今日、核兵器という存在が、戦争の勝敗のみならず、国際体制の決定要因となっている現実があります。核兵器が戦況を一変させる’切り札’となるとする認識は、先の戦争にあって、連合国諸国のみならず、劣勢におかれていた枢軸国諸国にあっても核兵器の開発競争に凌ぎを削っていた歴史からも伺えます。そこには、先に同兵器を手にした側が戦勝国になれるとする確信があるからです。そして、実際にそれが広島と長崎に対して使用されたとき、核兵器は、凄まじい破壊力のみならず、絶大なる抑止力をも持つこととなったのです(その抑止力により現に、以後凡そ70年にわたり世界大戦は発生していない)。
核兵器とは、いわば人類が手にしてしまった’魔物’なのですが、それ故に、人道的な見地から核の廃絶が訴えられるようになりました。核拡散防止条約も核廃絶に向けた流れの一つなのですが、現実には、核兵器が’魔物’であるために、NPTは、所期の目的とは異なる作用を国際社会にもたらしたように思えます。
どのような作用であるのかと申しますと、それは、現代における国際社会の封建体制化です。第一次世界大戦以来、普遍的な国際組織としての国際連盟や国際連合の設立もあって、国際社会は、主権平等の原則を基調とするフラットな体制に移ったかのように思われています。世界地図から植民地は姿を消し、保護国という形態も過去のものとなりました。国際法は各国の権利を等しく保障し、国際秩序は、位階を特徴とする縦型から横並びの並列型へと転換したのです。
表面的にはフラットな世界への移行が進む一方で、第二次世界大戦後の国際社会の現実を見ますと、国連には常任理事国という特別の地位が設けられておりますし、軍事力における国家間格差は拡大する一方です。冷戦期にあっては米ソ両大国が抜きんでた軍事力を保持する一方で、冷戦後にあっては、中国が急速に頭角を現してきました。そして、常任理事国の地位を軍事的にも不動のものとしたのがNPTであったかのもしれません。何故ならば、常任理事国は世界の平和を護る’世界の警察官’であるとする認識から、核兵器という’魔物’の保有を独占的に認めたからです。
この結果、安全保障上の脅威に晒されている非核諸国は、‘核の傘’を求めて核保有国と軍事同盟を結ばざるを得ない状況に置かれることとなります。両者の間で軍事同盟が結ばれるとなりますと、核保有国は、非核国に対して‘核の傘’によって安全を保障する代わりに、非核国は、核保有国の陣営の一員としてその戦略に従うという関係となります(戦略への参加のみならず、有形無形の‘奉仕’をもとめられることも…)。そして、この縦型の関係は、主君が家臣に対して軍事力を以ってその領地を安堵する代わりに、家臣は主君の戦いにはせ参じる義務を負う、中世の封建制度と類似しているのです。
核兵器出現以前の対等な関係における軍事同盟にあっては、締約国間の軍事的な支援は条約において条件や規模などが定められ、いざ戦争となれば、相互に援軍や武器を提供するという形態が大半を占めておりました。しかしながら、核保有国を中心としたブロックが形成され、ブロックが相互に対峙するとなりますと、戦略の一本化と一体的な運営が求められるようになります。第二次世界大戦にあっては、連合国側に共同作戦の走りが見られるものの(日独伊同盟はあったものの、実際には枢軸国諸国は‘ばらばら’であった…)、核時代の今日にあっては、アメリカの戦略に全ての同盟国が参加する形となりましょう。そして、仮に、アメリカブロック対中ロブロックが次なる世界大戦の対立軸となった場合、たとえ核が使用されなかったとしても、その戦いは過去に類を見ない程、凄惨を極めることでしょう。しかも、戦時国際法や人道法がもはや拘束力をもたないとすれば、テロやサイバー攻撃等により、人々の日常空間を含めて地球全体が戦場となりかねないのです(地球を破滅させるグローバル戦争…)。
NTP体制が現代にあって‘封建体制’を固定化し、ブロック間対立としての第三次世界大戦への道を敷いているとすれば、その見直しは急務なように思えます。アメリカにとりましても、NATO加盟国や同盟関係の拡大は、対中ロ戦略においては有利となるとはいえ、その反面、核の傘の提供対象国の増加を意味しますので、自国が核攻撃を受けるリスクも比例的に上昇します。
将来的には、NPT体制の放棄により国家間の対等性を回復した後に、必要とあらば、改めて軍事同盟を締結するという方法もあるのかもしれません(もっとも望ましい方向性は、平和的な解決を可能とする司法制度等の整備なのですが…)。何れにしましても、この体制、人類が未来永劫にわたって維持すべきものとも思えないのです。