警察の主要な任務の一つは、現行犯への対応です。一般社会にありましても、殺傷事件が発生した場合、一〇〇当番による通報により警察がいち早く駆けつけ、一悶着の末に犯人逮捕で終わるのが一連の流れしてイメージされています。皆が事件の無事解決に安堵するのですが、よく考えてみますと、これで一件落着なのか、と申しますと、そうではないように思えます。殺人事件であれば、失われた尊い命は決して戻ってはこないからです。戦争におきましても同様であり、被害の不可逆性は否定のしようもありません。
「核兵器使用禁止条約」における執行機能を考えるに際しましても、核兵器の先制使用が取り返しの付かない民間人虐殺をもたらす点には慎重な配慮を要しましょう。競争や競技の開始時点については必ずそれを同一にしなければならないように、勝負事にありましては、時間的に相手に先んじる‘先手’が極めて有利です。何故ならば、自らは無防備な状態で攻撃を受けた側は、相手方の‘先手’、即ち、先制攻撃によって不可逆的なダメージを負ってしまうからです。過去の経験則からか、‘先手必勝’という諺があるくらいです。このため反撃を行なうにしても、攻撃以前の状態と比較して反撃力が低下しますし、国民並びに国土も甚大な被害を受けてしまうのです。人の意思によって物事が決定される政治の世界では、物理の法則に従うようにはゆかず、‘目的のためには手段を選ばず’という反道徳・倫理的な為政者が現れた場合、核による先制も否定はできなくなるのです。
因みに、NPT体制においては、「核兵器国」が認められていますので、「核兵器国」が「非核兵器国」に対して核による先制攻撃を行なった場合、否、核を使用した場合、この時点で勝負が付いてしまいます(もっとも、脱退の権利が認められていますので、「非核兵器国」が、武力攻撃事態や存立危機事態に至っても同条約を遵守するとは限らない・・・)。最悪の場合、「非核兵器国」は、「核兵器国」が発射した最初の核ミサイルの一撃によって敗戦が確定してしまうのです。首都、あるいは、指揮命令系統の中枢となる機関やミサイル基地が破壊され、通常兵器による反撃力をも失われた場合には、大いにあり得る事態です。
かくしてNPTは、「核兵器国」に対して「非核兵器国」に対する勝利を保障しているのですが、それでは、全諸国に対して核保有を認める一方で、その使用を禁じる「核兵器使用禁止条約」では、どうでしょうか。後者にあっては、国内の警察と同様に通報により、‘警察’が駆けつけて現行犯を逮捕するのか、と申しますと、そうではありません。「核兵器使用禁止条約」に基づく体制では、全ての諸国に遵守義務を課す国際法は制定されてはいても、国家の上部に君臨する‘国際警察機構’は設けられてはおらず、そもそも駆けつけてくるべき‘警察’はいないのです。言い換えますと、国際社会にあって‘現行犯’、すなわち、条約に違反して核を使用する国が現れたとしても、多重抑止力による未然阻止と事後的な下罰・制裁によって対応するしかないと言わざるを得ないのです。先制被害の不可逆性に鑑みて、否、‘現行犯’の出現を可能な限り極小化するためにこそ、「核兵器使用禁止条約」では、抑止力と制裁力を最大限にまで強化しているとも言えましょう。起こってしまってからでは遅いのです。内面的な道徳心や倫理観を持たないサイコバス的な権力者の自由意志の無限性に対して一定の歯止めをかけるには、核の報復の可能性、並びに、同条約に基づいて全締約国が課す制裁という外部的で包囲的な圧力、あるいは、‘威嚇’をもって当たるしかない、ということになりましょう。つまり、一国、あるいは、少数の違反国に対しては、その他の圧倒的多数の遵守国が、法の執行によって対処することとなるのです(この点は、違反国が‘得’をするNPTは逆・・・)。
物理的強制力において優る警察組織を具備する国内の治安システムにあってさえ極悪な人物が殺人事件を起こすように、国際社会にあっても暴力国家を完全になくすることはできないのかもしれません。NPTに代わる新たなシステムも、核の抑止力の強化と攻撃力の制御によって核戦争のリスクを下げる効果しか期待できないのです。NPT体制よりははるかに‘まし’ではあっても、‘完璧’ではないのです(NPTにおいてもその第10条で脱退の権利を認めているが、「核兵器使用禁止条約」といった新たな条約の締結を欠く場合には、核使用国に対する制裁が不十分となる怖れがある・・・)。身も蓋もない、あるいは、拍子抜けした方もおられるでしょうが、限界を限界として認めなければ、何事も始まらないというケースもあります。
如何なる制度をもってしても100%核戦争を防ぐことができないとしても、人類に希望が全くないわけではありません。人々の一般的な道徳心や倫理観の政治への反映という意味において、一党独裁体制を堅持している中国をはじめ各国において民主主義の制度化が進むほどに、暴力国家の出現率は低下することでしょう。今日、核使用が懸念されている国や勢力の志向が、全体主義、あるいは、権威主義であることは単なる偶然ではありません。そして、国際レベルにおいて人類の未来を左右するのは、国家間の紛争や対立を平和的に解決し得る国際的な司法制度構築なのかもしれません。核戦争を含む戦争とは、その原因を解消することができれば、自然に消滅するからです。
現状を見ますと、日本国を含めて国際社会は、再び軍拡競争を伴う戦争路線を歩んでいるようかのようです。第三次世界大戦に至る前にここで一端立ち止まり、軍事大国やその背後に潜む世界権力の望むままに‘規定路線’を進んでもよいのか、真剣に考えてみる必要がありましょう(なお、NPT体制の見直しは、国連の見直しにも繋がる・・・)。戦争回避が人類共通の願いであるならば、未来に向けて人々が努力すべきは、近代以降の勢力圏争いとしての世界大戦をステップとする世界支配への道からの離脱であり、法の支配の制度化を基調とした国民国家体系の再構築ではないかと思うのです。