NY株、4日ぶり史上最高値=原油51ドル台に大幅上昇
戦後の国際経済では、ブロック経済に対する反省から自由貿易主義が追求され、IMFとWTOを両輪とする自由貿易体制が構築されてきました。共産主義体制にあって統制経済を採用したソ連邦と東側陣営の崩壊は、自由主義経済の正しさの歴史的証明とも見なされたのです。
しかしながら、今日、アメリカの大統領選挙におけるドナルド・トランプ氏の勝利を機に、新自由主義に対する批判が高まっています。と同時に、グローバリズムを推進する側からも、政府による国境規制の強化は、大衆迎合であり反知性的態度であるとする反論も提起されているのです。それでは、保護主義とは、全く以って、反知性的な考え方なのでしょうか。
”自由”とは言っても、実際には、幾つかの違った概念が含まれています。その一つは、一切の外部からの拘束のない”絶対的な自由”であり、もう一つは、既に拘束が存在する状況において各自に認められる”拘束からの自由”であり、その拘束が侵害行為を排除し、公平で公正なルールによるものであれば、”規律ある自由”となります(これらの他にも、バーリンのように積極的自由として政治的自由を論じる場合もある…)。”絶対的な自由”とは、それが、各自の完全なる自由行動を意味するならば、ホッブスが人間社会の自然状態として想定したように、”万民の万民に対する闘争”が発生し、当然に、暴力等による他者の自由や権利に対する侵害行為も頻発します。このため、今日では、”絶対的自由”の保障は、主として内面の自由に限定されているのです。
これらの二つの全く異なる自由の概念に照らして今日の新自由主義、即ち、行き過ぎたグローバリズムを見てみますと、一つの疑いが脳裏を過ります。それは、今日の新自由主義は、”絶対的な自由”を求めているのではないか、という疑いです。例えば、”例外なき関税ゼロ”といった自由主義のルールは、現実には、相互に劣位分野の淘汰を伴うため、高レベルでの自由化を目指したTPPでさえ妥協せざるを得ませんでした。しかも、自由化ルールに全ての諸国が従うわけではなく、中国のように、自国の国境規制は維持する一方で、他国の自由化に便乗する国も存在しています。このことは、貿易における”自由化”のルールが、実際には、一部の人々の権利や利益を損なっている現実を示しています。ルールの存在意義が”規律ある自由”のために存在しているとしますと、”絶対的な自由”のルール化は、”万民の万民に対する闘争”状態への逆戻りを意味することにおいて、ルールによるルールの否定という重大なトートロジー(自家撞着)を内包しているのです。
こうした”利己型自由”と”調和型自由”とでも表現すべき自由の概念の違いに注目しますと、保護主義を単なる反知性的として切り捨てる態度もまた、反知性的な奢りともなりましょう。ここにも、第二のトートロジーが見られるのですが、”絶対的自由”が他者の自由や権利に対する侵害性を含意する限り、国民、勤労者、消費者、劣位産業、内需型産業…といった多様な立場への包括的な考慮を提起することは、むしろ、曲がり角に佇む今日にあってこそ、必要なことではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
戦後の国際経済では、ブロック経済に対する反省から自由貿易主義が追求され、IMFとWTOを両輪とする自由貿易体制が構築されてきました。共産主義体制にあって統制経済を採用したソ連邦と東側陣営の崩壊は、自由主義経済の正しさの歴史的証明とも見なされたのです。
しかしながら、今日、アメリカの大統領選挙におけるドナルド・トランプ氏の勝利を機に、新自由主義に対する批判が高まっています。と同時に、グローバリズムを推進する側からも、政府による国境規制の強化は、大衆迎合であり反知性的態度であるとする反論も提起されているのです。それでは、保護主義とは、全く以って、反知性的な考え方なのでしょうか。
”自由”とは言っても、実際には、幾つかの違った概念が含まれています。その一つは、一切の外部からの拘束のない”絶対的な自由”であり、もう一つは、既に拘束が存在する状況において各自に認められる”拘束からの自由”であり、その拘束が侵害行為を排除し、公平で公正なルールによるものであれば、”規律ある自由”となります(これらの他にも、バーリンのように積極的自由として政治的自由を論じる場合もある…)。”絶対的な自由”とは、それが、各自の完全なる自由行動を意味するならば、ホッブスが人間社会の自然状態として想定したように、”万民の万民に対する闘争”が発生し、当然に、暴力等による他者の自由や権利に対する侵害行為も頻発します。このため、今日では、”絶対的自由”の保障は、主として内面の自由に限定されているのです。
これらの二つの全く異なる自由の概念に照らして今日の新自由主義、即ち、行き過ぎたグローバリズムを見てみますと、一つの疑いが脳裏を過ります。それは、今日の新自由主義は、”絶対的な自由”を求めているのではないか、という疑いです。例えば、”例外なき関税ゼロ”といった自由主義のルールは、現実には、相互に劣位分野の淘汰を伴うため、高レベルでの自由化を目指したTPPでさえ妥協せざるを得ませんでした。しかも、自由化ルールに全ての諸国が従うわけではなく、中国のように、自国の国境規制は維持する一方で、他国の自由化に便乗する国も存在しています。このことは、貿易における”自由化”のルールが、実際には、一部の人々の権利や利益を損なっている現実を示しています。ルールの存在意義が”規律ある自由”のために存在しているとしますと、”絶対的な自由”のルール化は、”万民の万民に対する闘争”状態への逆戻りを意味することにおいて、ルールによるルールの否定という重大なトートロジー(自家撞着)を内包しているのです。
こうした”利己型自由”と”調和型自由”とでも表現すべき自由の概念の違いに注目しますと、保護主義を単なる反知性的として切り捨てる態度もまた、反知性的な奢りともなりましょう。ここにも、第二のトートロジーが見られるのですが、”絶対的自由”が他者の自由や権利に対する侵害性を含意する限り、国民、勤労者、消費者、劣位産業、内需型産業…といった多様な立場への包括的な考慮を提起することは、むしろ、曲がり角に佇む今日にあってこそ、必要なことではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村