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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ドイツの影が見えるIOC会長の訪朝

2018年02月13日 16時26分25秒 | 国際政治
“オリンピック外交”という用語まで登場し、すっかり政治化してしまった平昌オリンピック。トーマス・バッハIOC会長の訪朝までが取り沙汰されており、オリンピックの政治色は濃くなるばかりです。

 ‘スポーツの舞台に政治を持ち込まない’がオリンピックのモットーであったにも拘わらず、IOC会長自らが朝鮮半島問題に首を突っ込もうとするのですから、これは尋常ではありません。それでは、朝鮮半島とは無関係なはずのバッハ会長が訪朝する背景には、一体、何があるのでしょうか。

 バッハ会長の訪朝の理由は、北朝鮮側の招待に応えたとするものであり、平昌オリンピックを舞台とした南北融和を梃子に国際的制裁網を何としても緩めたい北朝鮮側の思惑が透けて見えます。その一方で、安易に北朝鮮側の要請に応じたバッハ会長側にも、何らかの意図が隠されているように思えるのです。

 第一に考えられる点は、バッハ会長の個人的な野心です。南北融和に積極的に関わり、何らかの成果をあげることができれば、出身国であるドイツ国内において、政治家として一定の評価を得られることができるかもしれないからです(結果的に、北朝鮮の核開発を止めることができなければ、逆に、評価が落ちる可能性も…)。すなわち、政治・外交に関与することで、バッハ会長は、将来における政治家等(ドイツ大統領?)への転身の道を開こうとしているのかもしれません。

 第二に推測されるのは、バッハ会長が、ドイツ政府の意向を受けて行動している可能性です。メルケル独首相は、以前より北朝鮮問題ついては対話による解決を訴えてきました。開会式前夜のレセプションでは、北朝鮮との接触を警戒したペンス米副大統領は5分で会場を後にしましたが、文在寅大統領が着席する主賓席テーブルの席順を見ますと、バッハ会長夫妻に加えて、ドイツのフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー大統領夫妻も同じテーブルに席が用意されています。このことは、各国首脳の欠席が相次ぐ中、ドイツが大統領の出席を以ってホスト国である韓国に最大限の配慮を示したことを物語っています。そして、韓国もまた、元より対話路線を支持してきたドイツ政府を取り込むことで、国際的孤立を回避しようとしたかもしれないのです。

 第三の憶測としては、話し合い解決に持ち込みたい国際組織の意向です。上述したレセプションの主賓席には、アントニオ・グテーレス国連事務総長も着席しており、バッハ会長は、国連側の働きかけを受けた可能性も否定はできません。

 以上に3つの可能性を述べてきましたが、何れにしましても、今般のバッハ会長の動きには、北朝鮮問題をめぐる国際社会、特に、メルケル首相率いるドイツの現政権の動向が影響しているように思えます。そしてそれは、朝鮮半島南北の思惑とも一致しているため、国際社会で構築してきた対北制裁網を危うくしかねない重大なリスクを含んでいるのではないでしょうか。

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北朝鮮平昌オリンピック宣伝利用の逆効果-不気味な200人お面事件

2018年02月12日 15時11分38秒 | 国際政治
北の女性応援団200人が男性のお面…物議醸す
 核・ミサイル開発をめぐり制裁が強化される中、平昌オリンピックは、北朝鮮に取りましては絶好のチャンスであったはずです。南北両国の融和を演出すれば、北朝鮮による厳しい国際世論も緩む可能性がったからです。しかしながら、この目論見、北朝鮮のセンスがあまりにも一般の人々の感覚とかけ離れていたため、どうやら失敗に終わったようです。

 “美女軍団”としてメディア等でも紹介されている北朝鮮から派遣された200人の女性応援団は、その全員が顔の表情から仕草まで全て完璧にシンクロするように徹底的に訓練されているのでしょう。その一糸乱れぬパフォーマンスが全体主義国家の美的センスを表しているのですが、自由主義国からしますと個性の抹殺としか見えず、必ずしも見ていて心地のよいものではありません。北朝鮮の主観的(主体的?)からすれば、‘全員で一つのテーマを表現するマスゲームなどの“総体芸術”は、全世界を感嘆させる“最高芸術”であり、北朝鮮は、オリンピックこそこれを披露する最高の舞台’と考えたのでしょう。

 そして、この特異なセンスに輪をかけて人々を唖然とさせ、北朝鮮の体質を浮き彫りにしたのは、10日に行われたアイスホッケー女子韓国・北朝鮮合同チーム初戦での出来事です。これらの女性応援団200人が、全員、若い男性のお面をつけて北朝鮮の歌を歌い始めたというのですから(全員同一の仮面でよしとする発想は怖ろしい…)。この応援方法、どこかオウム真理教を髣髴させるのですが、お面の顔のモデルは誰なのかも分からず、言い知れない不気味さを醸し出しています。

 韓国国内では、故金日成主席の若い頃の顔をモデルとしているのではないか、とする憶測も広がりましたが、韓国統一省はこの見解には否定的なようです。仮に、金日成説を確信を以って否定するならば、韓国政府は、お面のモデルが誰であるのかを既に知っていたことになり、これもまた不可解です。男子選手の応援を前提とした女性応援団は李朝時代の妓生と変わらないとの批判を受けないよう、敢えて、女子チーム向けに全員が男性応援団に変身したとも考えられますが、謎が謎を呼んでいるのです。

 こうした不可解で異様な北朝鮮の応援手法は、各国のメディアが取り上げたこともあり、北朝鮮という国の異質性を全世界に強く印象付けています。北朝鮮は、オリンピックを宣伝の場に利用したことにより、逆に、自ら墓穴を掘ってしまったのではないかと思うのです。

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平昌オリンピック―北朝鮮の高慢と韓国の卑屈

2018年02月11日 14時10分49秒 | 国際政治
北の訪朝要請に文氏「環境整えて実現させよう」
平昌オリンピックは、恰も朝鮮半島の南北両国に“オリンピック・ジャック”されてしまったかのようです。日本国のメディアの多くも、南北両国による融和演出を嬉々として報じていますが、その過剰に演技がかった不自然さや異様な全体主義色に、一般の視聴者の多くは鼻白んでいるかもしれません。

 特にメディアが注目するのは、北朝鮮が派遣してきた高官代表団ですが、これらの北朝鮮側の人々には極めて高慢な振る舞いが目立っています。金正恩委員長の妹に当たる金与正氏に至っては、相手が文韓国大統領であっても決して頭を下げず、大統領が同氏に謁見しているかのようなポーズの写真も公開されています。“平壌オリンピック”と称される理由も、北朝鮮一行が韓国国内にありながら我が物顔で仕切り、平昌オリンピックを主導しているところにあるのでしょう。これも、自己中心思想としての“主体思想”の具現化なのかもしれません。

 北朝鮮が、韓国に対してかくも高慢な態度で接したことは、過去にはなかったのではないでしょうか。かつての太陽政策等の南北融和政策では、韓国側が北朝鮮を経済的に支援する立場にありました。ところが、今般に限っては、経済力にあっては優位にありながら、韓国側は、北朝鮮の態度に呼応するかのように卑屈な姿勢に転じているのです。今では、その“上下関係”が逆転しているように見えますが、一体、何がこのような変化をもたらしているのでしょうか。

 朝鮮半島における伝統的な社会秩序観とは、物理的力の優劣を基準とした位階秩序であるとされています。つまり、文明度や価値観等に拘わりなく、軍事力において優る側が上位に立ち、劣る側が下位に位置するという極めてプリミティブな構造です。仮に、南北両国とも、この力関係に基づく位階秩序の原則に従っているとしますと、北朝鮮は、軍事力において韓国に優位しているとする絶対的な自信があるはずです。そしてその自信の源こそが、核保有なのではないかと推測するのです。韓国もまた、これを既成事実として積極的に認め、“核保有国”となった北朝鮮にひれ伏そうとしているように見えるのです。

 こうした韓国の態度は、国際社会において深刻なモラル・ハザードを引き起こしかねません。北朝鮮は、国際社会を騙し、不当且つ違法な行為によって核兵器を開発したのにも拘らず、それを咎めることなく認め、核の威力の前に屈するのでは、北朝鮮を制御するどころか、国際社会において第二、第三の北朝鮮が出現しないとも限らないからです。核保有効果を実感した北朝鮮も、これまで以上に、核やICBM等の開発・保有に邁進することでしょう。アメリカをも、韓国の如くに跪かせるために…。

 平昌オリンピックで見せた北朝鮮の高慢さと韓国の卑屈さは、この意味において、国際社会に対して危険を知らせるシグナルでもあるのではないでしょうか。

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平和への脅威を平和の名の下で引き込んだ平昌オリンピック

2018年02月10日 15時46分06秒 | 国際政治
北高官団、文大統領と会談…正恩氏の親書伝達か
 昨日開幕した平昌オリンピック・パラリンピックは、朝鮮半島情勢を背景に各国の駆け引きが繰り広げられる政治アリーナの様相を呈しているかのようです。メディアは、特に開会式に出席した各国要人の動きを追っており、その模様は、まさしく今日の国際情勢を映し出しております。

 オリンピックには、‘政治色を一切持ち込まない’とするのが伝統的モットーとされてきましたが、平昌オリンピックほど政治色の強い大会は過去には見当たりません。何故、こうした本末転倒の事態が発生したのか、その理由を探ってみますと、オリンピック精神として掲げられてきた“政治色の排除”が、逆に政治色を持ち込む口実として利用されたからのように思えます。

 目下、核・ミサイル開発問題をめぐり北朝鮮は国際レベルでの制裁を科されており、いわば、平和に対する脅威として認識されています。本来であれば、国際社会が一致団結して対北制裁網を強化すべき状況にあり、韓国を含め如何なる国も、国連憲章において制裁に協力する義務を負っているはずなのです。ところが、北朝鮮と民族、あるいは、イデオロギーを同じくする韓国の文在寅大統領は、この問題を、朝鮮戦争の延長においてのみ捉え、“排除すべき政治色”を“南北間の対立”に矮小化してしまいました。文大統領は、オリンピックを平和の祭典とするには、南北の融和こそが重要であると訴えることで、“平和への脅威”を“平和の実現”に巧妙にすり替えてしまったのです。言い換えますと、排除すべき平和に対する脅威を、平和の名の下で引き込んでしまったのです。

 IOCのバッハ会長も、開会式において二羽の鳥が融合してゆく演出を取り上げ(仮に、この演出が当初から計画されていたならば、北朝鮮の参加は織り込み済みであったのでは…)、南北の融和をオリンピック精神の発現として称賛しておりましたが、果たして、“平壌オリンピック”と揶揄されているように、北朝鮮主導ともされる南北融和の政治的舞台となった平昌オリンピックは、真に平和を実現しているのでしょうか。少なくとも現実の国際情勢に対しては、日米と朝鮮半島両国との間の距離をさらに広げ、朝鮮半島情勢をさらに不安定化したのではないかと思うのです。

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日本国の憲法改正と国連の敵国条項

2018年02月09日 15時02分42秒 | 日本政治
憲法改正の議論に際して、最近、ネット上で奇妙な視点からの反対論が散見されるようになりました。それは、日本国が憲法第9条を改正すれば、国連憲章に定める敵国条項が適用され、中国による軍事行動を招くという説です。しかしながら、この説は、国際法上に根拠はなく、改憲を牽制したい中国の見解を代弁しているに過ぎないように思えます。

 その理由は、第一に、国連憲章上の敵国条項とは、その主たる目的は、連合国諸国が枢軸国諸国に対して第二次世界大戦の結果として行った措置を正当化するところにあります(国連憲章第107条)。恐らく、厳格に同憲章の諸規定を第二次世界大戦中の両陣営双方の行為に当て嵌めれば、連合国側にも違反行為があるため、同憲章の過去への遡及効果を否定したかったのでしょう。

 第二に、特に上記の懸念において問題となる憲章第53条についても、今日にあっては、日本国による侵略はあり得ない点を挙げることができます。第53条の条文は以下の通りです。

「…第107条によって規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極おいて規定されるものは、関係政府の要請に基づいてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負う時まで例外とする。(“地域的取極”では、国連安保理の承認なく、軍事行動を取ることができると言う意味…)」

この条文でまず注目されるのは、“侵略政策の再現”という文言です。日本国は、既に西側連合国諸国との間でサンフランシスコ講和条約を、中国との間でも日中平和友好条約を締結しており、第二次世界大戦で問題視された領域については、既に法的に確定されております。仮に、将来、日本国が軍事力で中国の主権を奪い、領域を併合するといった事態に至らない限り、“侵略の再現”とはならないはずです(戦前・戦中でさえ、日本国は、中国の領土を自国に併合してはいない…)。尖閣諸島問題は、第二次世界大戦とは無関係に生じており、平和的に解決する責任は、国連安保理の常任理事国でもある中国にこそ求められています(平和的解決の責務は全ての加盟国が負う…)。

 第三に指摘すべき点は、上記の第53条は、“地域的取極”を定めた第8章に置かれている点です。“地域的取極”とは、国連の目的と原則との一致を条件に、地域的紛争を、安保理に付託する前に自主的に解決することを目的として結成される地域的な安全保障の枠組です。しかしながら、第53条において強制行動(軍事行動)をとるには安保理の許可を必要とするため、現実には、NATOを始め、地域的な軍事同盟は、第51条で明記されている集団的自衛権を基礎として設立されています。つまり、“敵国条項”の対象となる“地域的取極”なるものは、今日、存在していないのです。
 
 また、1995年12月15日の第26回国連総会で採択された国連総会決議50/51では、敵国条項の空文化と将来の憲章改正に際しての削除が決定されています。以上の諸点を考慮しますと、国連憲章の敵国条項を理由とした改憲反対論は、実体のない“枯れ尾花”の如き空虚な議論と言わざるを得ないのです。敵国条項を徒に怖れるよりも、憲法改正により、条文内容を整理して明確化する方が、日本国の防衛と安全保障はより確かなものとなるのではないでしょうか。

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保護機能こそ国家の存在意義では?-憲法第9条2項問題

2018年02月08日 15時52分38秒 | 日本政治
【憲法改正】自民党幹部vs石破茂氏 「2項」削除是非めぐり鋭く対立 9条で初の本格議論 条文案募集も難航必至
 憲法改正問題が政治日程に上るに至った今日、焦点となるのは、やはり憲法第9条の行方のようです。自民党の憲法改正推進本部での議論では、戦力や交戦権に関わる2項の扱いをめぐり、維持論と削除論との間で対立が続いているようです。

 “2項を維持すべし”とする維持派の人々は、削除派に対して、2項が削られては公明党や国民の理解を得られないと説明しています。公明党に対する支持率は3%程度ですので、改正の発議においては配慮を要するのでしょうが(野党側の改憲勢力を考慮すればその支持獲得は絶対的ではない…)、少なくとも国民投票では、それ程の影響力はないはずです。となりますと、改憲の行方を握るのは一般国民の賛意と言うことになりますが、国民の大半は、維持派の人々が主張するように、2項の維持を心底から望んでいるのでしょうか。

 国家の基本的な機能は“保護”であり、外に対しては外敵から、内にあっては犯罪者等から一般の国民の基本権や自由を護る任務の遂行こそ、その存在意義と言っても過言ではありません。国家が軍隊や警察といった強制力を有するのも、国家が国民のための保護機能を果たす使命を負っているからです。こうした保護機能は、個人レベルでは不可能であるからこそ、個人を越える能力を付与された国家が組織的に担う必要があるのです。

 この観点からしますと、一般の国民が、国家の保護機能の強化を望むのは自然、かつ、合理的な心の動きのはずです。ところが、殊、憲法第9条の改正となりますと、マスメディアをはじめ、各政党や政治家の大多数は、一般の国民は日本国政府の保護機能に対して制約を課したいに違いない、と信じ込んでいるのです。個人レベルでも、獰猛な野獣達が牙を研いでいる状況下にあって、自らの手足を縛り、身を護る準備さえしてはならない、と考える人はいないはずです。国家レベルにあっても、危険に対する人間の判断は同様であり、中国の軍事的台頭や北朝鮮の核・ミサイル開発等を前にして、防衛や安全保障の権限に課せられた憲法上の制約を取り除くことに、一般の国民が強く反発するとは思えないのです。自らの身を護ることに他ならないのですから。

 しかも、2項を残したのでは、3項の追加によって自衛隊の合憲性が明確化されたとしても、その他の問題に関しては、日本国憲法制定以来、これまで日本国の政界を悩ませてきた憲法上の“神学論争”が完全には解消されません。憲法改正の意義の一つは、終わりなき“神学論争”からの脱皮にあったのですが、集団的自衛権行使の問題や国際法との整合性をも含め、曖昧な部分が多々残されてしまいます。

  こうした点を考慮しますと、第9条の改正については、1項や2項の条文の存廃、あるいは、3項の追加に拘るよりも、全面的に書き換える方が、不安定さを増す現在の時代状況には適しているように思えます。日本国の防衛、並びに、国際法秩序の維持に資する憲法改正であってこそ、国民の理解を得られるのではないでしょうか。

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政治の前提としての“善”と“悪”の混在

2018年02月07日 14時57分40秒 | 国際政治
 今年の『ナショナル ジオグラフィック』2月号のテーマは、“善と悪”でした。脳科学から人類に善人と悪人が混在する理由を解明しようとする試みですが、この研究、政治を考える上でも示唆に富んでおります。

 記事を要約すれば、善人と悪人、即ち、自己犠牲を厭わない利他的な人と犯罪者やサイコパス等の利己的な人とでは、脳内における共感の回路に違いがあり、特に扁桃体が重要な部位となります。前者の扁桃体が平均して8%程大きい一方で、後者は扁桃体や眼窩全頭皮質の部位が小さいのみならず、機能障害もあるそうです。現在、こうした知見は優しい心を育てるトレーニングの開発等にも活用されており、犯罪者を減らし、善き安全な社会の実現に向けた取り組みに貢献しているとのことです。

今日の脳科学は、人間社会には善人と悪人の両者が混在していることを立証しているのですが、近代以降の政治思想を見ますと、人間観において極端な立場からの主張が大半を占めてきたように思われます。近代以降の人権思想は、全ての人間を、‘理性を備えた善人’と見なす性善説に基づいており、それ故に、“悪人”に対する対応が十分とは言えませんでした。“犯罪者の人権を守れ”の大合唱によって、一般の人々が暴力の餌食になり、被害者が泣き寝入りとなるケースも少なくなかったのです。また、暴力革命を肯定する共産主義などは、その主導者自身がサイコパスであった可能性も否定はできません。一般の人々の立場や運命に対する思いやりも共感も一切なく、革命に伴う虐殺に対して良心の痛みを感じていないのですから。

そして、統治の仕組みがこうした偏った人間観に基づいて設計されていたり、政策が策定されていたりする場合には、それは、得てして深刻な問題をもたらします。日本国の憲法第9条はその最たる事例であり、近隣諸国や国際社会には悪人ならぬ“悪しき国家”など存在していないものと前提として起草されています。この結果、当然の正当防衛の行為さえ、違憲と見なされかねないのです。また、隣国の中国は、その利己的なサイコパス的行動を、‘共産主義理論は絶対’する主張を以って肯定しようとさえしています。

政治の世界に正邪の区別を持ち込もうとすると、リベラル派を始めとした“進歩的知識人“なる人々は、価値相対論を持ち出し、勧善懲悪を古びた黴臭い、あるいは、幼稚な思想と決めつけて嘲笑してきました。しかしながら、現代の脳科学が、悪人の存在を科学的、かつ、実証的に裏付けている以上、良き統治を実現するためには、地方、国家、そして、国際社会といったあらゆるレベルで、加害防止・制御装置や善人保護措置を備えた制度設計を試みる必要があるのではないでしょうか。そして、善人と悪人が存在する以上、政治家を選ぶに際しても、善人が選ばれるシステムを構築すべきであり、それは、民主主義のより優れた方向への発展をおいて他にはないのではないかと思うのです。

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中国を世界第一位の軍事大国にしてはならないシンプルな理由

2018年02月06日 16時12分26秒 | 国際政治
米国の核戦略報告書は「見当違い」、中国が批判
中国の軍事技術は長足の進歩を遂げ、あらゆる先端技術が兵器開発に注ぎ込まれております。中国の軍事的台頭によってアメリカの優位は脅かされつつあり、米中間の軍事力の格差も急速に縮まっています。果たして、中国がアメリカを凌ぐ世界第一の軍事大国にのし上がった日には、一体、何が起こるのでしょうか。

 こうした予測に対しては、大国化した中国の軍事力を怖れ、同国との平和的交渉を以って脅威をコントロールすれば問題はない、とする意見もあります。冷静、かつ、実務的な“危機管理”と解すれば聞こえは良いのですが、国際社会の治安維持としての平和は、最終的には“力”に求めるしかないという冷徹なる現実を考慮しますと、軍事力において中国が世界トップの座に上ることは、人類に救いなき悲劇をもたらすこととなるかもしれません。

 当事国間の外交交渉等の話し合いというアプローチも、国際レベルにおける法的制裁というアプローチも共に平和的な方法と見なされていますが、その実、最終的な担保としての“力”がありませんと、問題解決に必要とされる一連のプロセスは完結しません。前者には合意の不履行があり得ますし、後者にあっても、事前には違法行為が、事後的には判決の不履行、あるいは、刑罰の不執行があり得るからです。平和的な方法と雖も、拘束力を有する“力”の存在は不可欠であり、これが欠けている場合には、全ての諸国は、平和を享受することはできないのです。

 この側面から上記の問題を考えてみると、中国の軍事的台頭のリスクの高さは容易に理解することができます。今日、なおも共産党一党独裁体制を堅持している中国は、暴力を積極的に肯定するマルクス・レーニン主義の申し子であり、国内的には体制を維持するため、対外的には華夷秩序を構築するためには、他国との合意や国際法を破ることを厭わないことでしょう。こうした加害的な国が、他の全ての諸国に優る軍事力を手にした場合、その結果は目に見えています。たとえ中国が、あらゆる合意を不履行とし、国際法に反する行為を行ったとしても、誰もそれを止めることはできなくなるのです。こうした事態は、古代ギリシャのミノタウロスの神話やヤマタノオロチが登場する出雲神話などを思い起こさせます。他者に犠牲を強要する者の支配は、それが神話化されたように、今も昔も人々を苦しめてきたとも言えます。

メキシコでは、麻薬組織が警察を上回る軍事力を保持するに至ったため、国内の治安は乱れ、人々は恐怖の中での生活を余儀なくされています。一般の諸国において、一先ずは治安が保たれている理由は、犯罪組織や犯罪者よりも、警察の治安維持力が優っているからです。中国が世界第一位の軍事力を誇るに至った時、国際社会もまた、犯罪組織が跋扈するメキシコ化を覚悟しなければならないのです。“中国の夢”が、他の諸国にとっては悪夢である以上、この事態を事前に阻止することこそ、国際社会が取り組むべき重要課題なのではないかと思うのです。

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北朝鮮問題が示す“対話解決”にも“力”を要する理由

2018年02月05日 16時10分41秒 | 国際政治
日米、対北圧力で共同文書…首相・ペンス氏会談
北朝鮮の核・ミサイル開発阻止に関しては、二度にわたり、アメリカも国際社会も煮え湯を飲まされております。一度目は1994年の米朝二国間の枠組み合意であり、二度目は、日中ロ韓を加えた多国間交渉の枠組みとしての六か国協議です。

 こうした失敗の前例があるにも拘わらず、北朝鮮問題については、平和的解決を目指すとしてあくまでも話し合い解決に拘る人々もおります。しかしながら、“対話解決”にも、結局は“力”というものを要するのではないかと思うのです。

 これまでにも、外交交渉には軍事力の裏付けが必要である、とする見解が皆無なわけではありませんでした。しかしながら、その多くは、交渉を自国に有利に運ぶための圧力としての力であり、どちらかと言えば、相手国に対する心理的な作用に期待しての議論でした。もっとも、外交交渉に軍事力を背景とした力学を持ち込みますと、かつての砲艦外交に回帰しかねませんし、中国やロシアの云う“対話解決”には常にこの側面が含まれており、対等であるはずの外交交渉が強者有利に傾くリスクも否定はできません。しかも、国連憲章(第1条4)や条約法条約において条約の無効要件(第52条)とされる、“武力による威嚇”となりかねないのです。

 かくして交渉における軍事力の圧力効果は誉められたものではないのですが、その一方で、“対話解決”には、もう一つ、“力”を要する場面があります。それは、どちらか一方が合意を破った場合です。対話解決を訴える人々は、交渉と合意という側面のみを切り取って“平和”と称していますが、問題解決のプロセス全体を見ますと、合意破棄や合意不履行という行為は事後的にあり得る局面です。これは、日韓慰安婦合意等においても問題視されている展開でもあります。

 話し合いによる合意とは、当事者の双方がその内容に誠実に従うことを前提としておりますが(自己拘束)、仮に、この前提が崩れた場合には、既に解決されたはずの問題が再燃するか、あるいは、時間の経過により合意を遵守した側が不利な状況に置かれる結果を招きます。北朝鮮問題とは、まさに“対話解決”におけるリスクが表面化したものであり、今日、アメリカが、北朝鮮に対する軍事的オプションを検討する理由の一つも、同国の合意不履行にあります。

 このように考えますと、北朝鮮に対して軍事行動が選択された場合、朝鮮戦争の再開、国際法違反を根拠とした軍事制裁、並びに、本記事で述べた合意不履行に対する強制措置の三つの根拠が混在していると解することができます。経済制裁も強制手段の一つですが、それでも問題解決に至らない場合には、何れの根拠であれ、軍事力という強制力の使用は正当化されることとなります。そして、この側面は、不誠実、かつ、無法な国家には最強の軍事力を持たせてはならないことを示唆していると思うのです。

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非暴力主義の無情―ガンジー暗殺から70年

2018年02月04日 16時08分50秒 | 国際政治
 インドは、先月30日に、独立の父とされるマハトマ・ガンジーが暗殺された日から70年を迎えたそうです。日本国内でも追悼式典が催されましたが、非暴力主義という崇高な理想を掲げたガンジーその人が凶弾、即ち暴力に倒れたことは、この理想に内在する問題をも問いかけているように思えます。

 暴力というものが物理的な強制力である限り、それを言葉で抑止することは至難の業です。抑止が可能となるには、相手方がその言葉を十分に理解し、理があることを認める必要があるからです。インド独立に際して、独立運動を弾圧してきたイギリスが折れた背景には、植民地支配のコスト増大や国際社会における民族自決=反植民地主義のうねり等がありました。ガンジーの理想は、曲がりなりにもイギリスが相手国であり、かつ、独立承認が同国の国益にも適っていたからこそ、幸運にもインド独立という実を結んだとも言えます。

 しかしながら、非暴力主義が、極めて狭い条件下でしか実現しないとしますと、この主義主張を、条件が揃っていない他のケースにおいて試みるのは極めて危険な行為です。否、非暴力主義が悲劇的な結末をもたらすことも稀ではありません。ガンジー自身が暴力を以って命を奪われたように…。また、チベットは、チベット仏教の思想において非暴力主義を以って中国の侵略に対峙しましたが、人民解放軍の進駐により国土はあえなく占領され、チベット人の多くがジェノサイドを受けると共に、今でもその過酷な迫害と弾圧は続いています。この一例を見ても、北朝鮮問題をめぐっては、話し合い解決を強固に主張しながら、中国という国は、自らの利益のためには被害国の声に耳を傾ける気などさらさらないことが分かります。暴力に訴えてでも、自らの主義主張を貫きたい、あるいは、利益を得たいと決意している者の前では、非暴力主義は無力となるのです。

 こうした条件の限定性に加えて、非暴力主義には、見殺しの罪やそれに伴う奴隷の平和という問題もあります。日本国内でも、憲法第9条に依拠して、仮に外国から侵略を受けても、非暴力主義に徹するべし、とする意見が聞かれます。こうした人々は、仮に、家族、友人、隣人、そして、他の日本国民が外国の軍隊やテロリストによって踏みにじられても、“平和のためには武器をとるな”と諭すのでしょうか。援けを求める人々の声に耳を塞ぎ、無情にもその手を振り払い、見殺しにするのでしょうか。喩え命を失わなくとも、無抵抗のままに被征服民として劣位な地位に甘んじるとしますと、それは、“奴隷の平和”というものです。

 ガンジー自身は、「インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる…」とも述べたと伝わり、無条件に武力を否定する絶対的な非暴力主義者ではなかったようです。おそらく、ガンジー自身も認めた不徹底さは、非暴力主義の限界を示すものであると共に、正邪の区別なく全ての力の行使を“暴力”として否定的に理解したところに起因するのかもしれません。ガンジーの崇高なる精神を尊重しつつも、それが内在するリスクを回避するためには、非暴力主義の限界を慎重に見極めるべきではないかと思うのです。

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多文化共生社会のモデルに賛同しますか?-日本の近未来

2018年02月03日 16時15分44秒 | 国際政治
日経新聞朝刊一面には、毎日、同社のコラムとして「春秋」が掲載されております。世相の様々な面を切り取って読者に語りかけているのですが、本日の記事では、多文化共生社会が扱われておりました。

 同記事によりますと、今年、芝園団地の自治体が、国際交流基金から「地球市民賞」を受賞したそうです。授賞理由は「多文化共生の先進的事例」ですが、同団地の“多文化共生”へのプロセスは、まさしく既存の固有の文化側の消滅への道であることを実例として示しています。

 芝園団地とは、埼玉県川口市にある総戸数2500戸の高層住宅棟から成るマンモス団地です。高度成長期には若い世代の家族が入居し、活気にあふれた団地であったのでしょうが、今では、日本人世帯の高齢化と平行するように中国人世帯が増加し、世帯数の半数を占めるにいたっているそうです。当初は、中国人世帯が持ち込んだ慣習からトラブルが生じるなど文化摩擦が生じたものの、同団地自治体が共生に向けた取り組みを開始したところから、こうした問題は収まり、多文化共生社会のモデルとなったと説明されています。

 そして、このコラムで注目される点は、共生に向けたオブジェとして、団地内に“大小様々な手形がしるされたテーブルやベンチ”が設置されていることです。これらのオブジェは、「中国人は帰れ」といった落書きを塗り替えたものであり、それ故に、多文化共生を象徴するとされているのです。しかしながら、このオブジェは、多文化共生の行く先には、日中両国の伝統とは全く関係のない別の文化が広がる可能性を示しています。芝園団地では手形アート(handprint art)ですが、文化摩擦を避けるために、敢えて両者共々固有な伝統文化が退けられ、無関係の“第三の文化”が選択されているのです(手形アートの起源は不明なものの、全世界的に行われている…)。それは、“多文化共生文化”とでも称すべき奇妙な画一的文化の出現とその強制かもしれません(固有の文化は個人や家庭レベルで細々と維持されているに過ぎず、”隠れ○○人”化へ…)。

 かくして芝園団地の共生オブジェは、多文化共生主義がもたらす多文化から画一的な単一文化へのプロセスを実証しているのですが、人口比を考慮しますと、日本国には、さらにその先には別の近未来が待っているかもしれません。それは、日中半々の人口構成では、“多文化共生文化”が広がりますが、人口比が逆転した場合には、多数派の文化が優勢となる可能性です。住民の半数以上が中国人世帯となれば、やがて“多文化共生文化”の下に隠れていた多数派の固有の文化が表面に浮上し、芝園団地のさらに40年後は中国人社会に変貌しているかもしれません。

 芝園団地の事例は、その国の伝統文化⇒移民の増加⇒異文化間の文化摩擦⇒“多文化共生文化”の流れを示していますが、そもそも文化とは、本来は、個人には還元できない集団的な性質を持ちますので、人口比や集団的影響力の変化はその国の文化や社会の変化をも伴います。最終的には、日本国の伝統文化は、観光目的に“先住民の文化”として保護されるか、あるいは、数ある文化の中の一つとして相対化されことでしょう。画一化された“多文化共生文化”の押し付けに留まらず、やがては多数派となった中華文化に染まるとしますと、多文化共生主義がもたらすこの近未来を、日本国民の多くは快く受け入れるのでしょうか。

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多文化共生の分裂作用に注目を―多様化は国民破壊の起爆剤

2018年02月02日 19時08分54秒 | 国際政治
 本日の日経新聞朝刊一面に、”多様性こそ活力の起爆剤”とする見出しで、近年の急速な外国人労働者の増加による日本国内の変化をレポートする記事が掲載されておりました。多国籍化する日本社会を肯定的に描き、“既成事実”の受け入れを読者に奨めていますが、プラス面のみを強調し過ぎているように思えます。

 多様化の一般的な作用とは、統合ではなく分裂です。社会とは、長きにわたる歴史を通して醸成してきた言語、慣習、倫理観、社会常識、行動パターン等を共有することで成り立っています。挨拶の仕方一つを見ても、頭を下げる習慣を持つ社会に育った人と、握手を習慣とする社会を出自とする人とでは、出会った瞬間から行動が“ちぐはぐ”となります。言語が違えば、全く相互の意思疎通が不可能となるのです。多文化共生とは、共通性が希薄な個々人が、個人レベルに還元された文化を保持しながら生きる空間ではあっても、既存の社会を破壊したところに出現します。言い換えますと、多様化とは、国民破壊の起爆剤なのです。

しかも、全ての諸国が移民を受け入れ多文化共生主義を同時に採用すれば、文化を育んできた母体自体が消滅し、地球上から文化の多様性は消滅することでしょう。実のところ、マスメディアが喧伝する多様性の先には文化的多様性が一切消え去り、人間の特性の最小公倍数の部分によってのみ成り立つような、画一化された無味乾燥とした世界が待っています。近年のメディアの傾向を見ますと既にその徴候が現れており、登場してくる人々は、人種、民族、宗教など様々な出自を持つ、あるいは、混血の人々でありながら、考え方や生活スタイルなどは皆同じです(ノマド的、あるいは、スラム的…)。つまり、パーソナリティーの類型が画一化されているのです。逆から見ますと、マスメディアの言う多様性とは、人格が自らが設定したモデルと一致すれば、外見や遺伝子における違いは関係ない、ということらしいのです。これは、一種の全体主義なのではないでしょうか。

 その一方で、破壊力を“活力”と捉えますと、それは、上述した記事の如くに肯定的な方向へと解釈されてしまいます。核分裂が莫大なエネルギーを放出するように、確かに、何かが崩壊する際には、“活力”なるものが観察されるケースはあります。しかしながら、物質の核分裂も一度限りであり、かつ、別の物質に変換されてしまうように、全ての文化が崩壊した後の世界には、不可逆的な永遠の停滞が待ち受けているかもしれません。また、人間社会の破壊が真の活力を生み出すのか、という問題も残されています。自然科学と社会科学とは扱う対象が違いますし、破壊に対して肯定的な評価を与える姿勢は、“革命思想”とも共通します。

しばしば、共産主義と新自由主義は同根であると指摘されていますが、一方的な破壊や変化を絶対善と見なすその頑なな思考において両者は共通しています。“多様化しなければ活力が生まれない”とする考え方こそ、主観的、かつ、偏狭で頑迷な固定概念なのはないでしょうか。こうした“リベラル派”は、人々に対して変化に対する柔軟性を説きますが、現実のマイナス面から目を背け、思想において最も硬直しているのは、これらの人々かもしれません(これらの人々にとっては、同化は論外ともなっている…)。多様化が内包する国民破壊作用の側面を直視せず、その行く先を“バラ色の未来”と考えているとすれば、その視点は、一部の人々の理想ではあっても、一般の国民、そして、人類に共有されたものではないと思うのです。

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ユーロと仮想通貨-真逆の方向性

2018年02月01日 16時26分55秒 | 国際政治
【コインチェック巨額流出】流出仮想通貨、分散先は20アドレス 追跡攪乱か、便乗詐欺も
2002年1月1日、EUでは、ユーロ導入国の間で単一通貨が域内を流通することとなりました。これを機に、貨幣史の流れは一気に“統合”の方向に向かい、他の地域での導入や“世界通貨”の可能性まで検討されたのですが、今日、仮想通貨の登場は、その方向性を逆転させているかのようです。

 EUの金融・通貨統合を支えたのは、最適通貨圏理論と呼ばれる経済理論であり、その主唱者であったロバート・マンデル氏は、ノーベル経済学賞を受賞しております。同理論では、複数の諸国の間で通貨を統合するメリットが論じられており、概要を述べれば、各国において景気の波動が異なる場合、単一通貨を導入した方が市場の自律的調整力が働き(好景気の国から不景気の国への通貨移動によるマネー・サプライの調整…)、広域的な経済安定化効果を期待できるというものです。

 市場の自律的調整力の他にも、金融・通貨統合のメリットとして為替リスクや両替コストの完全なる消滅や国際基軸通貨化なども挙げられており、EUがユーロ導入に踏み切ったのも、こうしたプラス面を積極的に評価したからに他なりません。しかしながら、ビットコインを始めとして世界レベルで様々な仮想通貨が発行されるようになった今日、通貨の数は逆に増加に転じ、国レベルで見ても、自国通貨と平行して仮想通貨が使用されるという“分裂”状況を呈しています。つまり、仮想通貨の登場と同時に、各国、並びに、EUのユーロ圏共々、“単一通貨圏”が崩壊しているのです。

 ユーロ導入に際してあれほど声高に主張されたにも拘わらず、仮想通貨の取引については、その煩雑性やコストを問題視する声は殆どなく、単一通貨圏の崩壊への言及も見当たりません。仮に、複数の通貨の同時流通に何らの問題もないならば、ギリシャなどのユーロ導入国においても、自国通貨を復活させても然したる不都合は生じないはずです(ユーロと自国通貨が併存する状態…)。

 ユーロの評価については、ソブリン危機等の発生によりマイナス面をも勘案する必要がありますし、国家によって信用が保障されている公定通貨は仮想通貨ではありませんので、EUにおける自国通貨の復活問題は別に議論される必要もありましょう。その一方で、仮想通貨の評価については、ユーロ導入時の議論を思い起こす必要があるようにも思えます。貨幣の機能や信用に照らしますと、仮想通貨はいかにも不安定、かつ、不完全です。未だに流通量が低レベルにあるからこそ、それに内在するリスクの表面化は、相場の暴落やNEM流出といった一部に留まっているのかもしれないからです。

 仮想通貨に伴う単一通貨圏崩壊に対して、マンデル氏は、果たしてどのように論評するのでしょうか。あるいは、仮想通貨には特定の国の色がなく、国境を越えて取引される点にのみに注目して、これを使用する“個人間”では“最適通貨圏”が成立しているとして是認するかもしれません。しかしながら、仮想通貨の数や取引量が増加していくにつれ、これまで隠れてきた様々な問題が表になり、そのリスクの高さに慄くことになるような気配がするのです。

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