先日の4月15日、和歌山県の雑賀市において、応援演説中の岸田文雄首相に対して爆発物が投げつけられるという事件が発生しました。安倍首相暗殺事件が脳裏をよぎる事件ともなり、現行犯で逮捕された木村隆二容疑者が黙秘を続けているためにその動機は詳らかではありません。真相解明が待たれつつも、犯行の動機不明なだけに同事件については自作自演、即ち、‘やらせ’ではないか、とする意見も飛び出すこととなりました。
‘やらせ発言’については、とりわけ、参政党のボードメンバーとされる田中よしひと氏の発言がSNS等で取り沙汰されたそうです。同氏は、ツイッターにて「こうした事件があっても、午後のスケジュールはそのままとの事。事件そのものが支持率上げのための仕込みかもと疑ってしまうのは私だけ?」と呟いたとされます。同発言に対しては、理解を示す人もあったものの、「事件の被害者や関係者への配慮を欠くとの批判」の声が寄せられたとされます。‘不謹慎’ということのようなのですが、この発言、政治家としてすべきではなかったのでしょうか。
同発言に対する批判意見としては、‘人の生死に関することである’、‘被害者を傷つける’、‘非常識で不見識’という倫理的なものから、‘公人としての自覚の欠如’や‘政治家は本音を表に出してはいけない’といった政治家としての資質をとうものもあります。しかしながら、これらの批判はどこか説得力に欠けるように思えます。現実には、他者を疑わない態度を‘良し’とする一般的な‘常識’が、結果として人の命を危うくしたり、真の被害者を見捨てたり、加害者を助長させかねないからです。そして、何よりも、昨今の内外の政治状況を見ていますと、政治の世界における偽旗作戦はもはや公然の秘密です。今日では、‘愚かな陰謀論’という‘常識’を振りかざして、国民に対する政府や政治家の裏切り行為や欺瞞に対する国民の自然な懐疑心を封じることは困難となってきているのです。
安部元首相暗殺事件も、山上容疑者による単独犯行は物理現象としてはあり得ず、組織的な暗殺であったことは明らかです。同事件は陰謀そのものですし、自民党は、元統一教会との関係により、自ら偽旗作戦の実在性を証明してしまったとも言えましょう。コロナ・ワクチン接種に伴う国民の健康被害につきましても、超過死亡数の激増との因果関係を頑なに否定する政府やメディアの態度を見れば、日本国の政治家が自らの利益のために国民の命を何者かに差し出しているとしか言いようがありません。また、紛争当事国であるウクライナや諸外国には、ポケットマネーよろしく首相が大盤振る舞いをしながら、国内では物価高の中での増税の嵐ですので、国民の政治に対する不信感も高まる一方なのです。
それでは、木村容疑者は、岸田政権に対する国民の不満を背景として、爆弾事件を起こしたのでしょうか。仮に、明確な政治的メッセージを発するためにテロを実行したのであれば、木村容疑者は、むしろ自らの動機を国民に向けてアピールするはずです(山上容疑者のようにヒーロー扱いされ、同感する人や支持者が現れるかもしれない・・・)。動機を語ろうとはしない同容疑者の姿勢からしますと、過酷な状況に置かれている国民を救おうとした犯行ではないのでしょう。しかも、爆発物の殺傷能力は比較的低いとされていますので、安部元首相のように岸田首相を暗殺しようとまでは考えていなかったのかもしれません(脅迫あるいは牽制の可能性も・・・)。
岸田政権の背信行為や売国行為に対する不満からの犯行ではないとしますと、木村容疑者は、どのような理由から爆発物を投げ入れたのでしょうか。あまりにも不審な点が多い故に、今般の事件にも様々な可能性があります。偽旗作戦であれば、失言とされた‘やらせ’、すなわち、選挙での同情票、もしくは、‘同情票’という与党勝利の説明材料の獲得を狙った犯行も可能性の一つです(あるいは、政治家に対する警護や国民監視の強化が目的かもしれない・・・)。しかも、自民党や公明党といった与党のみならず、その背後には、同政権を支えたい他国、あるいは、世界権力が動いていた可能性も認められます(世界権力のネットワークの末端に位置する新興宗教団体が実行役となった可能性も・・・)。
また、偽旗ではなく、ライバル勢力による政治的なテロであれば、野党側の犯行と言うこともあり得ないわけではありません。しかしながら、今日の日本国の政治状況にあって、敢えて野党やその支持勢力がテロに訴えたとしたら、それは野党の自殺行為となりましょう。民主主義を否定し、テロ、即ち、暴力で政治を変えようとする政党に投票する有権者は殆ど皆無となるでしょうから。そして、国内の野党の線が極めて弱いとなりますと、海外勢力が背後に蠢いていた可能性も浮上します。事件現場となった和歌山県と言えば、親中派で知られる二階元幹事長のお膝元ということもあり、中国の関与も疑われましょうし、世界権力黒幕説は、同ケースでもあり得ます。
‘やらせ発言は、政治家として失格’との厳しい意見もありますが、あらゆる可能性を国民に示す政治家のほうが、よほど信頼できるように思えます。‘疑ってはならない’、あるいは、‘政治家は言ってはいけない’という行動規範は、政府や政治家、並びに、メディアによる国民騙しが横行している今日にあっては、国民に対して黙って素直に騙されるように薦めているに等しくなるからです。むしろ、政治家は、偽旗作戦や陰謀の可能性があれば、予めそのリスクを国民に対して説明すべきなのではないでしょうか。合理的な根拠がありながら疑わない人は、信頼を置けないのです。もっとも、今般の‘やらせ発言’も、批判殺到を演出することで、同様の指摘を封じるための‘やらせ発言’であった、というどんでん返しもあり得ます。不可解な政治的事件については、裏の裏まで読む必要があるのかもしれません。