万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

民主主義の実現は未来の課題

2021年12月31日 13時27分27秒 | 国際政治

 2021年も残すところ僅かとなり、早、大晦日を迎えることとなりました。今年を締めくくる本ブログの記事といたしまして、本日は、民主主義について認めたいと思います。

 

 昨日の30日、中国の新華社通信は、今年の「十大国際ニュース」としてアメリカ大統領選挙における議会襲撃事件を揚げ、アメリカの民主主義をこき下ろしたと報じられております。「米民主主義の幻想崩れる」として…。中国共産党のコントロール下にある同社が同報道にあって主張したかったことは、それは、アメリカの民主主義とは名ばかりの幻想に過ぎず、曲がりなりにも保たれてきたその幻想も、大統領選挙の過程で発生した暴動によって崩れ去ってしまった、ということなのでしょう。

 

 昨今、中国は、民主主義をめぐって対米批判を強めていますが、その背景には、先月、アメリカのバイデン政権が全世界の民主主義国を招待する形で開催した「民主主義サミット」があったことは疑い得ません。中国の目には、同サミットは、あたかも一党独裁体制、あるいは、全体主義体制に対抗する民主主義陣営形成のステップに映ったのかもしれません。「民主主義サミット」とは、イデオロギー対立の再燃ともなりかねない新冷戦の時代にあって、ソ連邦に取って代わった中国にとって安全保障上の重大な脅威なのでしょう。

 

もっとも、同サミットにおいて諸国を束ねる要となるのは民主主義という普遍的な価値ですので、それを頭から否定することは困難です。一先ずは、自らも人民民主主義を称しているのですから。そこで中国は、民主主義そのものを批判するのではなく、主催国である’アメリカの民主主義’を’幻想’であると主張することで、「民主主義サミット」の’扇の要’を消滅させてしまう作戦に出たとも推測されます。

 

しかしながら、この作戦、いかにも’こすい’ように思えます。何故ならば、真にアメリカの民主主義を批判するならば、議会襲撃事件ではなく、それを引き起こした不正選挙問題を指摘すべきであったからです。言い換えますと、中国の対米批判は、不正選挙によって当選したとする疑惑が払拭し切れないバイデン政権をむしろ庇っており、批判の焦点を巧妙にずらしているのです。こうした中途半端で妥協的な態度が、米中茶番、あるいは、両国を背後で操るシナリオライターの存在を示唆するのですが、今般の中国によるアメリカの民主主義批判は的を射ているとは言い難く、その効果も殆ど期待できないように思えます。

 

米中両国は、民主主義という価値をめぐって表面的には火花を散らしているものの、どこか緊張感を欠くのは、その不徹底さが見透かされているからなのかもしれません。そして、民主主義国家の旗手を任じてきたアメリカが、現代という時代にあって、中国がぼかした点において民主主義の危機にあることも確かなように思えます。仮に選挙制度において欠陥や盲点があり、電子投票・開票機器といったITをも駆使した不正が行われることがあれば、民主主義という価値はまさしく幻と化して消えてしまうからです。アメリカは、世界に先駆けて憲法典を以って民主的統治制度を導入したものの、18世紀末という時代を考慮すれば、それが現代という時代に必ずしも適合しているわけではありません。最先端であったシステムも、およそ200年以上の時が経過すれば、旧式となってしまう部分も少なくないのです。

 

 中国の共産党一党独裁体制が民主主義体制の対極にあることは異論を待たないのですが、アメリカもまた、今日にあっては、他の諸国が目指すべき民主主義国家のモデルとは言い難いように思えます。民主主義の価値の具現化という観点から見ますと、中国は論外としても、アメリカもまた、民主主義が名ばかりとなる形骸化が進行しているのですから。後世にあって、2021年とは、民主主義国家において民主主義の危機が表面化した年として記憶されているかもしれません。

 

そして、模範となるべき統治モデルが存在しない以上、多くの人々の知恵を集めながらより優れた民主主義国家を構築することこそ、全ての諸国が未来に向けて取り組むべき最も重要な課題のように思えます。実のところ、何故か、SDGsが掲げる17の目標には、民主主義の実現は含まれていないのです…。来る2022年が、より善き民主主義国家を実現するための出発の年となることを願って、今年の最後の記事といたしたく存じます。皆様方が良いお年をお迎えなされますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

*本年は、拙いブログながら『万国時事周覧』にご訪問くださいましてありがとうございました。心より御礼申し上げます。本ブログ記事が、折に触れ、皆様方のお役に立ちましたならば、大変、うれしく存じます。また、考えるところをストレートに記事にしてまいりましたので、ご不快な思いをされた方もおられるかと思います。この場を借りてお詫び申し上げます。また、私事ながら、今年は、6月22日に伯父倉西正武が身まかり、喪に服しております。つきましては、新年のご挨拶をご遠慮申し上げます。

 

伯父正武は、長らくアメリカのコロンビア大学数学科にて教授を務めておりました。晩年は、いつもにこにこされており、好々爺の風情がございましたが、古いアルバムをめくりますと、その気迫に圧倒される若い頃の写真も残されております。本を前にして机に向かい、思索している横顔は、まるでこの世離れした半跏思惟像のような面持ちなのです。数学のみならず、物理学、哲学、文学、音楽、絵画など、様々な分野にあっても造詣が深く、好奇心旺盛にして知識の宝庫のような方でした。専門の数学についてはちんぷんかんぷんでさっぱり分かりませんでしたけれども(2013年に岩波書店より『倉西数学への誘い』という書籍が出版されております)、純粋に数学の世界に生きた伯父は、真実を探求する真摯な姿勢、並びに、自由な精神を教えてくれたように思えます。

 

 伯父危篤の報を受けて急ぎ伊豆高原に向かいました日は、梅雨にありながら、一年の内で最も爽やかで美しいと思われるほど、透き通るような青空が広がる日でした。亡き伯父を偲び、その際に姉裕子が詠みました句を最後に添えたいと思います。

 

 伯父見舞ふ 汽車の窓より 夏の空

 

*本ブログは、年が明けまして1月4日より始めたいと思います。来年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


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