先週、米ディズニー社は、実写版の「リトル・マーメイド」の主役として、アフリカ系の歌手であるハリー・ベイリーさんを起用すると公表したそうです(7月8日付日経新聞「春秋」より)。おそらく、同社がベイリーさんを主役に抜擢した理由は、人種や民族等の違いを越えた普遍的なストーリーとして「リトル・マーメイド」を描きたかったからなのでしょうが、どこかで何かが違っているという感覚を覚えます。この違和感、一体、どこから来ているのでしょうか。
実を申しますと、アニメ版の「リトル・マーメイド」を見てはいないのですが、おそらくアンデルセンの『人魚姫』をベースに制作された作品なのではないかと思います。アンデルセンと言えば北欧デンマークの作家であり、作品の舞台もそのほとんどがヨーロッパです。『人魚姫』も、王子さまの命を奪うことができず、自ら海の泡となって消えた人魚姫の悲恋の物語であり、原作を読みますと、登場人物達の殆どは、人魚姫を含めて金髪で青い瞳の北欧の人々の姿がイメージされてきます。
もしも『リトル・マーメイド』がアンデルセンの『人魚姫』を原作としており、かつ、ディズニーが普遍性を理由に敢えて原作とは異なる配役を試みたとしますと、ここに、皮肉な状況が発生します。何故ならば、自ら身を引くヒロインをアフリカ系のベイリーさんが演じると、むしろ、人種差別がイメージされてしまうからです。つまり、人類社会が抱える問題を普遍的に表現しようとした結果、むしろ、アメリカ社会の問題を浮き彫りにしてしまうのです。それでは、ベイリーさんは、顔を厚く白塗りしてカラーコンタクトで瞳を青くし、金髪の鬘を被って人魚姫を演じるべきなのでしょうか。
また、普遍性を追求するばかりに原作と離れた配役を行いますと、物語の基本コンセプトさえ壊してしまう可能性もあります。例えば、シェークスピアの『オセロ』において、デズデモーナ役をアフリカ系の女優さんが勤めた場合、この物語は成立するのでしょうか。『アンクル・トムの小屋』のトム役をヨーロッパ系の俳優さんが勤めてもどこか奇妙です。あるいは、NHKの大河ドラマにあって歴史上の人物をヨーロッパ系、あるいは、アフリカ系の役者さんたちが演じた場合、視聴者は舞台となった時代を感じ取り、感情移入することができるのでしょうか(織田信長をヨーロッパ系の人が演じ、徳川家康をアフリカ系の人が演じるなど…)。
特定の時代や国を背景として成立しているストーリーは、そもそも普遍化することは難しく、しかも、普遍化の手法が、原作とは異なる人種や民族の俳優の人々に演じさせるという多様性配慮となりますと、演じる役者さん自身の属性を消し去ることはできませんので、作品を壊してしまうか、あるいは、全く別のストーリーにさえなりかねないリスクがあるようにも思えます。今般の配役にはネット上では賛否両論があるそうですが、そもそも全ての属性を超越する普遍性と個々の属性の併存を意味する多様性の両者は同次元にはありませんので、原作や歴史的事実とは異なる配役を以って普遍性を訴えるディズニーの手法には無理があるように思えるのです。
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実を申しますと、アニメ版の「リトル・マーメイド」を見てはいないのですが、おそらくアンデルセンの『人魚姫』をベースに制作された作品なのではないかと思います。アンデルセンと言えば北欧デンマークの作家であり、作品の舞台もそのほとんどがヨーロッパです。『人魚姫』も、王子さまの命を奪うことができず、自ら海の泡となって消えた人魚姫の悲恋の物語であり、原作を読みますと、登場人物達の殆どは、人魚姫を含めて金髪で青い瞳の北欧の人々の姿がイメージされてきます。
もしも『リトル・マーメイド』がアンデルセンの『人魚姫』を原作としており、かつ、ディズニーが普遍性を理由に敢えて原作とは異なる配役を試みたとしますと、ここに、皮肉な状況が発生します。何故ならば、自ら身を引くヒロインをアフリカ系のベイリーさんが演じると、むしろ、人種差別がイメージされてしまうからです。つまり、人類社会が抱える問題を普遍的に表現しようとした結果、むしろ、アメリカ社会の問題を浮き彫りにしてしまうのです。それでは、ベイリーさんは、顔を厚く白塗りしてカラーコンタクトで瞳を青くし、金髪の鬘を被って人魚姫を演じるべきなのでしょうか。
また、普遍性を追求するばかりに原作と離れた配役を行いますと、物語の基本コンセプトさえ壊してしまう可能性もあります。例えば、シェークスピアの『オセロ』において、デズデモーナ役をアフリカ系の女優さんが勤めた場合、この物語は成立するのでしょうか。『アンクル・トムの小屋』のトム役をヨーロッパ系の俳優さんが勤めてもどこか奇妙です。あるいは、NHKの大河ドラマにあって歴史上の人物をヨーロッパ系、あるいは、アフリカ系の役者さんたちが演じた場合、視聴者は舞台となった時代を感じ取り、感情移入することができるのでしょうか(織田信長をヨーロッパ系の人が演じ、徳川家康をアフリカ系の人が演じるなど…)。
特定の時代や国を背景として成立しているストーリーは、そもそも普遍化することは難しく、しかも、普遍化の手法が、原作とは異なる人種や民族の俳優の人々に演じさせるという多様性配慮となりますと、演じる役者さん自身の属性を消し去ることはできませんので、作品を壊してしまうか、あるいは、全く別のストーリーにさえなりかねないリスクがあるようにも思えます。今般の配役にはネット上では賛否両論があるそうですが、そもそも全ての属性を超越する普遍性と個々の属性の併存を意味する多様性の両者は同次元にはありませんので、原作や歴史的事実とは異なる配役を以って普遍性を訴えるディズニーの手法には無理があるように思えるのです。
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たしかに、ディズニー映画の最近の傾向は、おかしいですね。
そのアフリカ系の【人魚姫】ですが、なんか、ちぐはぐな感じがします。
もっとも、その作品が完成したものを見ないことには、何とも言えませんが、、、、??
ただ、【人魚マ-メイド】に近い概念のものは、アフリカの神話や伝説にもあると思いますから、
その方面を発掘して脚色し、映画にすればいいんじゃないかと思います。
たぶん、カンドンブレ(西アフリカの神話宗教)あたりの伝説には、海の王女とか、
そんなふうな物語は有るとおもいますから、黒人の女優さんの活躍できるステージは
たくさん有るはずなんですがね。。。。。。。
明らかに、『西欧起源の物語』の主人公にアフリカ系のタレントを起用する必要は
ないと思うんですけど、、、、
何か、普遍性と非差別主義に、独りよがりな解釈をしていることは否めません。
まあ、そのアフリカ系女優さんの演じる『人魚姫』が、それなりの佳作だったら、
いちおう評価はされるでしょう?
、、、、、でも、どうなんでしょう??
◎肌黒き マ-メイドの ものがたり 感動呼べば それも素晴らし
ディズニーの配役基準から致しますと、西アフリカの’カンドンブレ’に登場するとされる海の女王には、コーカサイド系、もしくは、アジア系の女優さんに演じてもらうということになるのではないでしょうか。
なお、原作であるアンデルセンの『人魚姫』そのものが人々の涙を誘うストーリーですので、ある程度の作品には仕上がるのではないかと思います。
もろびとの まなこに涙を浮かばすは 人魚の姫の まことの愛か
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以前ヴェネディクト・カンバーバッチ主演の『ハムレット』を見たことがある。舞台をフィルム化した作品だったが、肌の黒い俳優が王家の一族として参加していた。最初は『デンマークにコレはないだろ(史実と違う‼)』と思ったが、しばらく見ているうちに『慣れた』。
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一般的な作品ならばこのように『多様性』を優先するのは、もう止めようがない傾向だ。アフリカン・アメリカンの主人公が悲劇のヒロインを演じることへの危惧はあたらない。『フランダースの犬』でさえ『主人公と犬は死なずにハッピーエンドを迎える』ストーリーにしてしまう国ですよ。ハッピーエンドに決まってますがな。
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今後気掛かりなのは、差別的内容の作品は抹殺されるのではないか、という心配だ。『ヴェニスの商人』はユダヤ人を嘲笑する内容なのだが、シェイクスピアが天才的過ぎて、悲劇的巨人としてのシャイロックが印象に残る作品となったのだ。
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『表現に問題はありますが製作者の意図を尊重し原作のまま放映(または上演)致します』の註記つきで認められるのが、正しい『表現の自由』だと、私は考える。
mobilis-in mobileさまが申されますように、ディズニー流の配役に’慣れてしまう’ならば、もしかしますと、この手法、洗脳テクニックの一つなのではないかと疑ってしまいます。あるいは、アメリカでは、こうした人種配慮の配役が法律によって義務付けられているとしますと、ディズニー流は、あくまでもアメリカ流であり、そこには普遍性はない、ということになりましょう。
白人の俳優が顔を黒く塗って黒人役を演じることは『ホワイトウォッシング』と呼ばれ「非白人俳優の差別につながる」として今では非難の対象となっています。もしベイリーさんが、顔を厚く白塗りしてカラーコンタクトで瞳を青くし、金髪の鬘を被って人魚姫を演じれば逆に「ブラックウォッシング」として糾弾されるでしょう。
アファーマティヴ・アクションには、逆差別となるリスクもありますし(たとえ能力が高くても採用されない…)、言論統制と同様に民主党好みの全体主義的な手法とする批判もあるようです。’上からの強制’が強まれば強まるほど、何れの立場であれ人々は息苦しさとストレスを感じますので、行き過ぎた措置は、考えものなのではないかと思うのです。
それでも杞憂でもない。アメリカが混乱しアフリカ系が強力になればKKKなどのメンバーは高い木に吊るされるだろう。
アメリカは弱体化すればガス室、高木への吊るし、何でもありとなる可能性がある。
だからこその白黒融和映画だ。民主党はこういう不安を表現しているのだ。共和党も閉店の引き金を引いて内乱となるのが怖いだろう。メルティング・ポットではなくモザイク国家だから案外と脆い。
氏の没後、氏の映画会社は、迷走経営破綻して、猶太人資本化の手に入りました。
本当の意味での、無差別、平等、愛はこの経緯を見るだけでも、ありそうにないです。
わたしは、別のコメントでも申し上げましたとおり、アニメーションなるものは大嫌いです。
人間は、須らく、ロゴスで思考すべきだと信じます。
動く絵のイメージを眺めてるだけでは、頭が悪くなる一方でです。
多少、画像処理が上手なだけで、原作を歪めてしまう、あの会社は、非常に傲岸不遜だと思います。
できることなら、その遊園地諸とも、合衆国へおひきとり願いたいものです。
良心のある日本人ならば、あの会社の映画はボイコットするべきだと愚考いたしますです。
そもそも、奴隷貿易に従事しておりましたのは、イスラム商人やユダヤ商人も多く、また、送出し側もアフリカにあっても、部族の首長などは、自らの仲間を奴隷として売っておりました。アメリカの人種差別の責任は、白人側にのみ帰せられるわけではありませんので、復讐に対する恐怖とは言い難いのではないかと思います。また、仮に、この説が正しければ、トランプ大統領が当選するはずもなかったように思えます(人種差別が残っていた時代を生きた人々、つまり、復讐を怖れているはずの人々の方が、トランプ支持者が多いのでは…)。むしろ、人類を単一化しようとするコスモポリタン的な思想に基づくものではないかと推察しております。
今日のディズニー社がユダヤ系であると致しますと、もしかいたしますと、既存の社会に対する破壊的な意図が潜んでいるようにも思えます。革命や戦争などによって、旧来の社か秩序を壊すことによって利益を得てきた節があるからです。その時には、必ずと申してもよいほど、何らかの正義がスローガンとして掲げられるのです…。今般のケースでは、多様性への配慮、あるいは、人種差別反対なのかもしれません・・・。