米大統領「私なら丸腰でも突入」 高校銃乱射事件で警官の対応非難
南部フロリダ州の高校で発生した銃乱射事件では、警察官が4分間にも亘って校舎への突入を躊躇ったため、犠牲者を増やしたとする批判が湧いているそうです。当該警察官は辞職を余儀なくされましたが、この一件に関するトランプ大統領の発言が注目を集めています。
その発言とは、「私なら武器を持っていなくても現場に突入した」というものです。マスメディアの報道ぶりは必ずしも好意的ではないようなのですが、些か無茶にも聞こえるこの言葉にこそ、アメリカの有権者を惹きつけ、トランプ大統領を誕生せしめた鍵が隠されているように思えます。
丸腰で銃乱射の現場に飛び込む行為は、自らの命を落とすリスクと背中合わせです。否、確率からすれば、無防備な者を狙う卑怯な乱射犯に撃たれる可能性の方が高いかもしれません。誰もがしり込みし、自己犠牲を覚悟しなければならない行為には、他者の命を侵害者から護ろうとする人並み外れた勇気を要します。そして、古来、誰もがなし得ない故に、それを為した人は英雄とみなされ、人々から称賛と敬意を受けてきたのです。もっとも、今般のトランプ大統領の発言は今のところは言葉だけですので、実際にこうした場面に遭遇した時、自己犠牲的な行動を取るかは分かりませんが、たとえ言葉だけであっても、こうした発言に心を動かされる人は少なくないのです。
そして、トランプ政権のモットーである“アメリカ・ファースト”も、しばしば利己主義や自国第一主義と解されていますが、選挙戦においてアメリカ人雇用の確保やテロリストの排除が訴えられたように、その本質において、国民保護の文脈において語られています。現代という不安定な時代にあって、トランプ大統領は、サイレント・マジョリティーの深層に隠されてきた”国民が政府に求めるもの”を把握し、それを提供しようとしたのです。
その一方で、リベラル派は、斜め上からの視線で自己犠牲的行動を非合理的な愚かな行動とみなし、治安の維持や国民生活の安定よりも、犯罪者の人権を尊重し、国民に対しては痛みを伴う改革を押し付けようとしてきました。古来、国家の中心機能の一つであった保護機能は、あたかも時代遅れの如くに扱い、徹底した個人優先の思想を信奉し、破壊を伴う“変化”に絶対的な価値を与えてきたのです。
トランプ大統領に対しては、フェミニズムの立場からは男性優位主義とする批判もありますが、自己を犠牲にしてでも無辜の人々を護る精神までもが“男らしさ”と共に葬り去られてしまうのでは、女性や子供のみならず、無防備で善良な人々は誰からの助けを得られず、お互いが“見捨て合う”という殺伐とした社会が出現することでしょう。トランプ大統領の発言は、しばし忘れられてきた自己犠牲の精神、そして、真の勇気とは何か、という問題を改めて提起しており、それは、アメリカ一国の問題ではないように思えるのです。
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丸腰で銃乱射の現場に飛び込む行為は、自らの命を落とすリスクと背中合わせです。否、確率からすれば、無防備な者を狙う卑怯な乱射犯に撃たれる可能性の方が高いかもしれません。誰もがしり込みし、自己犠牲を覚悟しなければならない行為には、他者の命を侵害者から護ろうとする人並み外れた勇気を要します。そして、古来、誰もがなし得ない故に、それを為した人は英雄とみなされ、人々から称賛と敬意を受けてきたのです。もっとも、今般のトランプ大統領の発言は今のところは言葉だけですので、実際にこうした場面に遭遇した時、自己犠牲的な行動を取るかは分かりませんが、たとえ言葉だけであっても、こうした発言に心を動かされる人は少なくないのです。
そして、トランプ政権のモットーである“アメリカ・ファースト”も、しばしば利己主義や自国第一主義と解されていますが、選挙戦においてアメリカ人雇用の確保やテロリストの排除が訴えられたように、その本質において、国民保護の文脈において語られています。現代という不安定な時代にあって、トランプ大統領は、サイレント・マジョリティーの深層に隠されてきた”国民が政府に求めるもの”を把握し、それを提供しようとしたのです。
その一方で、リベラル派は、斜め上からの視線で自己犠牲的行動を非合理的な愚かな行動とみなし、治安の維持や国民生活の安定よりも、犯罪者の人権を尊重し、国民に対しては痛みを伴う改革を押し付けようとしてきました。古来、国家の中心機能の一つであった保護機能は、あたかも時代遅れの如くに扱い、徹底した個人優先の思想を信奉し、破壊を伴う“変化”に絶対的な価値を与えてきたのです。
トランプ大統領に対しては、フェミニズムの立場からは男性優位主義とする批判もありますが、自己を犠牲にしてでも無辜の人々を護る精神までもが“男らしさ”と共に葬り去られてしまうのでは、女性や子供のみならず、無防備で善良な人々は誰からの助けを得られず、お互いが“見捨て合う”という殺伐とした社会が出現することでしょう。トランプ大統領の発言は、しばし忘れられてきた自己犠牲の精神、そして、真の勇気とは何か、という問題を改めて提起しており、それは、アメリカ一国の問題ではないように思えるのです。
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