熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年12月

2016年12月30日 | Weblog

赤瀬川原平 『外骨という人がいた!』 ちくま文庫

ブックオフオンラインで購入。この手の古本で1,500円分購入するのはけっこう大変。欲しい本は1冊かせいぜい2冊なのである。しかし、それだけでは1,500円にならないことが多いので、別にたいして興味もないものも適当に併せ買いするはめになる。送料を払って欲しい本だけを買えばよいのだが、ついつい貧乏性の本性が出てしまう。

それでこの本だが、なんというか馬鹿馬鹿しい。宮武外骨という人のことはこの本で知ったし、おもしろいことをした人だとは思うのだが、特に感心するほどのことはない気がした。ただ、外骨がどうこうというよりも、本書で紹介されている外骨の仕事から当時の世相を想像すると、今と変わらないという印象を持ってしまう。このところ、本の読後感を書くと毎回のように人間というものの変わりばえのなさを言葉を変えて語っている気がするのだが、もうそういう思いは確信に近いものになりつつある。『滑稽新聞』の記事にある「立派な名に改めた物事」は今の差別用語撲滅運動に通じるものだし、「社会は分業」は今の格差社会うんぬんと同じだ。選挙に立候補しておきながら、自分では自分に投票せず、それにもかかわらずわずかながらも票が入ったことに本人が驚いている様子は、私も真似してみたい。つまり、いつか選挙というものに出てみたい、と思わせる。ただ、当時と今とで違うのは、外骨がしばしば警察に逮捕されたのに対し、今のネット民はよほどのことをしない限りは逮捕されるということはない。自由に発言する人間が社会秩序の脅威と捉えられたのは、それだけ為政者側が治安に自信がなかったということではないだろうか。今でもネット上でのことが警察沙汰になることもあるが、権力側の構えが外骨の時代よりもソフトになっていることは確かだろう。当たりがソフトであるからといって、実質が鷹揚になったのかどうかはわからない。権力の表出方法が変化しただけで、社会の規制の在り方というのものの内実は変化していないのかもしれない。

 

赤瀬川原平 『ライカ同盟』 ちくま文庫

ブックオフオンラインで他の赤瀬川作品と一緒に購入。この本が主目的の購入ではなかったので、内容にさほど期待はしていなかったが、この人が書くものは深いと思う。古本なので、前の持ち主が引いた線がある。それも一箇所だけ。中古本の楽しいところは、そういう自分以外の人の心の動きの痕跡に触れることにもある。

それでライカだが、この本にもあるように、写真云々ではなく素朴に「あぁ、ライカぁ」と思うカメラなのだろうと妄想する。カメラのメカに思い入れのある人とかカメラそのものを愛している人はこの本に登場する人々のようにライカが持つ究極感のようなものに惹かれるのだろうし、そのスタイルとか細部のこだわりのようなところに惹きつけられる人もいるだろう。Aero Conceptのカバンをロックするときに金具から発せられる音はライカのシャッターの音を模したものだそうだ。

ここで言う「ライカ」はフィルムカメラの時代のライカのことである。デジタルになってしまうと、フィルムの代わりにCCDやCMOSを使っている、というだけのことではなくて根本的にフィルム時代のカメラとは別物になってしまう。「カメラ」というときのカメラはあくまでも光学精密機器であって、レンズとそこを通してフィルムに映像を感光させる一連の部材やメカニズムと総体としてのデザインのパッケージである。これに対し「デジタルカメラ」というのはカメラの姿をしたパソコンであって、つまりは映像データを電子データに変換して記録する映像キャプチャーなのである。結局同じでしょ?と思う人のほうが世の中には多いだろうが、本質がまるで違う。

うだうだと語っているが、私は「カメラ」を所有していない。所謂「趣味」としてのカメラとか写真にも興味はない。最後に使ったフィルムカメラはニコンのピカソだ。今使っているのはライカのデジタルカメラX1である。ピカソとX1の間はデジタルだけだが、キヤノンのIXY、リコーのGR Digital、GR Digital IIIを経てX1に至った。このブログにも自分で撮った写真を貼り付けているが、写真を撮るのも撮られるのも好きではない。それなのにカメラをいじってみたくなるときがあるのである。子供が家にある電気器具や時計の類を分解して壊してしまうというのはよくあることだと思うのだが、機械というのはそういうものなのではないだろうか。

それでこの本だが、以下に備忘録。

たしかに近代設備の、犬の毛などぜんぜん飛ばない無塵室で、白衣を着てカメラをいじっていれば、とりあえず信用される。でもそれで技倆がわかるわけではない。(102頁)

考えてみれば、未来というものに憧れることのできたしあわせな時代である。それが革命と新製品の時代であった。そして時代は崩れた。(126頁)

頂上を極めたところでとくに何もない山もあるが、頂上を極めたところで一段と世界が開ける山がある。山は全部同じだという民主主義もあるだろうが、山の格の違いというのはどうしてもあるのだ。(140頁)

自分だ自分だといっても、やはり友だちは必要である。たとえつまらない一言でも、その友だちの一言で生き方が軌道修正されて、結果としては大いに助けられていた、ということがあるでしょう。ライカはそういう友だちなのだ。(148頁)

つまり数字やデータではないもう一つの何かの力、それが神秘の力と短絡されたりもするんだけど、ライカレンズの場合はそれを軟らかさというふうに表現している。ぼけ味とか空気感とか言ったりもする。(151頁)

人は冗談が消えたときに、どっと宗教に走る。というか、どっと観念に走る。難しい言葉に頼る。理解を超えた超理解にすがろうとする。(240頁)

しかし義理でなくても、宗教というのはいつも切実な問題である。むかし共産主義が宗教を否定して、その考えが知識人層を支配する時代が長くつづいたのだけど、その共産主義が壊れてしまった。壊れたあとでよく見たら、じつはその共産主義が宗教だったということが判明したわけで、宗教はますます切実なアイテムであるということを認めざるを得ないのである。(241頁)

 

土井善晴 『一汁一菜でよいという提案』 グラフィック社

「ほぼ日」の記事で見かけてリンクをクリックしてアマゾンで購入。読もうと思えば一気に読了できる分量だが、だいぶ引っかかりながら読み終えた。書かれているのは当たり前のことばかり。しかし、それが当たり前ではない時代で、こんなことが立派な装丁の本として流通する世の中であることに複雑な気持ちになる。

食べることは生きることの中核行為でもある。意識するとしないとにかかわらず、食べるために生き、生きるために食べている。つまり、食は毎日続く常なるものである。落ち着いた気持ちで毎日の食事を頂くことが日常生活の本質といってもよい。そこから生きることのすべてが発するのである。毎日の普段の食をどうするか、ということがその人の世界観を映していると言っても大袈裟ではないと思う。また、普段の食が人の世界観を醸成するとも言える。本書のなかでは最初の3章が全体の核ではないか。目次だけでも納得できてしまう。
 今、なぜ一汁一菜か
  食は日常
  食べ飽きないもの
 暮らしの寸法
  自分の身体を信じる
  簡単なことを丁寧に
  贅と慎ましさのバランス
  慎ましい暮らしは大事の備え
 毎日の食事
  料理することの意味
  台所が作る安心
  良く食べることは、良く生きること

 

尾辻克彦 『肌ざわり』 河出文庫
尾辻克彦 『父が消えた』 河出文庫

どちらもブックオフオンラインで購入。いずれも表題作ほかの短編集。小説はあまり読まないので、これも特にどうという感想はない。ただ、「父が消えた」のなかに面白いと思う部分があったので備忘録として書き留めておく。

「父親というのは金でしょ、財産というか、そういうものがなかったら、別に父親の意見なんてないと思うよ」(43頁)

「その報告で面白いのはね、一生を苦労し尽くした人とか、自分の一生の仕事に満足している人というのは、容易にその最後の受け入れの状態に達するらしいのだけれど、たとえば物質的な財産に囲まれた人とか、政治的な人脈などをたくさん持っている人とかいうのは、やはり最後の状態にまで行くのに相当の抵抗があって、大変な苦労をするらしいね。その途中の不幸な心理のまま息を引取るのが多いという」
「ああ、それはわかりますね。この世に執着が強すぎるというか、その錘がしっかりとぶらさがっていて、それにいつまでも引張られているんでしょうね」(65頁) 

 

小長谷有紀 『人類学者は草原に育つ 変貌するモンゴルとともに』 臨川書店

みんぱくフィールドワーク選書の9巻目。講演会に参加する都合で13巻目の『シベリアで生命の暖かさを感じる』を先に読んだので、これで10巻目、全体の半分だ。このシリーズはどれもそれぞれに面白い。タイトルだけ見るとそれほど興味をそそられないものが多いのだが、これまでがっかりさせられたものがひとつもない。

本書に「ウメサオタダオ展」のことが書かれているが、私がみんぱく友の会に入会するきっかけとなったのが本展である。ちょうど東日本の震災があった頃のことで、急に思い立って新宿から夜行バスに乗って大阪を訪れた。そのときのことはこのブログの2011年3月20日「天啓」に書いた。あのときはウメサオ展を観に行ったというよりも、地震後のザワザワとした東京を離れたいという気持ちでとりあえず大阪に行ったのだと思う。そこでたまたまウメサオタダオ展が開催されていて、それを観て何かを感じたのである。今、手元にはその展覧会の図録に相当する『梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡』があるが、本書の編集責任者が小長谷先生だ。

それで『人類学者は草原に育つ』のほうだが、書かれている個々の内容よりも、フィールド調査というものを通じてどれほど深く社会にコミットできるのかというスケール感に感心した。「調査」というと第三者的な立ち位置から踏み出さないかのような印象を受けてしまうのだが、確かに対象に踏みこまなければ調査などできるはずはない。かといって、特定の対象の思想や行為に影響を受けすぎても調査にはならないだろう。そのあたりの対象との距離の置き方で成果が大きく変わることは想像に難くない。ここでも結局は自分が何者であるかというしっかりとした自覚が求められるのだろう。どんな学問も自分とは何者かという意識を離れては成り立たないのではないか。