先週、イギリスBBCの単独インタヴューに答えて、ファイザー社CEOのアルバート・ブーラ氏は、‘コロナワクチンは、毎年、何年間も接種が必要’と語ったそうです。国内外では、既に3回目の追加接種が始まっており、同氏の発言は決して絵空事ではありません。ブーラ氏は、ワクチンの必要性について熱弁を振るい、オミクロン株用にアップデートされたワクチンも100日以内の供給が可能であると述べています。ビジネス・トークにも聞えるのですが、同インタヴューには、同氏の世界観も現れているように思えます。特に注目されるのは、ワクチン接種を拒む人々へのメッセージです。
同氏のメッセージとは、「(ワクチン接種を)恐れている人たちに伝えたい。人間の感情の中で、恐怖よりも強いのは愛だけだ」というものです。最近、日本国政府も、ワクチン接種キャンペーンとして愛する人々を護るために接種しようと呼びかけておりますが、同氏も、「…あなたの健康だけではなく、ほかの人の健康、特にあなたが一番に愛する人たちの健康に影響を及ぼすことになる…」と訴えています。もしかしますと、日本国政府の‘CM’は、ファイザー社の受け売り、あるいは、指図を受けて作成しているとの疑いも生じるのですが、ワクチン接種を促すために他者への愛情を持ち出す同氏の思考は、どこか倒錯しているようにも思えるのです。
そこで、思い起こされますのが、ジョージ・オーウェルが描いた『1984年』の世界です。同小説に登場するオセアニアという国では、凡そ全てが’あべこべ’です。同国に設置されている省庁には「愛情省」という名称のものもありますが、その実態は、反体制思想を持つ国民を拘束しては尋問し、洗脳と拷問によって転向させる弾圧機関です。そして、「101号室」に送られた被疑者たちには、たとえ同体制の方が’正しい’と認め、ビッグブラザーへの愛情を誓ったとしても、最後には処刑される運命が待ち受けているのです。
この「101号室」での拷問において残酷なのは、愛情を誓った者同士を自己愛のために相互に裏切らせるところにあります。恐怖に負けた被疑者たちは、他者への愛を放棄して自己愛を選択するのであり、そしてそれは同時に、ビッグブラザーへの愛を意味してしまうのです。つまり、他者を犠牲にしたという自責の念が、被疑者をして処刑を受け入れる心理状態をもたらしているのであり、それは、現体制の自発的受容に他ならないのです。
このように、『1984年』の世界では、独裁者は、愛情という人類の最も愛すべき資質を弄ぶことによって自らの悪しき体制を維持しているのですが、ファイザー社のCEOの発言にも、人類の愛という感情の狡猾な悪用が感じられます。もっとも、ワクチン接種の場合には、『1984年』のケースより構図はシンプルであり、裏切りではなく、他者への愛に殉じるように促すことで目的を達成する自己犠牲型とも言えましょう。新型コロナウイルス感染症の恐怖で人々を煽りつつ、リスクのあるワクチンの接種をして他者への愛の証としているのですから。何れにしても、ワクチン接種の自発的な受け入れが、同時に永続的なワクチン接種体制の心理的な受容を期待している点において、『1984年』の世界と共通しているのです。
とは申しましても、ブーラCEOにも誤算があるように思えます。現実には、人々への愛のためにこそ、ワクチンを打たない、あるいは、ワクチン・リスクを訴えている人々が存在しているからです。そして、ワクチン接種の受容が新たな国民監視・管理体制の出現の可能性を意味していることに気が付いている人々も…。これらの人々に対しては、上述した台詞は通用しないのです。同氏は、「だからこそ勇気を出して恐怖心に打ち勝ち、正しいことをしてもらいたい」と訴えておりますが、ワクチン接種を拒否する人々にとりましての「勇気を出し、恐怖心に打ち勝って為すべき事」とは、ワクチンを接種するか否かの選択の自由を含む人々の基本的な自由と権利を護り、ワクチン圧力から人々を解放することにあるのですから。そしてそれは、愛する人々を護ることでもあるのです。