万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国民が選挙で既存政治にNOを表明できる方法

2020年09月11日 12時51分20秒 | 日本政治

 アメリカでは11月の大統領選挙戦に向けて、トランプ陣営とバイデン陣営との間で激しい論戦が続く一方で、日本国においても‘政変’が生じています。安倍首相の辞任表明により、突如、首相交代の事態に見舞われると共に、野党側でも、乱立気味の政党が再編され、新たに野党第一党の党首が決まりました。もしかしますと、これらの動きは、水面下では連動しているのかもしれませんが、民主主義国家にあって主権者であるはずの国民は、遠巻きに眺めているのみの存在になりつつあります。

 

 この状態では、何度選挙を行ったとしても、民意が政治に届くことは殆どありません。与党であれ、野党であれ、どちらを選択したとしても、国民にとりましては、どちらが‘まし’かの選択でしかないからです。狩猟や戦争では、左右や前後から獲物や敵を追い詰めて罠に嵌めたり、捕獲する挟み撃ちという方法がありますが、政治の世界でも、双頭作戦と称される詐術的な追い込み作戦があります。

 

視界に入る範囲において、二つの‘頭’が戦っておりますと、両者の闘いを見る人々は、両者は敵対していると理解します。ところが、この二つの‘頭’を首の方向に辿ってゆきますと一つの体から分かれ出ており、実際には、二つの‘頭’は戦っているように見せかけているに過ぎないのです(多党制の場合には、双頭ではなく‘多頭作戦’と言えるかもしれない…)。今日の政治状況を見ておりますと、与野党の挟み撃ちにあって、国民は、自らの望まぬ方向に‘選択’を強いられているように見えます。憲法において政治的な選択の自由が保障されていながら、‘選ぶ’という国民の自発的な行為、あるいは、政治的な選択のチャンスそのものが、自滅への道へと誘導する仕掛けられた罠なのかもしれないのです。

 

 日本国民の多くも、政界全体の問題に薄々気が付いてきているのですが、このまま、双頭作戦に嵌まってしまい、選挙という選択を繰り返す度に、身動きが取れない状況に追い込まれてしまうのでしょうか。これでは、やがて民主主義も形骸化してしまい、国民の選挙権も、自らの首を‘真綿’で絞める場に過ぎなくなります。そこで、どちらを選んでも改悪される、あるいは、国民が不利益を被ってしまうという民主主義の危機から脱する方法を考案する必要があるのですが、これは、なかなか難しい問題です。しかしながら、国民の側が無為無策ですと哀れな‘餌食’となってしまいます。

 

 実のところ、双頭作戦の存在は証明されてはいないものの(こうした作戦は、隠れて行われていればこそ成功する…)、危機脱出のために考えられる方法の一つとしては、選挙制度を、既存の政治に対してNOを表明する意思表示の機会として利用するというものです。つまり、白紙投票や棄権に国民の意思表示としての特別の意味を持たせるのです(政府を含めた国民的なコンセンサスさえ成立すれば、法改正や新法の制定は必要ないかもしれない…)。仮に、特別の意味、すなわち、国民の側からの拒絶や反対表明としての意味を付与しませんと、白紙投票や棄権の意味は何らの考慮をもされず、たとえ、有権者の数%しか得票数を得ない候補者であったとしても当選することでしょう。当選した政治家、あるいは、政府は、国民が自ら選んだ結果としてその政策を受け入れるように国民に求めることでしょう。そして、こうした選挙制度に嫌気がさした国民が投票所に足を運ばなくなりますと、組織票が有利となり、公明党や共産党といった政党が議席数を伸ばすことにもなりかねません。‘支持政党なし’が有権者の大半を占めている現状にあって、国民のNOの意思は現行制度においては無視されてしまうのです。

 

 マスメディアでも、得票数や当選順位ばかりを強調して報じますが、白票数や棄権数に特別の意味を持たせますと、選挙結果には別の解釈が成り立ちます。例えば、総選挙にあって白票数や棄権数の総計が50%を超える場合には、当選者は、‘国民の信託を受けた’とは最早言えませんし、政府も、公約実現を口実として、自らの政策の実施を国民に無理強いできなくなります。政策の実行には慎重にならざるを得ませんし、否、むしろ、公約とは逆の政策を検討すべきとも言えましょう。

 

 選挙権や投票権と申しますと、自らの自由意思による政治的支持の表明といったポジティブな側面にのみ注目が集まりますが、一方に偏った制度では、双頭作戦のように悪用されるリスクがあります。権利というものには拒否権などのネガティブな種類もありますので、国民の側からの抵抗・反対の意思表示をも制度上の権利として認め、選挙もまた、ネガティブな意思を示す機会として認めるべきなのではないでしょうか。両者が揃って、初めて安全度も完成度も高い民主的選挙制度と言えるのではないかと思うのです。


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