万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

複雑な心境になる東京裁判

2016年12月23日 15時25分56秒 | 国際政治
 本日12月23日は、天皇誕生日です。そして、今ではすっかり忘れられがちですが、この日こそ、東京裁判で死刑判決を受けたA級戦犯の刑が執行された日でもありました。

 A級戦犯の死刑執行には、当事の皇太子誕生日に当たるこの日が敢えて選ばれたとされており、日本国において一つの歴史が幕を降ろした日でもありました。その一方で、東京裁判が未だに中国や韓国等から”戦犯国家”として糾弾される根拠とされている現実を鑑みますと、実に、複雑な心境に襲われます。最近、児島襄氏が著した『東京裁判』(中央新書、1971年)を読んだのですが、この書において強く印象に残ったのは、A級戦犯の方々を含めた当事の日本国民の、何としても昭和天皇の戦争責任を回避し、皇室を守ろうとする意志の強さです。

 東京裁判は、しばしば勝者が敗者を裁いた政治裁判であり、近代司法の原則や公平性から見れば、欠陥裁判であると批判されてきました。こうした批判派、どちらかと申しますと、連合国批判として語られがちですが、本書を読みますと、連合国ばかりに責があるわけではないことが分かります。弁護側も検察側も、共に昭和天皇に責任が及ばないよう、最善の努力を傾けているのです。被告弁護側は、東京裁判によって日本国の大義を明らかにすることを以って天皇の責任回避を試み、一方、検察側の証人となった陸軍少将田中隆吉は、A級戦犯に全責任を負わせることで天皇を守ろうとしています。弁護側は、日本人でありながら検察側に協力し、証拠もなく被告に不利な発言を繰り返す田中少将を厳しく批判しますが、戦略が違うだけであって、両サイド共に天皇を戦犯にしない、という目的においては共通しているのです。即ち、東京裁判は、厳密に事実とそれを裏付ける証拠に基づいて判決が下されたのではなく、日本側にも裁判を”曲げる”動機があったと考えざるを得ないのです。そして、アメリカもまた、連合国において天皇戦犯回避の方針が決定されると、この筋書きに従って裁判を進行させようとします。

 東条英機元首相に至っては、自ら早期の死刑執行を望むほど巣鴨にあって筆舌に尽くしがたい屈辱を受けながら、昭和天皇と皇室に咎が及ばずに済んだことに安堵して絞首台の前に立っています。我が身を犠牲にしてまで天皇を守ろうとしたA級戦犯の方々の心情からしますと、昭和天皇には、絶対的な信頼性とカリスマとでも言うべき人格が備わっていたのでしょう。おそらく、当時の日本人の多くもまた、昭和天皇に対しては、同様の心情を抱いていたのではないでしょうか。

 今日、靖国神社は天皇の参拝を受けることもなく、東京裁判も、皇室にあっては忘却の彼方に置かれています。先の大戦では、日本国民の多大なる犠牲が払われたことを考慮しますと、現在の皇室が、生前退位、あるいは、譲位のみならず、様々な問題で波風を立てている現状を、A級戦犯の、そして、大戦で命を散らした人々の御霊はどのように思うのか、つい考えてしまうのです。

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コメント (2)
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