本日の日経新聞朝刊一面に、”多様性こそ活力の起爆剤”とする見出しで、近年の急速な外国人労働者の増加による日本国内の変化をレポートする記事が掲載されておりました。多国籍化する日本社会を肯定的に描き、“既成事実”の受け入れを読者に奨めていますが、プラス面のみを強調し過ぎているように思えます。
多様化の一般的な作用とは、統合ではなく分裂です。社会とは、長きにわたる歴史を通して醸成してきた言語、慣習、倫理観、社会常識、行動パターン等を共有することで成り立っています。挨拶の仕方一つを見ても、頭を下げる習慣を持つ社会に育った人と、握手を習慣とする社会を出自とする人とでは、出会った瞬間から行動が“ちぐはぐ”となります。言語が違えば、全く相互の意思疎通が不可能となるのです。多文化共生とは、共通性が希薄な個々人が、個人レベルに還元された文化を保持しながら生きる空間ではあっても、既存の社会を破壊したところに出現します。言い換えますと、多様化とは、国民破壊の起爆剤なのです。
しかも、全ての諸国が移民を受け入れ多文化共生主義を同時に採用すれば、文化を育んできた母体自体が消滅し、地球上から文化の多様性は消滅することでしょう。実のところ、マスメディアが喧伝する多様性の先には文化的多様性が一切消え去り、人間の特性の最小公倍数の部分によってのみ成り立つような、画一化された無味乾燥とした世界が待っています。近年のメディアの傾向を見ますと既にその徴候が現れており、登場してくる人々は、人種、民族、宗教など様々な出自を持つ、あるいは、混血の人々でありながら、考え方や生活スタイルなどは皆同じです(ノマド的、あるいは、スラム的…)。つまり、パーソナリティーの類型が画一化されているのです。逆から見ますと、マスメディアの言う多様性とは、人格が自らが設定したモデルと一致すれば、外見や遺伝子における違いは関係ない、ということらしいのです。これは、一種の全体主義なのではないでしょうか。
その一方で、破壊力を“活力”と捉えますと、それは、上述した記事の如くに肯定的な方向へと解釈されてしまいます。核分裂が莫大なエネルギーを放出するように、確かに、何かが崩壊する際には、“活力”なるものが観察されるケースはあります。しかしながら、物質の核分裂も一度限りであり、かつ、別の物質に変換されてしまうように、全ての文化が崩壊した後の世界には、不可逆的な永遠の停滞が待ち受けているかもしれません。また、人間社会の破壊が真の活力を生み出すのか、という問題も残されています。自然科学と社会科学とは扱う対象が違いますし、破壊に対して肯定的な評価を与える姿勢は、“革命思想”とも共通します。
しばしば、共産主義と新自由主義は同根であると指摘されていますが、一方的な破壊や変化を絶対善と見なすその頑なな思考において両者は共通しています。“多様化しなければ活力が生まれない”とする考え方こそ、主観的、かつ、偏狭で頑迷な固定概念なのはないでしょうか。こうした“リベラル派”は、人々に対して変化に対する柔軟性を説きますが、現実のマイナス面から目を背け、思想において最も硬直しているのは、これらの人々かもしれません(これらの人々にとっては、同化は論外ともなっている…)。多様化が内包する国民破壊作用の側面を直視せず、その行く先を“バラ色の未来”と考えているとすれば、その視点は、一部の人々の理想ではあっても、一般の国民、そして、人類に共有されたものではないと思うのです。
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多様化の一般的な作用とは、統合ではなく分裂です。社会とは、長きにわたる歴史を通して醸成してきた言語、慣習、倫理観、社会常識、行動パターン等を共有することで成り立っています。挨拶の仕方一つを見ても、頭を下げる習慣を持つ社会に育った人と、握手を習慣とする社会を出自とする人とでは、出会った瞬間から行動が“ちぐはぐ”となります。言語が違えば、全く相互の意思疎通が不可能となるのです。多文化共生とは、共通性が希薄な個々人が、個人レベルに還元された文化を保持しながら生きる空間ではあっても、既存の社会を破壊したところに出現します。言い換えますと、多様化とは、国民破壊の起爆剤なのです。
しかも、全ての諸国が移民を受け入れ多文化共生主義を同時に採用すれば、文化を育んできた母体自体が消滅し、地球上から文化の多様性は消滅することでしょう。実のところ、マスメディアが喧伝する多様性の先には文化的多様性が一切消え去り、人間の特性の最小公倍数の部分によってのみ成り立つような、画一化された無味乾燥とした世界が待っています。近年のメディアの傾向を見ますと既にその徴候が現れており、登場してくる人々は、人種、民族、宗教など様々な出自を持つ、あるいは、混血の人々でありながら、考え方や生活スタイルなどは皆同じです(ノマド的、あるいは、スラム的…)。つまり、パーソナリティーの類型が画一化されているのです。逆から見ますと、マスメディアの言う多様性とは、人格が自らが設定したモデルと一致すれば、外見や遺伝子における違いは関係ない、ということらしいのです。これは、一種の全体主義なのではないでしょうか。
その一方で、破壊力を“活力”と捉えますと、それは、上述した記事の如くに肯定的な方向へと解釈されてしまいます。核分裂が莫大なエネルギーを放出するように、確かに、何かが崩壊する際には、“活力”なるものが観察されるケースはあります。しかしながら、物質の核分裂も一度限りであり、かつ、別の物質に変換されてしまうように、全ての文化が崩壊した後の世界には、不可逆的な永遠の停滞が待ち受けているかもしれません。また、人間社会の破壊が真の活力を生み出すのか、という問題も残されています。自然科学と社会科学とは扱う対象が違いますし、破壊に対して肯定的な評価を与える姿勢は、“革命思想”とも共通します。
しばしば、共産主義と新自由主義は同根であると指摘されていますが、一方的な破壊や変化を絶対善と見なすその頑なな思考において両者は共通しています。“多様化しなければ活力が生まれない”とする考え方こそ、主観的、かつ、偏狭で頑迷な固定概念なのはないでしょうか。こうした“リベラル派”は、人々に対して変化に対する柔軟性を説きますが、現実のマイナス面から目を背け、思想において最も硬直しているのは、これらの人々かもしれません(これらの人々にとっては、同化は論外ともなっている…)。多様化が内包する国民破壊作用の側面を直視せず、その行く先を“バラ色の未来”と考えているとすれば、その視点は、一部の人々の理想ではあっても、一般の国民、そして、人類に共有されたものではないと思うのです。
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