鄧小平時代に始まる改革開放路線は中国経済を急速に発展させ、グローバル時代の幕開けとは、まさに中国の時代の到来と言っても過言ではなかったかもしれません。しかしながら、近年、中国の目を見張るような経済成長率も鈍化傾向を見せるようになり、今日では、成長の限界論が囁かれるようになりました。
中国の将来を憂うる成長の限界論の主たる根拠としては、インフラ投資等の公共投資の偏重、債務依存型の経済、低レベルな労働生産性、並びに、労働人口の減少が挙げられています。加えて、人件費の上昇により製造拠点としての魅力を失う「中所得国の罠」にも直面しており、「世界の工場」の地位も揺らぎつつあります。日本国内でも、中国製に代ってベトナムやタイといった東南アジア諸国からの輸入品が増えてきていることに気が付いている消費者も少なくないはずです。恒大集団のデフォルト問題も燻り続けており、中国経済は、何時暗転してもおかしくはない状態にあるのです。
このように、経済的な側面から見ますと、中国の成長には限界が現れてきているのですが、政治的な側面から見ますと、中国には、経済的要因を遥かに上回る’成長の限界要因’が存在しているように思えます。それは、何かと申しますと、1949年10月の建国以来、同国が堅持してきた一党独裁体制にあることは言うまでもありません。そして、習近平国家主席を頂点とする個人独裁体制が確立した今日、中国最大の成長の限界要因は、習主席その人であるかもしれないのです。
個人独裁体制では、権威と権力を兼ね備えた独裁者が、国民とは隔絶された超越的な地位から全国民を支配するスタイルをとります。独裁者にとっての望ましい国民像とは自らへの誠実なる奉仕者であり、自身に対する揺るぎない忠誠心こそが重要です。もっとも、全ての国民から忠誠心を獲得することは簡単ではありませんので、自発的な忠誠心を得られなければ、暴力、恐怖、洗脳、詐術、偽情報の流布など、あらゆる手段を駆使して国民に忠誠を誓わせようとします。利己的で支配欲に満ちた独裁者と利他的で寛容な人格者とは、その本質において相いれませんので、歴史的に見ましても、強制力を働かさざるを得ないパターンの方が遥かに多いのです(もっとも、国家のトップが家族全員の面倒を見る義務や責任を負う、’家長’の役割を担う模擬家族的な国家形態などもありますが、特に近代以降の歴史では稀…)。
個人独裁体制を描いた小説としては、決して国民の前に姿を見せないビッグブラザーが登場する『1984年』が良く知られていますが、現実の歴史にあっても、同体制が出現した事例は枚挙に遑がありません。20世紀には、旧ソ連邦をはじめとした社会・共産主義国の大半は同体制にありましたし、ナチス・ドイツやファシスト支配のイタリアでも、独裁者は、いわば’超人’でした。独裁者は、一般の国民と同列にあるのではなく、平等という価値も、国民の画一化という意味においては尊重、あるいは、強要されたとしても(各自が多様な個性や才能を有することを前提とした、人格の相互的な尊重ではない…)、独裁者と国民との間には、絶対に越えてはならない’線が引かれているのです。
そして、この’独裁者の超越性’という国家体制上の位置づけこそが、実のところ、政治分野における成長の限界論の根拠となります(求心型統治形態の構造的問題…)。何故ならば、如何なる国民も、独裁者を決して越えてはならないからです。仮に、独裁者よりも人格に優れ、資質や才能にも恵まれ、人々からの人望も厚い人物が登場しようものなら、独裁者は、自らの保身のために手段を選ばずに同人物を粛清しようとすることでしょう。言い換えますと、独裁者の個人的なレベルがその国のレベルの上限となり、成長の最大の阻害要因となってしまうのです。
このように考えますと、中国は、自らの手、否、独裁者の手によって国家としての成長を止められてしまうかもしれません。そして、独裁者の地位に安住した習近平国家主席は、自らが中国という国の最大の成長の阻害要因であることに、永遠に気が付かないのではないかと思うのです。