万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘天安門ファイル’が語る日本外交失敗の教訓-その2

2020年09月21日 12時08分13秒 | 国際政治

「天安門事件外交文書ファイル」によれば、天安門事件後のサミット外交において、日本国政府は、7月15日に発表された「中国に関する宣言」において「中国の孤立化を避け」という文言を書き込むことに最終的に成功します。それでは、何故、かくも日本国政府は、中国に肩入れしようとしたのでしょうか。

 

同ファイルでは、宇野首相の「総理発言案」と並んで、三塚外相の「サミット発言案」も公開されていましたが、この文書にあっては、同外相がサミットに先立って会談したシンガポールのリー・クアンユー首相の「“怒って、いらだった中国”よりも、平和的な隣国としての中国であった方が良い」という発言も盛り込まれたそうです。同発言案から、日本国政府が、対中政策に関連してアジア諸国とコンタクトをとっていた、あるいは、先進国に対する要望を取りまとめていたことや、サミットでは、‘欧米とは異なる価値を有するアジア’を代表する声としてサミットで発言しようとしたことが分かります。

 

加えて、注目されるのは、サミット閉幕後の7月18日に、宇野首相の命で北京の中島敏次郎大使が宇野首相の指示で中国外務次官と面会している点です。この面会で中国側は、サミットにあって天安門事件が議題化したことに対しては不満を表明しつつも、「日本は他の西側諸国よりも慎重な態度をとっている」として評価しています。この面会から推測されるのは、外交文書としては記録されていないものの、天安門事件の発生からサミット開催までの時期にあって、両国の政治レベルで何らかの水面下での交渉があった、あるいは、日本国政府に対して中国側からの要請や要望があった可能性です。

 

そして、この流れは、あるいは、何らかの国際勢力のネットワークを介して作られていった可能性も否定はできないように思えます。宇野首相は、終戦後にあってソ連邦に拘留されており、かの地で共産主義の思想を吹き込まれた可能性もないわけではありません。同首相は、日本国と米欧諸国との価値観の違いを強調するよう指示していますが、これは、日本国ではなく、首相自身が‘隠れ共産主義者’であったことを意味するかもしれないのです。また、シンガポールの初代首相であり、同国の権威主義体制を確立させたリー・クアンユー氏も客家系華人の4世であり、中国との間の公私に亘るコネクションも推測されます。

 

さらには、上述したように、日本国の中国孤立化回避方針に対して批判を寄せたアメリカの高官もあったものの、6月26日に予定された三塚外相とアメリカのベーカー国務長官との会談に向けた極秘文書には、‘「我々は、過度に反応したり、いたずらに感情的になったりすることを避け」、「息長く」「温かい目」で中国側の状況を見守っていく、といった文言も見られるそうです。日米間にあっても、裏では既に合意が形成されていた節もあり、この推測は、ブッシュ大統領が表向きには天安門事件を厳しく批判する一方で、鄧小平氏に対して励ましの書簡を密かに送っている事実からもサポートされます。

 

 アルシュ・サミットの主催国であったフランスのミッテラン大統領が左派政治家であった点も影響したのかもしれませんが、サミットにおいて、日本国に対して他の参加国が1対6という構図にありながら、すんなりと中国の孤立化に反対する日本国政府の要求が認められたことも、不自然といえば不自然です。その後、日本国の宇野首相はスキャンダルが発覚して退陣に追い込まれ、8月には海部内閣が成立しますが、親中路線は修正されるどころかさらに強化され、年が明けた1990年1月には、早々と対中円借款凍結解除へと動き出します。1991年8月には海部首相が訪中し、翌1992年には4月の江沢民国家主席の訪問、そして、10月の天皇訪中と続き、多くの若者たちを無慈悲に虐殺した天安門事件は、中国共産党の思惑通りに国際政治の表舞台から消されてゆくのです。

 

 2001年に中国がWTOに加盟する頃には、中国の経済発展が民主化を促進するとする主張も幅を利かせるようになり、経済制裁どころか、欧米諸国の企業もまた、積極的に中国市場へと進出してゆきます。しかしながら、当時の期待は悉く裏切られており、「世界の工場」に成長した中国は、今や、世界最先端のテクノロジーを手に、内にあっては全国民徹底監視体制を敷きつつ、外に向かっては、‘中国の夢’という名の時代錯誤の‘帝国主義’を振りかざして領土的野心を隠そうともしていません(他国の侵略や支配を国際法上の違法行為とも考えていない…)。こうした現状を見ますと、たとえ、背後に潜む国際勢力の意向を受けたものであれ、当時の日本国政府の判断に誤りがあったことは認めざるを得ないところです。

 

そして、今日、過去の失敗から学ぶべきことは、ゆめゆめ民主主義、自由、法の支配、人権の尊重、そして、平和に対して、経済を優先させてはならないということです。優先順位付けの誤りは、取り返しのつかない負の遺産が将来の世代を窮地に追い込みかねないのですから。『強い中国』が平和への深刻な脅威となる今日、「天安門事件外交文書ファイル」は、今日を生きる全ての人々に、人類にとりまして何が最も大切なのかを、鋭く問いかけているように思えるのです。


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