奈良というところは穏やかな土地との印象が強いのだが、南都焼討に対して奈良の人々はやはり怒っているようだ。
今日は宿を出て興福寺の境内を通り抜けた後は通行人の殆どいない住宅地の細い通りを歩いた。ビック・ナラという地元スーパーの脇に出たので中を覗いてみる。たまに出かけた先のスーパーを覗くのだが、いかにもその土地らしい商品を見つけて面白がることもあれば、そういうものがなくてがっかりすることもある。奈良ではこれまでにJR奈良駅直下にあるイオン系列のスーパーと近鉄奈良駅近くの小規模な食品スーパーを訪れたことがあるだけだが、醤油など調味料の品揃えに関西らしさが感じられるほかは特にどうというほどのことはなかった。
ビック・ナラを後にして北へ進む。佐保川の橋の向こうに小高い森のようなものがある。地図には若草中学校とあるが、この高いところが多聞城址だ。1560年、松永久秀が築城したが1576年には織田信長によって廃城されてしまう。当時としてはたいへん豪華な造りだったらしいが、建物や内装は京都旧二条城に移築され、石材の多くは筒井城と郡山城に移されたという。多門城築城前は墓地だったそうだ。この高台の西には聖武天皇陵が連なる。南都を見渡すことのできる高台は都の外れの聖なる場所でもあったということだろう。
ここを越えて、旧平城京から外れたところに般若寺がある。創建は629年と伝えられ、それが事実なら平城京よりも古い。創建時期、創立者には諸説あり、正確なところは不明なのだそうだ。旅先で予定に縛られるのは嫌なので、日に1つか2つの目的地しか設けない。今日はごごに東京へ戻ることになっているので、本日の目的はこの般若寺だけである。
般若寺の近くに奈良監獄がある。今は使われていないそうだが、有機臭が漂っている。刑務所での作業のひとつとして家畜を飼っていたのではないかと思ったが、後でそうではないことがわかった。とりあえず、監獄の門の写真を撮って般若寺へ。
奈良監獄のある側には旧道があり、そこに面して国宝の楼門がある。が、ここからは境内に入れない。一旦、新道の側に回り、寺の駐車場を突っ切って受付から入るようになっている。境内は一面のコスモス。その間を通って改めて楼門を眺める。立派な楼門に目を奪われがちになるが、コスモスに埋れるように比較的新しい石塔がある。「平重衡 供養塔」とある。よく見ると、「衡」と「供」の間に「公」という文字が彫ってあり、それがセメントのようなもので埋められている。「平重衡公供養塔」の「公」が消されたというのは何故か?
この平重衡が南都焼討の中心人物なのである。河内から奈良へ侵攻する重衡を迎え撃つべく反平家派の興福寺衆徒は防衛線を敷くが、その拠点のひとつが般若寺だった。重衡軍はこの防衛線を突破し、奈良の街に火を放つ。この時、興福寺も東大寺も焼けて大仏も焼失。平家の勢力を象徴するかのような火焔であったろうし、当然、奈良の人々からは恨みをかったことだろう。
その平家の頭領である清盛が、南都焼討からひと月程後に病没。その勢いが強かった所為もあってか、跡目争いで平家は分裂、源氏が反平家の取り纏めのような役まわりで力を増しつつあったこともあって、平家は都落ち。一の谷の戦いで源氏の捕虜となり、斬首。般若寺門前で梟首された。それでこの供養塔になるわけだが、それにしても供養塔は随分と新しい。この辺りの事情には興味をそそられる。