落語というのは限定された空間において演者が噺を口演するものである。上方のほうは大道芸由来らしいのだが、今は寄席やホールで演じられるものだ。なかにはカメラが入って記録されたり放送されたりするものもあるが、基本は限られた空間を演者と聴衆だけで共有するものだろう。だから、公開されたものではあるけれど半ば私的な場でのやりとりでもある。つまり、そこにはその場だけで通じるような毒があってもよい、あったほうがよいと思うのである。
昨今、人の生活が本人の知らないところで露出していることが当然になっていて、世の中を治めるほうからすれば誠に便利のよい社会になった。人を雇って誰かを尾行したり、大がかりな装置を用いて電話を盗聴したりしなくとも、その気になれば街角のあちこちにある「防犯」カメラの映像を見たり、ネット上のやったりとったりを覗いたり、こういうウエッブサイトの主を特定したり、というようなことは簡単にできるのだろう。自分が間違ったことをしていないと堂々としていられるなら、誰に見聞きされようが平気でいられるはずだが、何か後ろ暗いことがあると「個人情報」だの「肖像権」だのと騒ぎ立てないといけないことになる。ほんとうは後ろ暗いことがあろうがなかろうが個人的なことを赤の他人にとやかく言われていい気持ちはしないものだろうが、その嫌な感じというのはうまく説明できる類のものではないから、結局、治める側の論理に呑み込まれることになる。なんとなく閉塞感や窮屈な感じを覚えながら生活しているのは、不景気の所為ばかりではないような気がする。
落語のまくらは噺の世界と現実の世界との橋渡しをするものだと思う。まくらに毒のあるものが多いのは、噺というものが本来的に権力に対する批評批判の役割を担っているからだろう。まくらで大笑いができる、噺で大笑いができる、というのは社会の健康のバロメーターのようなものだと思うのである。噺家が何を思い考えて口演しているのか知らないが、高座に上がって口にすることにひとつの無駄もない。生身の人間の立ち居振る舞いや喋り、そのすべてが自分の生活している世界そのものだと思って聴いている。
本日の演目
はまぐり「真田小僧」
白酒「徳ちゃん」小千谷 どうりで縮み上がった
まくら:寄席の楽屋のこと、文楽、血栓、たまねぎと味噌
寄席の割 今でも銭単位 噺家の格
白酒「風呂敷」
まくら:楽屋のこと、芝居、映画それぞれ
(中入り)
遠峰あこ アコーディオン
「崎陽軒シューマイ旅情」「茶碗蒸の唄」
「プッチーニ「私のお父さん」より、私の中央線」「ベルギー民謡から 二人の歌」
白酒「うどんや」
まくら:クルーズ 小笠原クルーズでアルゼンチンのバンドのルイス・サルトールと同室
ゲントでのこと 「サービス」のなかみ
安倍さん 興奮すると滑舌悪くなる 安倍の犬NHK
竹下さんの周囲 死人続出
早稲田雄弁会
呑み屋で落語 声で押さえつける 300人くらいのホールなら噺家は地声で通らなければならない
出商人 声でなくテープ やる気ない
開演13:00 終演15:10
なかのZERO小ホール