報道によりますと、岸田文雄首相は、自身の長男であり、公設秘書を務めてきた翔太郎氏を首相秘書官に任命する人事を固めたそうです。この人事に関するネット上の反応を見ますと、同報道に接した国民の間から厳しい批判の声が沸き起こっております。露骨過ぎるとも言える同縁故人事に疑問を感じない国民は殆どいないかもしれません。民主主義とは真逆の方向に歩き始めているのですから。
政治家による縁故人事は、これまでも国民には見えないところで頻繁に行なわれてきたのでしょう。岸田首相自身も2世議員であり、今回の一件は、首相職にあって長男を登用したために目立ちはしたものの、従来の政界の慣行を踏襲したに過ぎないのかもしれません。後継者として選んだ自らの実子や血縁者をまずは自身の事務所に採用し、公職を得た際には私設または公設の秘書官に登用するというものです。そして、スムースに‘権力’の世襲を実現するためには、政府内部の仕組みを知り、実務経験を積む必要もありますので、首相秘書官といったポストは、いわば‘インターン’のようなものなのでしょう。もちろん、先代政治家の死去により、急遽、民間から転じて跡継ぎとなるケースも見受けられますが、政治家の血縁者には、‘権力’への特別の道が敷かれているのです。
こうした水面下で構築されてきた政治職の世襲化、あるいは、政治権力の私物化システムが、民主主義を損ねてきたことは言うまでもありません。先ずもって、リンカーンの言葉を借りれば、民主主義とは、「人民(国民)の人民(国民)による人民(国民)のための政治」と端的に表現されるのですが、政治職が世襲されますと、「○○家の○○△□による○○家のための政治」に堕してしまうのです。政治権力とは、安全、安心、安定を求める国民の必要性に正当性の根源を有しますので、権力の私物化は、それが喩え人類史において世襲君主制として多々見られたとしても、古今東西を問わずに‘悪政’と見なされてきたのです。
前近代の世襲制にあっては善き統治者の出現は神に祈るしかなかったのですが、人類は、民主主義の制度化に成功することで、世襲制とは異なる統治システムへと移行をしてゆきます。民主化こそ致命的な欠陥を有する世襲制から人類が脱却する契機となったのですが、今日の日本国の政治状況、否、世界的な傾向を見ますと、時代が世襲制に向けて逆戻りしているような錯覚さえ覚えます。岸田首相が認識している日本の政治体制とは、お飾りとしての将軍がトップに座しつつ、日本各地の各藩が大名家によって支配されている江戸時代と変わりはないのかもしれません(世襲政治家の家々による支配)。あるいは、太陽王とも称されたルイ14世の如くに‘朕は国家なり’と考えているのでしょうか。
世代を重ねて世襲が慣例化するほどに民主主義との乖離も深刻となり、政治家の一族は、政治家同士では繋がる閉鎖的な世界を創ってゆくことでしょう。密室化した空間では、民主主義を装いながら国民をコントルールするためのノウハウが秘伝、あるいは、機密情報として伝達され、併せて政治利権も引き継がれてゆくことが推測されます。いわば、民主主義が普遍的な価値とされる現代にありながら、閉鎖的な‘政治家マフィア’による少数者支配が常態化するのです。二重思考的に表現すれば、‘世襲は民主主義なり’となるのです。
それでは、何故、普通選挙という民主的人事制度が存在し、誰もが職業選択の一つとして政治家になり得るにも拘わらず、かくも政治家の世襲が蔓延してしまうのでしょうか。おそらく、この問題は、政府と国民との連結や国民の被選挙権の公使に関する仕組みに重大な欠陥があるからなのでしょう。メディア等も、選挙権に関する‘一人一票同価値’についてはヒステリックな程までにその絶対平等を求める一方で、‘カバン、ジバン、カンバン’の‘三バン’がなければ当選しないとされ、著しく不平等な被選挙権については、国民の関心が向かないように誘導しています。選挙に際しての供託金制度一つとりましても、事実上の財産に基づく制限選挙となり、憲法違反ともなりかねないにも拘わらず、政治家もメディアもこの問題については無視を決め込んでいるのです。
政治家が自ら民主主義を軽視し、世襲の実例を国民に見せつけているとしますと、日本の社会は閉塞感や停滞感に覆われることとなりましょう(世襲問題は、今日、政界に関わらず様々な分野において目立ってきている・・・)。個々の努力は報われず、才能や能力等に関係なく、生まれによって凡そ全て決まってしまうのですから。政治家は、‘開かれた○○’、‘活力ある日本社会の実現’、‘国民のための改革’、‘誰一人取り残されない社会’といった耳に心地よい言葉を連呼し、あるいは、民間企業に対しては‘身を切らせる改革’を推進しながら、その実、国民の目には自らの一族の権力保持と繁栄のみを願い、私的利益のみを追い求めているように映ります。そして、世襲制は、血脈や家名のみで尊敬や特別扱いを求めるという意味において(国民が思考停止している状態を望む・・・)、権威主義とも親和性が高いのです。
政治家やその一族による権力の私物化を防止し、政府を国民に対して統治機能を提供する公的な機関とするためには、上述したように、障壁となる規制を緩和・撤廃し、政治家という職を国民に広く‘開放する’必要がありましょう。加えて、首相の人事権を制限する改革も要するかもしれません。現状では、首相の一存で、今般の子息の縁故採用のみならず組閣も自由自在なのですから。民主的選挙は、人事権という意味において民主主義の入り口、あるいは、民主的制度の一部に過ぎず、就任後に決定される政策内容をも問われなければ、真に国民のための政治は実現しないこととなりましょう。国民は、国政選挙であれ、地方選挙であれ、選挙に際しては、権力の私物化や世襲化の防止を含め、真の民主化に向けた政治改革を公約として掲げる候補者に、清き一票を投じるべきではないかと思うのです。