連れ合いが芝居好きで、そういう主張をことあるごとに私に対してするので、尚更である。しかし、歌舞伎と落語では木戸銭の水準がずいぶん違う。落語を聴きに出かける調子で歌舞伎には行けない。もとは誰もが出かけるようなものだったのが、いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう。
ところで、敷居が高くなった分、芝居は面白くなったのだろうか。国民常識時代の芝居というものを知らないので比較のしようがない。妙に有り難がられるようになったがために世間から遠い存在になり、鑑賞者も演者もいなくなって消えてしまったというようなものがいくらでもあるのではないか。世間での位置というものは調整しようとおもってできるものではないだろうが、要は何を表現したいのか、何を訴えたいのか、という演者の側の世界観と、そこに何を期待するのかという鑑賞者の側の世界観とが重なってこその「芸」なのだと思う。
なんだか誰もが自分の思いを容易に露出できるかのように見える世の中になったが、そのことでかえって共有しているものが薄っぺらであることがはっきりしてきたようにも感じられる。そういうなかにあって、特定の約束事の上に成り立つようなものが成り立ちにくくなってはいないだろうか。約束事というのは誰にでも通じるものではないのである。約束できない人とは約束できないのだから。
本日の演目
柳亭市丸「たらちね」
三遊亭兼好「紙入れ」
まくら:ベッキー、金目鯛、オオサンショウウオ、一夫多妻多夫一妻よいのでは?
結婚できない人がたくさんいるのだから、余裕のある人は持てるだけの妻なり夫なりを持って全体のバランスを取るべきなのでは?
売れない芸人の正妻になるか、売れっ子の二号になるか
ユニクロの柳井さんなら、10-20人同じ服の色違い
LINE バレることの怖さ
噂話 人に言うなと言われた人が 人に言うなと人に言う
柳家三三「二十四孝」
まくら:岐阜 善光寺 その近くの曹洞宗の寺で落語会 一か八か「蒟蒻問答」
桃月庵白酒「四段目」
まくら:47歳 固有名詞が出てこない 感動しないから記憶されない
新鮮な感動が大事では いろいろなことに挑戦する
現金主義からクレジットカードへ ポイントは麻薬のよう
エンタメ 落語 みてはいけないと言われるとみたくなる
柳亭市馬「淀五郎」
まくら:白酒の汗が飛び散っている
初芝居 vs 初席
家庭に諍い vs 家庭は円満
開演 18:00 終演 20:15
よみうりホール