新約聖書「マタイ伝」第5章39節にある「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」という言葉が脳裏に浮かんだ。私は信仰は無い。ただ、この言葉くらいは知っている。本来の意味はともかくとして、やられたらやり返す式の論理には救いが無い。怨念の連鎖はどこか早い段階で断ち切らないと、もともとの火種からは想像もできないような深く大きな憎悪が生まれてしまう。争いや憎悪が幸福をもたらすことはない。どれほど屈辱的なことに遭遇しようと、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶことで、その先に光明が現れるかもしれない。人生は一回性のものである。過ぎ去った時間は取り戻しようがない。過去のある部分が憎悪の感情で塗り込められ、それを後からきれいにしようと思ったところで、それはもうどうしようもないのである。憎悪や屈辱を感じたら、それを自分にとっての教訓に切り替える発想の転換が生きる上での智恵というものだろう。物事は決して一面的ではない。表があれば裏があり、光があれば陰がある。よくよく見つめれば、どんな逆境にも自分にとって好ましい側面というものが見つかるはずである。
その「右の頬…」が気になり、ついでに聖書は一冊手もとにあってもいいだろうと思い、仕事帰りに職場近くの書店で購入した。キリスト教系のサイトを開けば、聖書は無料でダウンロードできる時代だ。しかし、敢えて本になっているものを購入した。本のほうが、なにかと便利である。
聖書というと、「ペーパームーン」を思い出す。あれは自分のなかでは常にベストテンの上位に位置する作品である。この映画のなかで、ホテルの食堂で朝食を食べているライアン・オニールのもとへ、テイタム・オニールが走り込んで来て、何事かを告げるというシーンがある。このとき、テイタムは何度も台詞を間違え、OKが出るまでの間に、ライアンはパンケーキを50枚近く食べることになってしまったのだそうだ。しかし、彼はにこやかにテイタムを励まし続けていたという。大人というのはそうでなくてはいけない、とその話を聞いた時に思ったものだが、自分は未だそういう大人にはなっていない。たぶん、5枚くらい食べたところで切れてしまいそうだ。やはり人としてそういうことではいけないのである。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」くらいの人間にならなくてはいけないと思うのである。
その「右の頬…」が気になり、ついでに聖書は一冊手もとにあってもいいだろうと思い、仕事帰りに職場近くの書店で購入した。キリスト教系のサイトを開けば、聖書は無料でダウンロードできる時代だ。しかし、敢えて本になっているものを購入した。本のほうが、なにかと便利である。
聖書というと、「ペーパームーン」を思い出す。あれは自分のなかでは常にベストテンの上位に位置する作品である。この映画のなかで、ホテルの食堂で朝食を食べているライアン・オニールのもとへ、テイタム・オニールが走り込んで来て、何事かを告げるというシーンがある。このとき、テイタムは何度も台詞を間違え、OKが出るまでの間に、ライアンはパンケーキを50枚近く食べることになってしまったのだそうだ。しかし、彼はにこやかにテイタムを励まし続けていたという。大人というのはそうでなくてはいけない、とその話を聞いた時に思ったものだが、自分は未だそういう大人にはなっていない。たぶん、5枚くらい食べたところで切れてしまいそうだ。やはり人としてそういうことではいけないのである。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」くらいの人間にならなくてはいけないと思うのである。