万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

菅新政権への不安―精神論では勝てないグローバリズム

2020年09月15日 11時12分50秒 | 国際政治

 菅新政権への不安は、親中派の首領である二階幹事長の続投決定によって現実のものとなりました。この人事の布陣ですと、次期総選挙では、候補者選定や資金配分の権を握る同幹事長の采配によって、自民党はさらに親中色を強めるかもしれません。親米派の議員はパージ、あるいは、粛清されかねないのですが、党内人事に加えて不安を掻き立てるのが、菅官房長官による‘日本民族を信じる’発言です。

 

 この発言、親中派疑惑が渦巻く中で、保守政治家としての面目躍如といった風にも聞こえるのですが、実は、そうではないのです。同発言の文脈を見ますと、そこには、グローバリズムに対する認識の危うさが見て取れるからです。それでは、どのような文脈なのかと申しますと、記者のインタヴューに答える形で飛び出した発言であり、その質問とは、新政権がグローバリズムをさらに推し進めた際に予測される、日本企業の勝算について問うものでした。同質問に対しての回答こそ、‘日本民族を信じる’というものであったのです。つまり、現実の直視を回避した一種の精神論であり、この発言には開戦前夜を彷彿させる危うさがあるのです。

 

 グローバリズムとは、規模が圧倒的な優位性を発揮しますので、合理的に推測すれば、日本企業に勝ち目はありません。日本企業は、高い技術力、並びに、それに裏打ちされた生活を便利で豊かにする製品の開発を以って経済大国への道を歩んだのですが、知的財産権までもが国境を容易に超えてしまうグローバル時代にあっては、これらの強みも薄れつつあります。技術力や発想力もまた、人材のハンティングやM&Aによる企業丸ごとの買収によって、資金力さえあれば手に入るのですから、こちらもまた、規模の経済が強力に働くのです。実際に、グローバル時代にあって、日本企業は、競争力を急速に低下させると同時に、国際市場におけるシェアを落としています(むしろ、独自路線をひた走ったほうが、希少価値としての輝きがあったのでは…)。

 

しかも、規模志向のグローバル時代に合わせるために、質よりも量を重視する企業経営が、日本経済の衰退に拍車をかけることともなりました。日本国の全ての企業が合併したところで、規模に優る米中等のグローバル企業に太刀打ちできるはずもなく、むしろ、質から量への転換が、日本国の強みを失わせてしまったとも言えましょう。そして、本来、誇るべき日本独自の技術も‘ガラパゴス化’として揶揄され、そこに将来のイノヴェーションの芽となるようなユニークな発想があったとしても、世界の画一化を目指すグローバリズムとは相いれず、その潜在的な価値も顧みられることはなかったのです。

 

今日の日本国の低迷の原因の一つが、自らのユニークさを捨て去ろうとしたところにあるとしますと、ポスト・グローバリズムの時代にあって日本経済が向かうべきは、敢えて逆方向を選択し、独自性に磨きをかけてゆくという意味における‘ガラパゴス化’であるかもしれません。この方向性にあっては、アメリカと同様に保護主義的な政策こそ望ましく、グローバリズムと一体化した中国とのデカップリングも必要となりましょう。日本市場、並びに、日本企業が中国に支配されるようになれば、もはや、日本経済が独自の道を選択する余地もなくなる、否、中国によって排除されてしまうからです。

 

この方向性は日本国に限られたことではなく、全世界の国々が、自らのユニークさを高めていく世界こそ、実のところ、真の意味での多様性が自立性と一体となって尊重される世界とも言えましょう。そして、それは、それぞれが完全に分離された孤島化としての‘ガラパゴス化’ではなく、相互に参考とすべきもの、あるいは、導入すべきものがあれば、自発的に取り入れてゆくという柔軟性や通気性を備えていれば、人類全体の発展に資するのではないかと思うのです(多様性と調和するグローバリズム…)。

 

菅総裁が掲げている政策方針を見ますと、実のところ新自由主義的な政策が並び、従来の規模追求型のグローバリズムの枠に留まるどころか、むしろ、改革の名の下でそれを加速化させようとしているように見えます。それは、結果的に日本企業に不利な競争を強い、国内市場を中国企業を含むグローバル企業に明け渡す結果を招くかもしれません。全世界規模でグローバリズム批判が強まる中、日本の企業、並びに、国民の多くは、中国の脅威を削ぐ意味においても、画一化と支配が一体化した従来型のグローバリズムからの転換を望んでいるのではないかと思うのです。


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やはり危ない菅官房長官の政治感覚―官僚人事発言問題

2020年09月14日 11時31分33秒 | 日本政治

 本日9月14日、与党第一党の自民党において総裁選挙が行われ、日本国における菅政権の成立が確実となる見通しです。その一方で、新たな政権の誕生に期待するよりも、国民の多くは、不安な眼差しで事の成り行きを冷静に見つめているように思えます。その理由は、菅官房長官の発言を聴きますと、否が応でも不安が過らざるを得なくなるからです。

 

 例えば、昨日13日には、出演した民放のテレビ番組において、菅官房長官は、「私ども(政治家は)選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と述べております。官僚主導型の政治が、民主主義の原則に反するとして批判の的とされてきた一昔前であれば、この発言に対して賛同する声は少なくなかったかもしれません。選挙において国民から負託を受けて成立した政権が、執行機関である官僚組織の人事を握るのは、民主主義に適っているように思えます。アメリカの政治でも、‘猟官政治’とも評されるように、政権交代によって行政組織の人事も一新されます。

 

しかしながら、2014年5月には内閣人事局が新設された後は、‘忖度’という言葉が一躍注目を浴びたように、むしろ、政治主導の官僚人事の問題が弊害として指摘されるようになりました。人事権を政府に握られてしまった官僚の人々が、政府の顔色ばかりを窺うようになり、政府の‘イエスマン’と化してゆくからです。案の定、菅官房長官の同発言に対しては批判的な声が圧倒的に多く、ネット上のコメント欄でも‘菅政権’の行方を危惧する意見が散見されます。独裁的な強権政治を敷くのではないか、という…。それでは、統治組織の設計において、政府と官僚組織はどのような関係にあるべきなのでしょうか。

 

第一に考えるべきは、民主主義を根拠とした政府の正当性の問題です。イギリスといった二大政党制の国では(今日では、変化が見られますが…)、下院議員選挙は、同時に国民による政権の選択を意味します。こうした諸国では、与党の得票数が過半数を越えるため、選挙の結果として成立した政府は、一先ず、自らの政策実現に関する正当性、あるいは、官僚組織に対する政府の優位性を主張することはできます。その一方で、日本国のような自民党一党優位の多党制の国では、政党間の合従連衡によって与党が形成されますし、必ずしも、明確なる政権選択を意味するわけでもありません。また、選挙公約は、一括選択の‘セット・メニュー方式’ですので、与党が公約として掲げた全ての政策に対して国民が支持しているわけでもないのです。況してや次期‘菅政権’は、党内の派閥力学によって成立するのですから、民主的な正当性を主張するだけの手続きを踏んでいるとも言い難いのです。

 

第二に指摘し得る点は、何故、‘人事’であるのか、ということです。菅官房長官の口癖は、‘人事は政権のメッセージ’であったそうです。人事権の掌握は、二階議員が党の幹事長の職を以って自民党を乗っ取るに至った手法でもあるのですが、独裁国家の特徴の一つでもあります。仮に官僚の職務が‘政府の政策を誠実に実行する’というだけであれば、人事権を以って人を入れ替える必要性はなく、誰であっても務まるはずです。官僚の人々を全人格的に支配しようとする、つまり、‘主人’に対して忠実なる‘下僕’にしたいからこそ、人事権を掌握しようとするのです。殊更に人事権を振りかざそうとするその姿勢において、法の支配ならぬ、‘人の支配’への著しい傾斜が見て取れるのです。

 

第三に、官僚組織には、統治制度上、政府とは全く異なる特性と役割がある点です。政府は、選挙によって短期的に交代しますが、官僚組織は、国家が存続する限り永続的に機能し続ける機関として設置されています。前例踏襲主義が批判されつつも、恒久的な機関である故に、過去のデータや情報、あるいは、実務的なノウハウの蓄積もあり、政府は、官僚のサポートなしでは政策実現もままならないのです。また、官僚は、競争試験の試練を経て採用されており、行政能力や専門知識においては政治家よりも優れています。このため、いわば、政策立案に際してのシンクタンク、あるいは、自ら提案するコンサルタントとしての役割をも担っているのです(単なる執行機関ではなく、政策立案にも関わる…)。この点を考慮すれば、日本国が、将来に向けて洗練された民主主義国家を目指し、より国民に資する質の高い政策を実現しようとするならば、官僚組織に独自の役割を認め、政策決定のプロセスにおいて正当に位置づける必要があるように思えます。官僚もまた、政治家と同様に、日本国民なのですから。

 

以上に述べた諸点からしますと、政府と官僚組織との間には適切な距離とバランスが必要であり、菅官房長官が述べるような政治主導型、否、上意下達の政治支配型では、国家の政策決定プロセスの発展史からすれば、むしろ、時代を逆戻りさせていると言えるかもしれません。そして、何よりも重大なことは、政府であれ、官僚であれ、民主主義国家では、民意に沿った国民本位の政策立案を心がけるということです。仮に、政府が民意に反する政策を採ろうとすれば、官僚組織こそ国民の砦となりましょうし、逆に、官僚組織が省益しか顧みずに国民に不利益を与えるような政策を立案する場合には、政府が民意を盾に国民を擁護する立場となりましょう。上述したシンクタンクとしての役割に加え、民主主義からの逸脱がないように、政府と官僚との間に相互に牽制し得るチェックアンドバランスの仕組みを保持する方が、遥かに、国民の統治機構に対する信頼を高めることができるのではないかと思うのです。

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岐路に立つ日本国―自民党も‘デカップリング’が必要では?

2020年09月13日 12時54分58秒 | 日本政治

米中対立が激化する中、日本国もまた、否が応でも自らの立ち位置を明確にすべき状況にあります。近年、頓に高まる中国の軍事的脅威、並びに、日米同盟による絆を考慮しますと、日本国民の多くは、日本国がアメリカ陣営、即ち、自由主義陣営に与するのは当然のことと見なしていることしょう。しかしながら、政界の動きを観察してみますと、安心してはいられないように思えるのです。

 

 自民党の総裁選挙を前にして、目下、菅義偉氏、岸田文雄氏、そして石破茂氏の3名の立候補者がそれぞれの政策や持論を述べておられます。ところが、何れの候補者の主張を聴きましても、肝心の中国との関係については言葉を濁しているのです。否、中国と袂を分かつ事態を想定している候補者は皆無に等しいと言えましょう。質問者の側が、米中対立における究極の選択について意見を求めないことにも原因があるのでしょうが、この曖昧さは、国民に漠然とした不安感を与えざるを得ません。中国陣営、即ち、全体主義陣営の側に‘転ぶ’可能性が敏感に感じ取るからです。

 

 総裁選の結果は、地方票を含めても菅氏圧勝という予測が圧倒的ですが、国民の不安は、同氏が勝利を確実にしたプロセスからさらに増しています。言わずもがな、同氏の独走態勢を方向づけたのが、かの新中派のドン、二階幹事長であったからです。古い自民党への回帰とも称されているように、‘義理と人情’の世界で生きてきた菅氏が、二階幹事長から受けた‘恩’に報いないはずはありません。また、菅氏のもう一つのバックである公明党も、中国との間に独自のパイプを有する親中派政党であるのみならず、‘総体革命’を掲げ、教団トップが信者に対して独裁者のように君臨してきた組織形態において全体主義的でもあります。自由、民主主義、法の支配、基本的権利の尊重といった自由主義国で尊重されてきた諸価値を共有しているわけではなく、むしろ、中国との親和性が高いのです(創価学会が殊更に‘平和’を強調するのは、中国と同様に、その他の諸価値を蔑ろにしているからかもしれない…)。

 

 菅氏を取り巻く状況から推測しますと、次期政権は、親中政権となる可能性は相当に高いように思えます。加えて、同氏は、対中包囲網の形成にも否定的との報道もあり、安倍政権の継承者としてのアピールも怪しくなります。安倍政権の最大の外交成果として挙げられているのが、‘自由で開かれたインド・太平洋戦略’への貢献なのですから(もっとも、同戦略は、米中関係の本格的な対立激化を予測したものではなく、対中圧力としての利用のみを期待したのかもしれませんが…)。これでは、前政権との断絶を自ら宣言するようなものです。安倍首相の退陣が親米政権から親中政権への転換を意味したとしますと、後世の歴史家は、今般の政変を政権内の‘無血クーデタ’と評するかもしれません(国民は、僅かな空気の変化にこそ敏感になるべきかもしれない…)。

 

 そして、ここで問題となりますのは、第二次世界大戦前夜と同様に、国家の一大事が国民を無視する形で決定されてしまうことです。全体主義者は常々自らの目的を実現するために、既成事実化の手法を用います。有無を言わさずに、自らの決定を押し付けてくるのです。その後は、国民を監視下に置き、同調圧力を利用しながら反対の声を封殺してゆくという、お決まりのコースを辿ろうとすることでしょう。公共放送のNHKや民放各社、新聞各社などのマスコミをも動員して、中国美化や中国礼賛のキャンペーンを張るかもしれません(実際に、NHKには既にこの傾向が見られる…)。

 

しかしながら、今日、日本国には民主主義が根付いていますし、国民の情報量は戦前の比ではありません。況してや、圧倒的多数の日本国民が残忍で強圧的な中国に対して良い感情を懐いていない状況にあって、たとえ、政府が中国陣営入りを決定したとしましても、国民の間から反対や抵抗の声が上がることでしょう(事実上、中国による日本国の属国化を意味してしまう…)。こうした事態は、事前に避けるに越したことはないのですが、そのためには、先ずは、親米政党を看板としてきた限り、自民党が二つに分かれるべきなのではないでしょうか(もっとも、‘双頭作戦’では困りますが…)。自民党も親中派一色ではないはずですし、自らの党が中国派に乗っ取られてしまった現状を憂いている議員や党員も少なくないはずです。自民党がデカップリングし、親米派と親中派の二つの政党に分かれれば、有権者には選択の余地が生じます。少なくとも、主権者である日本国民には、自由主義陣営を選択する権利が認められるべきではないかと思うのです。


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小さな政府のパラドックス―利権配分型の大きな政府へ

2020年09月12日 11時43分43秒 | 国際経済

 小さな政府とは、政府の事業範囲が狭く、財政規模の小さなコンパクトな政府もモデルとして理解されています。政策としては、公益事業の民営化とセットとされており、グローバリズム、並びに、新自由主義の同伴者でもあります。郵政民営化を進めたかつての小泉政権を初め、民営化を叫んだ政治家の人々は‘官から民へ’をスローガンとして掲げ、あたかも、民間企業が伸び伸びとと活動する自由な経済の到来というイメージを振りまいてきたのです。

 

 しかしながら、よく現実を観察してみますと、小さな政府論には、パラドックスがあるように思えます。その理由は、民営化によってもたらされた結果とは、公共サービス分野における大手企業による独占や寡占でしかなかったからです。多くの人々が民営化に対して寄せていた期待とは、公共事業分野が民間事業者に広く開放されることで、多くの企業が同市場に参入し、そこでは公平なルールの下で自由な競争が行われ、利用者が、安価で良質のサービスを受けられる状態であったはずです。実際に、民営化の根拠として強調されたのは、硬直化した公共事業分野に民間の競争メカニズムを導入することで、国民の利益や利便性の向上に資することでした。民営化による最大の受益者は、自由競争の果実を享受し得る国民とされたのです。

 

 ところが、いざ、蓋を開けてみますと、期待とは裏腹に、ソフトバンクグループの孫正義氏のように、‘政商’とも称される、政府と癒着するIT起業家も現れるようになりました(LINEなどのIT大手も、常々、公的事業に入り込もうとする…)。確かに、事業主が国や自治体から民間企業が代わったものの、それは、公平で自由な競争の結果ではなく、むしろ、資金力において優位にあり、かつ、政府に取り入った一部事業者による事業の独占や寡占であったのです(分割後に民営化された事業体は別として…)。それもそのはず、公共事業分野とは、もとより事業の性質上、極めて公共性の高く(その多くはインフラ事業…)、自由競争が働かない分野であるからです。公共サービス分野については、その殆どは独占禁止法の適用除外の対象です。

 

 ここに、小さな政府のパラドックスが自ずと明らかになります。それは、小さな政府政策、即ち、民営化を推進すればするほど、国レベルであれ、地方自治体レベルであれ、政府の許認可権を含む利権や監督権限が肥大化するというパラドックスです。財政規模を基準として分類しますと、小さな政府は、確かに予算規模の‘小さな政府’なのですが、民営化した公共サービス分野における利権や監督権限を含めれば、‘大きな政府’と言わざるを得ません。小さな政府の結果として現れた経済は、それが一部であれ、法の支配に基づくルール型の経済ではなく、むしろ、政府が介在する配分型の経済なのです。

 

 しかも、アメリカではGAFAが積極的に政府や政治家に対してロビー活動を展開しているように、IT大手の資金力や人脈は、政府の政策をも方向付ける力を有します。かくして、様々な事業上の権利を付与する側にある政府(政治家や官僚)は、民間事業者から賄賂攻勢を受けやすい立場となり、腐敗しやすい体質を抱え込むこととなるのです。この側面は、改革開放路線によって、一党独裁の下で権力を独占する共産党幹部が、利権配分によって大富豪となった中国とも共通しています。そして、民営化とは、得てして海外企業への自国市場開放を伴いますので、政府は、中国企業をも含む海外企業からの働きかけをも受けることになりましょう。

 

 小さな政府とは、その実、大きな政府であったというパラドックスは、今後、改めて官民の線引き問題を考えてゆく必要性を示唆しております。そして、小さな政府の実像が、政府と政商企業との癒着体制、即ち、悪しき‘マネー支配’を意味するとしますと、それは、民主主義にとりましても脅威となるのではないかと思うのです。


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国民が選挙で既存政治にNOを表明できる方法

2020年09月11日 12時51分20秒 | 日本政治

 アメリカでは11月の大統領選挙戦に向けて、トランプ陣営とバイデン陣営との間で激しい論戦が続く一方で、日本国においても‘政変’が生じています。安倍首相の辞任表明により、突如、首相交代の事態に見舞われると共に、野党側でも、乱立気味の政党が再編され、新たに野党第一党の党首が決まりました。もしかしますと、これらの動きは、水面下では連動しているのかもしれませんが、民主主義国家にあって主権者であるはずの国民は、遠巻きに眺めているのみの存在になりつつあります。

 

 この状態では、何度選挙を行ったとしても、民意が政治に届くことは殆どありません。与党であれ、野党であれ、どちらを選択したとしても、国民にとりましては、どちらが‘まし’かの選択でしかないからです。狩猟や戦争では、左右や前後から獲物や敵を追い詰めて罠に嵌めたり、捕獲する挟み撃ちという方法がありますが、政治の世界でも、双頭作戦と称される詐術的な追い込み作戦があります。

 

視界に入る範囲において、二つの‘頭’が戦っておりますと、両者の闘いを見る人々は、両者は敵対していると理解します。ところが、この二つの‘頭’を首の方向に辿ってゆきますと一つの体から分かれ出ており、実際には、二つの‘頭’は戦っているように見せかけているに過ぎないのです(多党制の場合には、双頭ではなく‘多頭作戦’と言えるかもしれない…)。今日の政治状況を見ておりますと、与野党の挟み撃ちにあって、国民は、自らの望まぬ方向に‘選択’を強いられているように見えます。憲法において政治的な選択の自由が保障されていながら、‘選ぶ’という国民の自発的な行為、あるいは、政治的な選択のチャンスそのものが、自滅への道へと誘導する仕掛けられた罠なのかもしれないのです。

 

 日本国民の多くも、政界全体の問題に薄々気が付いてきているのですが、このまま、双頭作戦に嵌まってしまい、選挙という選択を繰り返す度に、身動きが取れない状況に追い込まれてしまうのでしょうか。これでは、やがて民主主義も形骸化してしまい、国民の選挙権も、自らの首を‘真綿’で絞める場に過ぎなくなります。そこで、どちらを選んでも改悪される、あるいは、国民が不利益を被ってしまうという民主主義の危機から脱する方法を考案する必要があるのですが、これは、なかなか難しい問題です。しかしながら、国民の側が無為無策ですと哀れな‘餌食’となってしまいます。

 

 実のところ、双頭作戦の存在は証明されてはいないものの(こうした作戦は、隠れて行われていればこそ成功する…)、危機脱出のために考えられる方法の一つとしては、選挙制度を、既存の政治に対してNOを表明する意思表示の機会として利用するというものです。つまり、白紙投票や棄権に国民の意思表示としての特別の意味を持たせるのです(政府を含めた国民的なコンセンサスさえ成立すれば、法改正や新法の制定は必要ないかもしれない…)。仮に、特別の意味、すなわち、国民の側からの拒絶や反対表明としての意味を付与しませんと、白紙投票や棄権の意味は何らの考慮をもされず、たとえ、有権者の数%しか得票数を得ない候補者であったとしても当選することでしょう。当選した政治家、あるいは、政府は、国民が自ら選んだ結果としてその政策を受け入れるように国民に求めることでしょう。そして、こうした選挙制度に嫌気がさした国民が投票所に足を運ばなくなりますと、組織票が有利となり、公明党や共産党といった政党が議席数を伸ばすことにもなりかねません。‘支持政党なし’が有権者の大半を占めている現状にあって、国民のNOの意思は現行制度においては無視されてしまうのです。

 

 マスメディアでも、得票数や当選順位ばかりを強調して報じますが、白票数や棄権数に特別の意味を持たせますと、選挙結果には別の解釈が成り立ちます。例えば、総選挙にあって白票数や棄権数の総計が50%を超える場合には、当選者は、‘国民の信託を受けた’とは最早言えませんし、政府も、公約実現を口実として、自らの政策の実施を国民に無理強いできなくなります。政策の実行には慎重にならざるを得ませんし、否、むしろ、公約とは逆の政策を検討すべきとも言えましょう。

 

 選挙権や投票権と申しますと、自らの自由意思による政治的支持の表明といったポジティブな側面にのみ注目が集まりますが、一方に偏った制度では、双頭作戦のように悪用されるリスクがあります。権利というものには拒否権などのネガティブな種類もありますので、国民の側からの抵抗・反対の意思表示をも制度上の権利として認め、選挙もまた、ネガティブな意思を示す機会として認めるべきなのではないでしょうか。両者が揃って、初めて安全度も完成度も高い民主的選挙制度と言えるのではないかと思うのです。


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危ない菅官房長官の民主主義観

2020年09月10日 11時55分06秒 | 日本政治

 安倍首相の辞任を受けての後継総裁の決定は、自民党内の人事であるとはいえ、事実上、日本国の首相を選出する選挙となりますので、その重要性は計り知れません。否、日本国の政党が、政党助成金をも受け取る公的団体である点を考慮しますと、政党内の専権事項であるとも言い切れないようにも思えます。国民と政党との権利・義務関係については、今後、民主主義の原点に返って考えてゆかなければならない課題とも言えましょう。

 

ところで、総裁選に際して各候補も自らの政策方針や政治観を明らかにしているのですが、その中で、注目されるのは、次期首相の座がほぼ‘内定’とされている菅官房長官の民主主義観です。同氏は、衆議院の総選挙に触れる形で、民主主義について「私のような普通の人間でも努力すれば首相を目指せる。まさにこれが日本の民主主義ではないか」と述べているのです。この発言、どこか、‘ずれ’ているように思えるのです。

 

‘普通の人間’が国家のトップの座を手に入れる事例は、古今東西を問わずに人類の歴史にしばしば現れる現象です。否、戦国時代に頻繁に起きた下克上のように、力がものを言い、国家が乱れていた時代ほど、門地、教育レベル、家庭環境、財産といった生来の要素に関係なく、運と実力(努力?)があれば、‘普通の人’が、出世街道を上り詰めることができました。このように考えますと、民主主義国家=‘普通の人間’が努力すればトップになれる国‘とする等式は成り立たないように思えます(’民主主義=主権者たる国民の意見が政治に反映される制度‘なのでは?)。むしろ、菅官房長官は、田中角栄氏を継ぐ‘第二の今太閤’と表現した方が相応しいようにも思えます(親中派という意味においても…)。

 

 もっとも、同氏の言う‘普通の人間’とは、政治家になるために必要とされる地盤、看板、かばん(資金)の‘三ばん’を親や親族から引き継げない人、即ち、‘世襲議員ではない’という意味なのかもしれません。しかしながら、そうであるからこそ、むしろ、文字通りの“普通の人(凡庸な人)”にはないような‘政治的な才能や能力’、すなわち、政治力学に対する敏感な臭覚、飽くなき出世欲、金銭欲、そして、支配欲、さらには狡猾さを備えている必要があります(現在の日本の政界を見る限り、国家国民や公益のために働こうとしている政治家は殆ど見当たらない…)。むしろ、能力面や欲望面に注目しますと、凡そ自動的にポストが継承される世襲の方が、卓越した才のない人、即ち、“普通の人”でも、有権者による選挙の‘洗礼’さえ受ければ、政治家の椅子に座ることができるのです。

 

 あるいは、‘普通の人間’が、一般的な語法に近い普通の人間であるならば、他の誰かによって、ポストを与えられている可能性もないわけではありません。二階幹事長をはじめ、公明党など、与党内には中国、並びに、同国のバックともなる国際勢力の影響力が浸透しています。日本国の首相を自らの‘操り人形’にしたい側としては、卓越した政治的才能・判断力・思考力など不要であり、抵抗勢力ともなり得るような既存の政治勢力との関係が薄い人物の方が望ましいはずです。そして、こうしたバックによる人選が、日本国の民主主義のみならず、独立性をも脅かすことは言うまでもないことです。

 

 以上の諸点の何れから見ましても、菅官房長官の民主主義観には危うさがあります。かつて、民主党政権時代にあっても、菅直人元首相が‘議会制民主主義は「期限を切った独裁」’と述べて、その民主主義観が国民を唖然とさせましたが、首相の民主主義観は、その政治手法にも反映されるのですから、国民も敏感に反応せざるを得ません。

 

そして、同発言は、むしろ、今日、日本国をより善い国にしていこうとする志を抱く‘普通の人間’が、様々な障壁によって政治家にはなれないという問題点を浮き彫りにしているようにも思えます。選挙に際しての供託金は巨額ですし、政治家養成の仕組みも整っているとは言い難い現状にあります。また、政党内を見ましても、幹事長の意向で立候補者や選挙資金の配分が決まるようでは、国民のための政治を目指して自らの政治的信念や政策を貫くことは難しく、結局、組織内を上手に泳ぎ回るだけの政治屋しか育たないかもしれません(今般の総裁選挙でも、バンドワゴン効果、即ち、‘勝ち馬に乗る’現象が指摘されている…)。

 

 日本国の民主主義を発展させるには、まずは、被選挙権の側面、すなわち、一般の国民に首相を含めた政治家への道を開く政治改革こそ必要なのではないでしょうか。与野党ともに、内心において閉鎖的な空間の維持、即ち、権力や利権等の独占を願い、事前に候補者が巧妙に選別されてしまう現状では、民主的選挙もまた無意味となりかねません(北京政府に選挙がコントロールされる香港の状態に近い…)。政治家は、常々、国民に対しては改革姿勢をアピールしていますが、真の意味において‘普通の人間’が首相に選ばれるような民主主義国家を実現するためには、政界の自己改革、あるいは、一般の国民への開放こそ急務なのではないかと思うのです。


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衆議院解散が注目される理由とは-国民の潜在的首相公選要求では?

2020年09月09日 11時26分10秒 | 日本政治

 昨日、自民党の総裁選挙が告示され、三人の候補者が政策方針を表明したもの、次期政権に対しては、期待よりも不安を覚える国民の方が多いのではないでしょうか。マスコミでも、既に‘菅政権発足’を織り込む済みのようなのですが、ここに来て、衆議院の解散問題が報じられています。

 

 首相による議会の解散権とは、その起源は、三部会といった議会の招集や解散に関する権限を君主が有していた中世ヨーロッパに求めることができるのですが、民主主義が定着した今日では、通常、議院内閣制にあって、政府と議会とが対立し、両者の間で政策方針が分かれる場合に使用されます(もっとも、日本国憲法上の規定はいささか曖昧…)。例えば、議会が内閣不信任決議案を可決した場合や、政府提出の法案が議会で否決された場合などです(郵政解散…)。 ‘伝家の宝刀’とも称されるように、首相の解散権は、国政における重大事が争点になる場合に限られており、軽々しくは抜くことができない刀、即ち、最後の手段なのです。

 

そして、首相の解散権とは、今日では、民主主義を具体化する制度でもあります。何故ならば、解散に際して首相が、常々、‘国民に信を問う’と口にするように、首相が最終的な判断を国民に委ねる形で行使されるからです。つまり、この場合、総選挙とは、国民が政府の政策を支持するのか、あるいは、反対しているのかを、国民が間接的ながらも表明する場となるからです。日本国では、国民投票制度は導入されておりませんが、解散総選挙とは、同制度のない日本国にあって国民が自らの政治的選択を表明し、参政権を行使し得る数少ないチャンスとも言えましょう。

 

それでは、現在、何故、議会の解散が取り沙汰されているのでしょうか。政府と議会との間で、少なくとも政策をめぐる決定的な対立は見られず、従来型の解散とはならないはずです。そこで、その理由については、首相、政党、そして、国民の三つのレベルから観察してみる必要がありそうです。

 

最初に首相レベルを見ますと、菅官房長官、並びに、同氏を支える勢力が、解散総選挙を回避したい意向にあることは言うまでもありません。実際に、同官房長官は、出演したテレビ番組において早々に「こういう状況では解散とか、そういうことではない」の述べたと報じられています。また、同氏に対する支持をいち早く表明した二階幹事長も、自民党の党本部での記者団を前にして「今早急に問う課題があるわけではない。慌てる必要はない」と述べて、早期衆院解散については否定的な見解を示しています。そして、公明党の山口幹事長も同様の方針を示していますので、親中派勢力は、早期解散否定で足並みを揃えているのです。

 

仮に、中国が背後にあって日本国における親中政権の成立を後押しさせたとしますと、同政権を可能な限り長期化させるよう画策することでしょう(2021年10月の衆議院議員任期満了後の長期化も視野に入れているかもしれない…)。中国は、日本国との間の安定した関係を望んでいるとされ、‘菅政権’の長期化は中国の利益や希望に叶っているのです。

 

その一方で、政党レベルでは、全ての政党が必ずしも早期解散に消極的なわけではないはずです。幹部の意向は別として、とりわけ自民党にとりましては、早期解散の方が有利ではないかとする指摘も見受けられます。その理由は、野党側の体制が整っていない今の時期であるならば、与党側が勝利する確率が高くなるからです。時間の経過とともに形成が野党に有利に傾くならば、早期解散は、与党にとりましては望ましい選択となりましょう(但し、この問題は、現在進行中の野党政党の合流による野党第一党の代表が、誰になるのかによっても左右されるかもしれない…)。

 

それでは、国民レベルではどうでしょうか。実のところ、上述しましたように、首相による議会の解散は、国民が自らの政治的選択を表明し得る貴重な機会です。二階幹事長は、‘早急に問う課題はない’と述べておりますが、国民は、目下、重大な課題に直面しております。そして、それこそ、‘首相の正当性’なのではないかと思うのです。政界における派閥力学や海外勢力を含む背後関係によって密室で首相が決定される事態は、それが手続きにおいては合法的であったとしても、民主主義の原則には反しています。つまり、次期首相は、国民からの承認を得ていないことを意味しており、その正当性において疑義が生じているのです。

 

この観点からしますと、早期解散論は、首相公選制、あるいは、大統領制への移行に向けた国民の潜在的な意識の現れであるのかもしれません(不自然感がない…)。日本国民の多くが、党の総裁、否、日本国の首相の選出に際して民意が蚊帳の外に置かれてしまう現状に満足しているはずもないのですから。そして、民主主義の原則に照らし、首相の途中交代や就任プロセスにおいて、最低限、国民の承認を得る必要があるとしますと、この意味において、早期解散は、民主的な承認システムとして機能する可能性があるのではないかと思うのです。


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奇妙で怪しい菅官房長官の地銀再編政策

2020年09月08日 12時34分20秒 | 国際政治

 菅義偉官房長官は、今や日本国の次期首相とも目されており、自らの生い立ちをも語る自民党総裁選挙への出馬表明も、首相就任演説と見紛うばかりでした。記者会見の席であれ、その菅官房長官が次期政権の政策として挙げているのが、地方銀行の再編です。乱立気味の中小の地銀の合併を後押ししようとする政策なのですが、この政策、どこか怪しいのです。

 

シャッター街が目立つようになった近年の地方経済の低迷は、地域経済に密着してきた地方銀行の危機でもあります。実際に、経営危機に陥る地銀も少なくなく(2018年では106行中54行が赤字経営…)、地銀再編は、地方銀行救済の側面がないわけではありません。安倍政権下にあっても、今年の5月20日には、地方銀行同士の統合や合併を独占禁止法の適法外とする特例法が成立しております。菅官房長官も、同方針の継承を再確認したのかもしれないのですが、次期政権の目玉となる政策としては、どこか唐突な観を受けます。

 

上述した特例法の主たる対象は地方銀行同士の合併であり、余裕のある第一地銀が経営難にある第二地銀以下を吸収する形態を想定しているようです。実際に、業務提携や資本提携によって地方銀行が連携する事例も見られます。実のところ、法制定に先立って、水面下では既に地銀の再編は進んでおり、2015年から2018年にかけて金融庁が積極的に後押しした結果なそうです。そして、当時の金融庁長官と「菅・森ライン」を形成し、地元政治家の抵抗を廃すべく、同政策の後ろ盾となったのが、菅官房長官その人であったというのです。同官房長官は、外交の表舞台で活躍する安倍政権を陰ながら支える裏方のイメージがありますが、その実、内政の場、とりわけ金融方面にあって、目立たぬように‘改革’を進めてきた影の‘実力者’であったのかもしれません。

 

しかもこの構想、道州制とも関連しているとする指摘もあります。‘一県一行’ではなく、例えば、青森県では青森銀行とみちのく銀行の合併案に加えて、さらに岩手銀行と秋田銀行とも合併する広域構想もあるそうです。もっとも、道州を越えた地銀間の連携の動きもありますので、道州制との関連を決めつけるわけにはいかないのでしょうが、次期菅政権にあって、橋元徹氏の総務相としての入閣が急浮上してきたのも、あるいは、同官房長官には、公明党のみならず、維新の会との直接的な繋がり、もしくは、‘共通のバック’を介しての間接的な繋がりがあるのかもしれません。

 

そして、地銀再編が関心を集める中、メディアにあって、地銀再編における‘台風の目’、あるいは、‘実行部隊’として名が挙がっているのが、ソフトバンク系列のSBIです。SBIによる地銀攻略は、同社が掲げる‘第4のメガバンク構想’の一環です。SBIは、証券業から出発していますので、特例法が想定している地方銀行ではないのですが、今や34%の出資で島根銀行の筆頭株主となると共に、福島銀行、大東銀行、清水銀行、筑邦銀行にも出資しております。救済の名の下で全国各地の地方銀行を次から次へと傘下に収めることで、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほフィナンシャルグループと並ぶ、‘第4のメガバンク’への衣替えを狙っているのです。

 

そして、ここで、一つの推理が浮かんできます。地銀の再編とは、まずは第一段階として体力に乏しい中小の地方銀行を合併させ、黒字を計上し得る程に経営基盤を強化させた後に、第二段階として、これらの一部であれ、SBIに譲り渡すため、あるいは、合併から漏れた地銀をSBIの傘下に置くためのプロジェクトではないのか、というものです。さらに推理を膨らませれば、それは、SBIの背後に控える金融組織から、首相の座と引き換えに菅官房長官に与えられた‘ミッション’であるのかもしれません。携帯通信大手のソフトバンクも、新興企業でありながら、既存の企業や設備を買収する方法で三大キャリアの一角を占めるようになりました(寡占化…)。また、こうした強引な手法は、自らの辞任と引き換えに再生エネ法を成立させ、ソフトバンクに利益誘導を行った民主党の‘菅元首相’をも思い起こさせます。SBIによる地銀への出資は金融庁も、同構想を支持しているというのですから、政府によるSBIへの利益誘導、あるいは、政府とSBIとの癒着も疑われましょう。

 

地銀は、地域密着型の金融機関ですので、国民の多くも直接的な影響を受けるはずです。日本国民の多くは政治に対する関心は薄く、誰が首相になっても変わりはないと考えてきましたが、今後は首相に就任する政治家についてはその背後に至るまで詳細に調べる必要があるのではないでしょうか。上述した推理が杞憂であることを願うばかりなのです。


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アメリカの「対中金融制裁」が「ドル覇権」を揺るがす?

2020年09月07日 11時27分27秒 | 国際政治

 本日、『現代ビジネス』のオンライン版に、「トランプの「対中金融制裁」は、デジタル人民元を進め「ドル覇権」を揺がす」と題する記事を発見しました。米中対立が激化する中、アメリカのトランプ大統領は、香港国家安全維持法の制定やウイグルにおける人権弾圧等を根拠として、中国に対する金融制裁を強めています。同記事によれば、こうした強硬な措置は中国による人民元のデジタル化を後押しし、やがて国際基軸通貨としてのドルの地位を脅かす、即ち、‘オウンゴール’となるというのですが、この展開は、近い将来において現実にあり得るシナリオなのでしょうか。

 

 同記事では、自説の根拠として、先ずは、中国の人民元決済のための国際金融インフラとして、2015年に国際銀行間決済システム(CIPS)が設立されている点を挙げています。実際に、CIPSには、「7月末時点で97カ国・地域が参加し、日本からはみずほ銀行や三菱UFJ銀行のほか、千葉銀行や常陽銀行など大手地銀が参加(8月25日付日経新聞朝刊)」しているそうです。中国は、積極的にCIPSの拡大を進めていますので、CIPSの登場は、確かに国際基軸通貨としての米ドルの地位を揺るがす可能性はあります(システムとしては、ユーロ圏で設けられている決済システムであるTARGETに近いかもしれない…)。

 

 しかしながら、現状を見ますと、貿易決済通貨に占める人民元の比率は僅かです。日本国を例に挙げれば、2019年のデータによれば人民元決済は輸出で1.8%、輸入で1.1%に過ぎません。このことは、たとえ日本国の貿易相手国が米国を抜いて中国が一位になったとしても、両国間の決済通貨としては、米ドルが占めていることを意味します。こうした状況下にあって、アメリカが金融制裁を強化した場合、日中間の貿易決済は、人民元決済、つまり、CIPSの利用へと全面的に移行するのでしょうか。

 

 仮に、人民元決済を選択するとすれば、日本国は、GDPにおいて今なお世界第一位を維持するアメリカ市場から締め出されることになりましょう。また、グローバリズムは規模が優位性を約束しますので、日本市場は中華経済圏に組み込まれ、日本企業の大半も中国企業に買収されるかもしれません(中国市場でも、日本企業は駆逐されるか、政治的配慮で微々たるシェアを分けてもらえる程度に…)。加えて、国際基軸通貨としての米ドルが日本国の多角的貿易を支えてきたのですから、アメリカのみならず、米ドルを決済通貨として使用している他の諸国との貿易も滞ることとなりましょう。日本国民にとりましては考えたくもない未来ですので、‘チャイナ・マネー’に日本国の政界や財界が篭絡されていない限り、日本国が人民元を選択する可能性は相当に低いと言わざるを得ないのです。

 

しかも、今日、新型コロナウイルスのパンデミック化を機に中国警戒論が高まりを見せ、日本国の政府も企業も、目下、中国からの生産拠点の移転を主目的としたサプライチェーンの再編成に取り組んでいます。中国から製造拠点を移し、同国との取引そのものがなくなれば、中国との関係も消えることとなります。つまり、人民元決済の手段としてCIPSを利用する必要もなくなるのです。また14億の市場と雖も、疫病、洪水、害虫被害などの災害が頻発し、国民も企業も共産党による厳格な監視下に置かれる中国のカントリー・リスクは上昇するばかりです。リスク含みを考慮すれば、今後とも、中国に対する海外からの投資が伸びるとは思えません。そして、アメリカが発動した金融制裁に対して中国の政府系4大銀行は従う意向を示しており、これ幸いにCIPSにシフトするどころか、中国当局が人民元と米ドルとの為替取引の停止を恐れている実態を示しているのです。

 

同記事の主張の二つ目の根拠は、人民元のデジタル化による国際基軸通貨としての米ドルに対する優位性です。言い換えますと、通貨に関するデジタル技術がアメリカよりも優っているために、人民元の信頼性が高まり、銀行のみならず、多くの国や個人が決済通貨として使用すると予測しているのです。同記事では、その核心的な技術を、量子コンピューターを用いた暗号技術に求めています。しかしながら、発行元である中国には法の支配が欠如しており、国家としての信用はゼロに等しいのですから、たとえ技術的な安全性や信頼性が確保されていたとしても、その運営の段階で当局による恣意的な‘政治介入’が起きる可能性も否定はできません。同記事でも、「デジタル人民元決済を選び、中国の非SWIFTシステムの下に入った者は、逆に中国の管理下に置かれることになる(SWIFTを介してアメリカは銀行間取引を監視している…)」と認めていますので、敢えて、自ら‘牢獄行き’を選択する国、企業、そして個人は存在するとも思えないのです。

 

以上に述べたことからアメリカによる金融制裁の効果を予測しますと、やはり、窮地に陥るのは中国側なのではないでしょうか。つまり、アメリカが、さらなる金融制裁を上乗せしますと、人民元が米ドルに取って代わるのではなく、CIPSが一気にローカル化する、あるいは、中国が米ドルによる国際貿易決済システムから排除される結果が予測されるのです(もしかしますと、米ドルで隠し財産をため込んできた中国共産党幹部が音を上げる…)。中国に対して‘戦わずして勝つ’を実践しようとするならば、アメリカは、‘兵糧攻め’を意味する金融制裁の一層の強化に踏み出すべきではないかと思うのです(同記事は、あるいは、アメリカに金融制裁を思い留まらせるための高等戦術?)。

*コメントにてSWIFTの役割の誤認の指摘をいただき、本記事は、午後7時10分に修正いたしました。誤りがありましたこと、深く、お詫び申し上げます。

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菅官房長官の習主席国賓訪日発言の危うさ

2020年09月06日 11時20分32秒 | 国際政治

 中国との距離感は、永田町と国民との間では、相当の違いがあるように思えます。この政界、あるいは、財界と国民とを隔てる‘分断’は、今日の国際情勢からしますと、近い将来、深刻な事態を招きかねないリスクがあります。

 

 昨日も、次期首相の座がほぼ確実視されている菅官房長官は、安倍政権下にあって進められていた中国の習近平国家主席の国賓待遇の訪日について、「新型コロナウイルス対策を最優先でやっている。日程調整のプロセスに入ることは慎重にと思っている」と述べたと報じられております。この発言、上記の分断を考慮すれば、全く正反対の二つの解釈が成り立ちます。

 

 第一の解釈は、習主席国賓訪日を含む中国との関係改善に反対する国民世論に配慮し、やんわりと同訪日に対して否定的な見解を示したというものです。つまり、‘菅内閣’が発足しても、親中派のドンである二階幹事長に押し切られることなく中国との間に距離を置く方針を示した、国民向けのメッセージということになります。面と向かって断るのが難しい場合、婉曲に‘お断り’を表現することは、一般の社会でもままあることです。

 

 国民の大多数が第一の意味合い、即ち、ソフトな反中宣言として解釈したとすれば、国内には安堵感が広がったことでしょう。しかしながら、同発言を以って国民の不安が払拭されたとは言い難く、むしろ、疑心暗鬼に陥った国民も少なくないのではないでしょうか。何故ならば、同発言は、‘新型コロナウイルス禍が一服した後に、本格的に日程調整のプロセスに入る’とも解されるからです。この解釈では、菅官房長官は、日本国民ではなく中国政府に配慮したことになり、同国に対して‘習主席の国賓訪日は、もうしばらく待っていただきたい’と伝えていることとなります。言い換えますと、第二の解釈に基づけば、第一の解釈とは逆に、婉曲に親中路線を表明したことになるのです。

 

 それでは、同発言の真意は、どこにあるのでしょうか。菅官房長官は、同発言と同時に、中国を含む近隣諸国との関係については、‘安定的な関係を構築したい’と述べております。この発言を文字通りに解釈すれば、中国と決裂する状態に至るシナリオは、同官房長官の想定外ということになりましょう。菅官房長官は、二階幹事長のみならず、親中派政党である公明党とも懇意にあります。つまり、同氏を取り巻く関係図からしますと、第二の解釈である可能性の方が高いと言わざるを得ないのです。

 

尖閣諸島周辺海域では、連日のように、中国船による領海侵犯が繰り返されております。ITを駆使したハイテク兵器の開発によって中国の軍事的脅威が日本国に迫り、かつ、今日の米中関係からすれば、日本国のトップとしては、最悪の事態を想定していない、あまりにも‘のんびり’とした態度です。そして、米中対立が激化する中、アメリカの同盟国である日本国が、敵国であるはずの中国との関係を安定的に維持している状態とは、一体、どのような状態なのか、という疑問も湧いてくるのです。

 

 11月の大統領選挙に向けて、アメリカでは、共和党のトランプ大統領と民主党のバイデン候補が、有権者を前にして共に対中政策を競っております。否、バイデン候補の中国疑惑は致命傷ともなりかねず、中国問題は、重大な選挙の争点なのです。このため、両候補とも、明確に自らの立場や政策を説明し、自身への支持を訴えているのですが、日本国では、中国に対して厳しい態度を打ち出す候補者、否、政治家は見当たりません。与党のみならず、野党もまた同様の態度です。アメリカの大統領選挙を見慣れている日本国民の目には、自国の政治家は、いかにも不誠実で臆病に映るのです。対中政策さえ、明言できないのですから。

 

 もしかしますと、菅官房長官の発言は、状況がどちらに転んでも自らが安泰であるように、自己保身のために敢えて‘玉虫色の発言’で誤魔化そうとしたのかもしれません。政治的な‘プロ’のテクニックとして、こうした曖昧な対応を評価する声もあるでしょう。しかしながら、第三次世界大戦まで取り沙汰されている今日、戦争前夜ともなりかねない状況下にあっての‘玉虫色の発言’は、国民に対する背信の可能性を含意します。信念のある政治家であれば、自らの価値観や政策を隠すはずもないのですから、日本国民の多くは、暴力を手段とする全体主義国家中国との対峙を堂々と主張する政治家の登場を望んでいるのではないでしょうか。


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‘二階外し’は‘菅政権’のリトマス試験紙?-国民の最大の関心事

2020年09月05日 12時32分49秒 | 日本政治

 民主主義国家でありながら、日本国では、国民は蚊帳の外に置かれ、あれよあれよという間に首相が自民党内の派閥力学で決まってしまった感があります。党総裁選挙では、菅義偉官房長官の圧勝が予測されており、この流れは、同官房長官に関わる何か重大事件でも発生しない限り、変わりそうにもありません。

 

 民主主義という価値において中国と対峙しながら、日本国では、首相の事実上の選出手続きが非民主的な手法が選択されたため、国民の不安は高まるばかりなのですが、米中対立が深刻化する中、次期政権の政策決定次第では、日本国が中国陣営に絡めとられるリスクがあります。‘プレ有事’とも言える状況にあって、安倍政権の政策を継承すると宣言しつつも、‘菅政権’が民主主義、自由、法の支配といった人類普遍の諸価値の擁護を掲げ、無法国家化した中国を批判し、いざという時にはきっぱりと袂を分かつ精神的な強靭さや健全な倫理観を備えているのか、はなはだ怪しい限りです。

 

尖閣諸島等に対する軍事的脅威のみならず、今や、中国製品に加えて中国IT大手をはじめとした多くの中国企業が日本市場でシェアを広げ、新型コロナ禍で中国人観光客は激減したものの、在日中国人の数も200万人を超えるほどに増加しています。今日、中国問題は、一般の日本国民にとりましては身近な問題となっています。しかも、時の政権が、突如として中国という全体主義国と手を結べば、第二次世界大戦における日独伊三国同盟結成の過ちを繰り返すことにもなりましょう。これまで、選挙あって対外政策は票にならない、と評されてきましたが、世論調査の結果を見ましても、対外政策への国民の関心はランキングの上位に浮上してきています。

 

 そこで、‘菅政権’誕生に際しての日本国民の最大の関心事は、否が応でも次期政権の対中政策に移るのですが、‘菅政権’の親中度を測るリトマス試験紙となるのは、やはり、二階幹事長の去就なのではないかと思うのです。菅官房長官の総裁選立候補に際して、真っ先に支持を表明したのは二階幹事長であり、次期首相に‘恩を売る’ための行為として解されています。二階幹事長としては、安倍政権末期において築いた親中路線を‘菅政権’にも継承させ、あわよくば、人事と資金配分の要となる幹事長職を堅持したいのでしょう。このポストを維持できれば、党内の国民本位を目指す保守派や親米派を冷遇すると共に、親中派勢力を拡大することができます。つまり、自民党を親中政党に衣替えすることも夢ではないのですから、中国の‘代理人’とも言えるポジションにある二階幹事長としては、絶対に手放したくない役職なのでしょう。菅官房長官が誓った‘安倍政権の継承’とは、あるいは、習近平国家主席の国賓訪日の実現を含む安倍政権末期、否、令和時代に頓に顕著化した親中路線であるかもしれないのです。

 

 日本国の政治家が、国民の大半が対外政策に無関心であると見なしているとしますと、それは、時代遅れの認識ということにもなりましょう。政府は自らグローバル化を推進してきましたが、国民もまた地球儀を俯瞰し、海外に目を向ければ向ける程、そして、経済あっても他国との取引が増すほどに、対外政策は自らとも直接に関係する一大事ともなるのです。次期‘菅政権’が、二階幹事長をどのように処遇するのか、国民の多くは、固唾を飲んで見守っています。仮に、親中路線の継承を以って新政権が発足するならば、支持率が上昇したとはいえ、自民党は、次期総選挙において苦戦を強いられることでしょう(但し、現在の野党も、政権政党となった場合、親中勢力となる可能性がある)。

 

 果たして、菅新首相は、二階幹事長を外すことができるのでしょうか。しかも、中国は、‘第二の二階’を既に密かに準備しているかもしれません。日本国が中国陣営に与することがないよう、そして、自由で民主的体制が壊されることがないように、国民も政界の観察と警戒を怠ってはならないと思うのです。


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事実が怖い中国―習主席演説を読み解く

2020年09月04日 12時39分50秒 | 国際政治

 中国の習近平国家主席は、抗日戦争勝利75周年を記念するイベントにおいて、人々を唖然とさせるような演説を行ったと報じられております。中国の主張が、常々、人々に違和感を与え、あるいは、反感を持たれる理由は、徹底した自己中心の思考回路から発せられているからなのでしょう。一般の社会にあっても、かくも酷いエゴイストは珍しいのです。

 

 習主席の演説においてまず注目される点は、‘共産党と国民を分裂させてはならない’という主張です。‘互いに敵対させようとする’、並びに、‘中国共産党の歴史を歪め、党の性格や目的を中傷する’個人や勢力は、‘決して許さない’と断言しているのです。マスメディアの多くは、習主席の言葉を、9月4日という日が日本国が米艦隊ミズーリ号の甲板で降伏文書に調印した記念日でありながら、第二次世界大戦にあって直接に干戈を交えた日本国ではなく、今日、対立が激化しているアメリカに対する牽制として報じています。この解釈に従えば、抗日戦争勝利75周年の演説というよりも、新冷戦への決意を新たにする宣言ということになりましょう。

 

 講演の内容とイベントとの‘場違い’はさて置くとしましても、習演説の‘共産党と国民を分裂させてはならない’という主張から浮かび上がるのは、共産党と中国国民との抜き差しならない関係です。中国共産党員は全人口の凡そ6%程とされていますので、平等を掲げて全人民をプロレタリアート階級に見立てた共産主義の理論とは裏腹に、両者の間には、歴然とした隔たりがあります。一党独裁体制とは、共産主義が否定したはずの少数者支配の体制であり、永遠に共産党が権力と富を独占しようとする体制なのです。

 

このため、共産党と国民との一体性は、共産党側が自らの存在を正当化するために主張する方便に過ぎません。そして、習主席が共産党と国民との分裂に触れているのは、現実には、両者の間の亀裂が深まっていることに対する危機感があるからなのでしょう。何故ならば、党と国民との一体性は、あくまでも、共産党の自己中心的、かつ、主観的な決めつけに過ぎず、国民の側は、自らを共産党とを同一視はしていないからです。仮に、共産党と国民が一体化されているならば(全国民が共産党員?)、国民が政治に参加する民主的制度も発展したでしょうし、個々人の基本的な自由や権利も厚く保障されたことでしょう。

 

マスメディが習主席の発言を対外向けのメッセージとして報じた理由も、実のところ、仮に、国民向けであるならば、主席自らが共産党と国民との間の分裂、あるいは、分断を認めたと受け止められない‘リスク(共産党にとってのリスク)’があったからかもしれません。同主席は、国民に対して、共産党から離反しないように釘を刺した、否、処罰を仄めかして脅したことになるのですから。

 

常識的に考えれば、共産党に属する一部の人々のみが権力と利権を独占する体制、即ち、共産党が一方的に国民を支配する体制を支持する人がいるとすれば、それは、同体制から様々な利益や利権を受けている共産党員以外にはあり得ません。習主席は、海外の個人や勢力が、共産党と国民との分裂を造り出していると主張したいようですが、現実には、共産党一党独裁体制というシステムそのものが、両者の分離を前提として設計されており、国民の側から不満が生じることは織り込み済みなのです。そうであるからこそ、中国では、人民解放軍は平然と人民に銃口を向け、ITを駆使して情報を操作すると共に、全国民を徹底した監視下に置いているのです。

 

そして、‘中国共産党の歴史を歪め、党の性格や目的を中傷する’行為とは、中国の真の姿を偽善や欺瞞の仮面を剥ぎ取って正直に語ることに他なりません。中国が最も恐れているのは、‘現実’そして‘事実’というものなのでしょう。中国は、それが自国民であれ、外国の個人や勢力であれ、誰であれ、中国の真の姿を語る、即ち、事実を直視して指摘する人々の口を封じたいのです。先日、ポンペオ米国務長官は、‘中国共産党は、事実を語る者を消そうとする’といった旨の発言をしておりますが、自らが‘悪’であるという自覚があるからこそ(悪の本質は利己的他害性…)、事実が何よりも怖いのです。

 

その一方で、人類が最も警戒しなければならない人々とは、事実を隠さなければならない人々です(人々を黙らせるには、暴力や卑怯な手段を使うしかない…)。しかも、こうした人々がエゴイストであり、かつ、公的な立場にある場合には、多くの人々にも危害が及ぶ可能性が高くなるのです。中国共産党こそ、まさにその最たる事例であり、自己保全のためには、他者の命を奪うことも厭わず、一般の人々が自然に備えている事実を認識し、善悪や是非を判断する能力、即ち、知性や理性までも破壊しようとすることでしょう。習主席は、「中国に対するいじめや自己意志の押し付けを決して受け入れない」とも語っていますが(中国こそ、苛めや自己意志の押し付けの常習犯…)、この言葉も、事実に基づいて自らが有罪の判定を受ける事態を恐れる心理の裏返しでもあります。他者の自由や善を認めることが自らの滅亡を意味する立場にある中国共産党は、潔くその血塗られた暗黒の歴史に終止符を打つべきではないかと思うのです。


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新型コロナウイルスワクチンが‘ディストピア’を招来する?

2020年09月03日 12時35分47秒 | 社会

 日本国政府は、新型コロナウイルスワクチン開発の成否や安全性が不明な段階にあって、早々と無償接種の方針を示すこととなりました。その一方で、国民の間では、ワクチン接種を殊更に急ぐ政府に対する不信感、並びに、同ワクチンそのものに対する不安感も広がっています。ネット上のコメント等を読みますと、圧倒的にワクチン拒否派が多いように見受けられますが、ワクチン拒否派の人々を接種に追い込むための手法が既に考案され、動画等で紹介さている現状には驚かされます。

 

 その手法の一つは、ワクチン接種の証明がなければ、お買い物も、各種サービスの提供も、交通機関の利用も、そして就業もできなくなるというものです。ワクチン接種の証明を持たない人々は、いわば、自宅という狭い空間に監禁されてしまうのです。ワクチン拒否派の人々とは、何よりも自由を愛し、自らの権利を自分自身で護ろうとする自立的な精神を持った人々です(家畜化や隷従を嫌う人々…)。そうであるからこそ、ワクチン接種を強要したい側、即ち、政府や利権団体は、ワクチンを接種しない限り、人々が自由を享受できなくしようとするのです。人の弱みに付け込むような、何とも狡猾で底意地の悪い発想なのですが、以前、話題に上った‘免疫パスポート’も同様の仕組みとなりますので、感染病のパンデミック化を機とした社会統制システムとしてのワクチン強要計画の基本設計は、既に何者かによって描かれていたのかもしれません。

 

 あるいは、‘ワクチン証明システム’の導入とまではいかないまでも、より間接的な方法としては、官民を問わず、サービス業などの人と接する職業の人々に対して、政府が、ワクチンの接種を奨励するといった方法もありましょう。世論の反発を避けるために、法改正を経ずして管轄官庁からの通達といった形態をとる可能性もあり、民間の事業者に暗黙の圧力がかかる事態も想定されます。

 

 もう一つの手法は、‘マスク警察’ならぬ、‘ワクチン警察’の出現です。これは、ワクチン接種を拒否した人々に対して、周囲の見知らぬ人々が圧力をかけ、私的制裁を加えるというものです。マスクはその装着で外見から判断できますが、ワクチン接種の有無は他者には分かりませんので、この手法が実現するとすれば、私服を着て市民の間に紛れ込みつつ、全住民の個人情報を掌握して活動する秘密警察が配置された社会ということにもなりましょう。

 

 政府が何としても国民全員にワクチンを接種させようとすれば、法を改正し、人々の身体を拘束してでも強制的にワクチンを打つという強硬手段に訴えることになりますが、何れであれ、人類にとりましてディストピアであることは言うまでもありません。ワクチン接種をめぐる問題は、個人の自由の問題でもあるからです(政府は、個人の自由をどこまで制限できるのか…)。しかも、純粋な医学的な効果のみならず、政府の謀略や背後の利権の思惑までをも考慮して判断しなければならないのですから、国民にとりましては、頭を抱える問題なのです。

 

 それでは、日本国におきましては、どの程度の人々がワクチン拒否派なのでしょうか。かのダボス会議の名で知られる世界経済フォーラムが世界第3位のグローバル・マーケティング・リサーチ会社であるイプソス・モリに委託して実施した世論調査によれば(ダボス会議が絡むと余計に怪しさが増してしまう…)、日本国では、4分の1の人々が新型コロナウイルスワクチンの接種に反対しているそうです(やや反対20%・強く反対5%)。ネット上の意見とは逆に、賛成派が75%を占める結果となったのですが、それでも、‘副作用が心配’が62%、‘効果があるとは思えない’が32%にも上っています。これらの数字から理解されることは、副作用の心配が殆どなく(他の感染症のワクチンと同程度?)、科学的にも効果が証明されたワクチンであれば、即ち、これらの条件を満たすのであれば、4分の3の人々はワクチン接種を受けるということです。言い換えますと、条件を満たしていない場合には、殆どの人々がワクチン接種には消極的にならざるを得ないということになりましょう。

 

 最近の情報によりますと、抗体と雖も‘悪玉抗体’も存在し、たとえワクチンによって抗体が産生されても、それが逆方向に作用するリスクも否定はできないようです。また、SARSやMARSといったサイトカインストームを引き起こす感染症は免疫システムの暴走によって重症化するため、感染防止(免疫強化)と重症化防止(免疫抑制)が逆方向を向きますので、この種の感染症のワクチンの開発はとりわけ難しいというのです(SARSやMARSのワクチンも未だに開発には成功していませんし、より身近な溶連菌のワクチンが存在しないのも同様の理由では…)。

 

現下にあっては、新型コロナウイルスワクチンの安全性が確保されたとは言い難く、また、政府や背後に蠢く巨大な利権に対する不信感も払拭されてはおりません。況してや、ディストピア計画が公然と語られているようでは、人々の猜疑心は増すばかりです。仮に免疫交差によって40から60%の人々が既に免疫力を得ているのであれば、そもそもワクチンの必要性さえなくなるのですから(60%であれば集団免疫も成立?)、政府があの手この手でワクチン接種を国民に強要しようとしても、国民の警戒センサーを刺激して、強い拒絶反応を引き起こしてしまうのではないかと思うのです。


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国際社会は中国による‘苛め’からチェコを護るべき

2020年09月02日 12時06分52秒 | 国際政治

 米ソが鋭く対立した冷戦時代の1968年、戦後、東側陣営に組み込まれてしまったチェコでは(当時はチェコ・スロヴァキア)、共産主義体制からの移行、並びに、ソ連邦の頸木から脱するために、プラハの春と呼ばれた改革運動が起きました。しかしながら、自由化を求めた同運動は、ソ連軍が率いるワルシャワ条約機構軍の戦車によって踏みつぶされてしまうという悲劇的な結末を迎えたのです。この歴史的な経験は、チェコの人々の心に刻まれており、今日、中国による暗黙の制止を振り切って、チェコがミロシュ・ビストルチル上院議長率いる代表団を台湾に派遣したのも、今日の中国の姿が冷戦期のソ連邦と重なったからなのでしょう。

 

 共産党一党独裁を敷く中国は、全体主義国家の常として、他者の自由や価値観を決して認めようとも、許そうともしません。ソ連邦にも通じるこの異常なまでの支配欲は、自国民のみならず諸外国にも向けられており、暴力であれ、脅迫であれ、手段を択ばずして自らの意に添わせようとするのです。御多分に漏れず、今般のチェコの訪台団に際しても、中国は、外務省のウェブサイト上で同上院議長に対して「その近視眼的行動と政治的投機に対する大きな代償」を払わせるとコメントしたそうです。この言動、国連憲章にも反する脅迫行為そのものです。

 

 プラハの春に際して西側諸国はチェコを救うことができず、同事件は、自由化を求める社会・共産主義国家の国民を見殺しにしてしまった忌まわしい過去として記憶されています。ワルシャワ条約機構軍によるチェコ侵攻を非難すべく国連安保理では決議案が提出されたものの、ソ連邦の拒否権によって葬り去られ、西側陣営の盟主であったアメリカもまた、ベトナム戦争等を背景としてチェコ支援を躊躇しました(当時、チェコは東側陣営の一国として北ベトナムに兵器を供給していたとも…)。西側の不介入は、今日、ブレジネフ・ドクトリンの下における東側諸国に対する軍事介入の正当化を黙認する結果を招いたとして、批判的に捉えられています。

 

 過去の歴史の教訓に学ぶならば、国際社会は、中国によるチェコに対する報復は何としても阻止しなければならない、ということになりましょう。中国の暴力主義、即ち脅迫と報復を黙認する、悪しき前例となるからです。自由主義諸国が、自由で民主的な体制下にある台湾の独立性を支持することは(歴史的にも、台湾は中国の固有の領土とは言えない…)、中国による武力による台湾併合を未然に防ぐ有効な手段なのです。即ち、台湾に対する積極的なサポートは、同国が自由主義陣営の一員であることを明確にしますので、中国による‘内政干渉’の主張を退ける効果が期待できるのです。かつてのチェコにように、東側陣営に取り込まれた後では遅いのです(この意味では、香港の方が難しい状況にある…)。

 

 幸いにして、アメリカはチェコの訪台団を歓迎しておりますし、独仏共に、中国のチェコに対する脅しに対して反発しています。フランス外務省報道官は、「EU加盟国への脅しは認められない。チェコとの結束を表明する」と述べ、チェコが価値観を共にするEUの一員であることを強調しています。ドイツのマース外相も、中国の王毅国務委員兼外相との会談後に設けられた記者会見の席で中国の脅しを批判し、チェコ支持を明言しています。自由主義国は、西あっては外交的な‘集団的自衛権’を発動することでチェコを護り、東にあって台湾を支援することで、中国の暴力主義に対抗しようとしているのです。

 

 それでは、日本国はどのような反応を示しているのでしょうか。安倍首相の辞任表明により日本国の政界は慌ただしくなりましたが、次期総裁候補の方々には、是非とも、チェコの訪台団に関する見解、並びに、対中政策に関する方針を伺いたいものです。日本国が将来に向けて自由で民主的な体制の国家であり続け、そして、国際社会に法の支配を確立するためにも、日本国もまた、チェコに対する中国による脅迫や報復を許してはならないと思うのです。


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中国の脅威―‘軍経分離’は不可能では?

2020年09月01日 12時38分20秒 | 国際政治

 自民党の総裁選挙を前にして、候補者の一人である石破元幹事長は、インタヴューに応える形で中国との関係について語っていました。同氏の政策方針は、政治分野にあっては堅固な日米同盟を維持しつつ、経済分野にあっては中国とも友好な関係を保つというものです。マスメディア各社が相次いで石破候補支持率トップの世論調査結果を発表するのも、メディア自身、あるいは、そのスポンサーの多くが同氏の政経分離の方針を支持しているからなのかもしれません。

 

 しかしながら、米中が激しく対立する中にあって、‘政治はアメリカ、経済は中国’といった‘虫の良い’お話は通用するのでしょうか。政治と経済を並べますと、‘政治’というものを外交の意味で捉える場合には、政治的な不仲には目を瞑りつつ、相互利益となる貿易や様々な取引を継続することは、一見、不可能ではないように見えます。実際に、経済的な利益のみで繋がっている諸国も珍しくはありません。

 

 その一方で、‘政治’の範囲を外交の分野に留まらずにさらに広げますと、政治と経済とを分離することは困難であることが理解されます。つまり、‘政治’の意味するところに防衛や安全保障を含めますと、‘政治は同盟国と、経済は敵国と’といったご都合主義の政策は、最早不可能となるのです。かつて、『戦争論』の筆者であったクラウゼビッツは、‘戦争は外交の延長’と喝破しましたが、最終的に軍事力が国家間の紛争、さらには、国際社会の行方を決する状況下にあっては、外交と軍事は一本の線として連続します。そして、国際法の整備が進み、剥き出しの武力行使は違法行為とされるに至った今日にあっても、国際裁判の執行手続きには重大な欠落と不備があるため、最後は軍事力に頼らざるを得ない状況には変わりはないのです。況してや、中国のように国際法に対する順法精神の欠片もない国も存在しているのですから、政治は軍事であると言っても過言ではありません。

 

 政治が防衛や安全保障を意味するとしますと、当然に、政治と経済は不可分の関係を構成します。何故ならば、より性能に優る軍備、安定した兵站、そして、調達・動員し得る資源の物量が戦争の勝敗を決するからです。技術力を含めた経済力こそが真の勝因ということになりましょう。第二次世界大戦後、西側陣営を構成してきたアメリカや西欧諸国が、東側陣営諸国への技術移転に規制し、自由貿易圏からも締め出していた理由は、ソ連邦の経済・技術大国化を恐れてのことであったのでしょう。また、第二次世界大戦前夜にあっては、日本国はアメリカの石油禁輸措置によって開戦に踏み切り、制海権を完全に奪われた末に資源調達ルートを絶たれ、戦いに敗れることともなりました。日本国もまた、経済力によって敗北した苦い経験を有する国なのです。

 

 今後、米中対立が激化した場合、日本国は、アメリカの軍事同盟国ですので、アメリカ陣営の一員として行動することとなりましょう(次期政権が、国民を裏切らなければ…)。対中戦争ともなりますと、日本国の在日米軍基地が極めて重要な役割を果たすものと予測され、あるいは、ミサイル攻撃であれ、国内の工作員によるテロであれ、中国から直接的な攻撃を受ける可能性も否定はできません。戦争当事国となりかねない立場にあるのです。

 

政経分離論者は、日米同盟を強化すれば中国の暴走を抑止できるので、こうした事態は懸念するに及ばないと主張することでしょう。しかしながら、現状にあって日本国が、中国との友好な通商関係、あるいは、ビジネス関係を維持しますと、むしろ、中国の軍事行動を加速させるに等しくなります。上述したように技術力や経済力が戦争において‘ものを言う’のであれば、日本国は、戦争遂行能力である中国の経済力の増強に裏から貢献していることになるのですから。つまり、対中経済関係が拡大すればするほど、政経分離論者の期待とは逆に、日本国による‘燃料投下’による中国の暴走リスクを高めてしまうのです。

 

同盟国である米国も、こうした日本の政経分離政策を利敵行為と見なすことでしょう。これでは‘自滅行為’ともなりますので、次期首相には、軍事と経済との連続性を認識し、政政経面において中国から離れる政策を主張する候補者が望まれるのではないでしょうか。


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