熊本熊的日常

日常生活についての雑記

植木屋さん御精が出ますな

2019年10月05日 | Weblog

平城宮跡の広場の一画に裃姿の男性の銅像がある。植木職人だった棚田嘉十郎だ。実は、この銅像の脇を素通りしてしまった。近鉄の新大宮駅を降りて大きな通りをしばらく歩き、途中、長屋王邸宅跡という由緒書に足を止めるなどしながら朱雀門広場までやってきた。その敷地にあるカフェで昼食をとり、遣唐使船を見学したりして、そのまま朱雀門を通り抜けた。進行方向右手に裃姿の銅像があるのは認識していたが、そこに歩み寄ることはしなかった。朱雀門を抜け、近鉄の踏切を渡り、更地になっている平城京址を歩き、南門の復元工事現場を眺め、第一次大極殿へとやってきた。

大極殿に入り展示を眺め始めるとボランティアガイドの人が近付いてきた。あれこれ話をするなかで、棚田のことを聞いたのである。その後、ウィキペディアなどで棚田のことを読んだりもしたのだが、情報が断片的すぎて神がかっているような話にしか思えなかった。奈良で暮らしているのに、他所から来る人に平城京のことを尋ねられて答えることができなかったので、調べてみたらその場所が牧草地になっていて唖然とした、というところまではわかる気がする。それで私財を投げ売って復元に取り組む、というところに至るのがわからない。なぜ、植木屋さんのままでいられなかったのか。確かに、今こうして平城京の復元作業が少しずつではあるけれども続いているそのきっかけのひとつにはなっているのだろう。だから銅像が立っているのである。それにしても、生活丸ごと平城京というのはどういうことなのだろう。人は経験を超えて発想できないというのはこういうことなのである。ぼんやり生きてきた人間には一生懸命何かをした人間のことがわからない。たぶん、これから先もわかるようにはならないと思う。

そのボランティアガイドの人とは結局1時間以上もお話をさせていただいた。その話のなかで、平城京址を訪れた理由を尋ねられたので、或る人から「奈良に行ったら平城京から若草山や三笠山を眺めないといけない」と言われたからだと答えたら、「それ、上野先生でしょ」と一発正解。上野先生は余程有名な人だ。上野先生のことが出た後、大極殿のテラスから若草山や三笠山を眺めながらあれこれお話を伺った。三笠山は歌にもよく詠まれる山なのだが、こうして眺めるとよくわからない。今日は土地の人に教えていただいたから稜線がわかったが、そうでなければ背後の山と重なって認識できなかった。ということは、三笠山(表記としては他に御蓋山)が詠まれた歌はこの地で詠まれたものではないようだ。いや、歌というのは本当のことを詠まなければならないというものではないので、このあたりで詠まれたものはやはりたくさんあるのだろう。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

古今集に収められている阿倍仲麻呂の歌だ。遣唐使として唐に渡り、彼の地で取り立てられて帰国することなく彼の地で生涯を全うした人だ。その阿倍仲麻呂が唐で故国を想い詠んだ歌だというのである。しかし、そうであるとすれば、一体どうやってこの歌が古今集に収まったのだろう?ま、そういうものである。