菅新政権への不安は、親中派の首領である二階幹事長の続投決定によって現実のものとなりました。この人事の布陣ですと、次期総選挙では、候補者選定や資金配分の権を握る同幹事長の采配によって、自民党はさらに親中色を強めるかもしれません。親米派の議員はパージ、あるいは、粛清されかねないのですが、党内人事に加えて不安を掻き立てるのが、菅官房長官による‘日本民族を信じる’発言です。
この発言、親中派疑惑が渦巻く中で、保守政治家としての面目躍如といった風にも聞こえるのですが、実は、そうではないのです。同発言の文脈を見ますと、そこには、グローバリズムに対する認識の危うさが見て取れるからです。それでは、どのような文脈なのかと申しますと、記者のインタヴューに答える形で飛び出した発言であり、その質問とは、新政権がグローバリズムをさらに推し進めた際に予測される、日本企業の勝算について問うものでした。同質問に対しての回答こそ、‘日本民族を信じる’というものであったのです。つまり、現実の直視を回避した一種の精神論であり、この発言には開戦前夜を彷彿させる危うさがあるのです。
グローバリズムとは、規模が圧倒的な優位性を発揮しますので、合理的に推測すれば、日本企業に勝ち目はありません。日本企業は、高い技術力、並びに、それに裏打ちされた生活を便利で豊かにする製品の開発を以って経済大国への道を歩んだのですが、知的財産権までもが国境を容易に超えてしまうグローバル時代にあっては、これらの強みも薄れつつあります。技術力や発想力もまた、人材のハンティングやM&Aによる企業丸ごとの買収によって、資金力さえあれば手に入るのですから、こちらもまた、規模の経済が強力に働くのです。実際に、グローバル時代にあって、日本企業は、競争力を急速に低下させると同時に、国際市場におけるシェアを落としています(むしろ、独自路線をひた走ったほうが、希少価値としての輝きがあったのでは…)。
しかも、規模志向のグローバル時代に合わせるために、質よりも量を重視する企業経営が、日本経済の衰退に拍車をかけることともなりました。日本国の全ての企業が合併したところで、規模に優る米中等のグローバル企業に太刀打ちできるはずもなく、むしろ、質から量への転換が、日本国の強みを失わせてしまったとも言えましょう。そして、本来、誇るべき日本独自の技術も‘ガラパゴス化’として揶揄され、そこに将来のイノヴェーションの芽となるようなユニークな発想があったとしても、世界の画一化を目指すグローバリズムとは相いれず、その潜在的な価値も顧みられることはなかったのです。
今日の日本国の低迷の原因の一つが、自らのユニークさを捨て去ろうとしたところにあるとしますと、ポスト・グローバリズムの時代にあって日本経済が向かうべきは、敢えて逆方向を選択し、独自性に磨きをかけてゆくという意味における‘ガラパゴス化’であるかもしれません。この方向性にあっては、アメリカと同様に保護主義的な政策こそ望ましく、グローバリズムと一体化した中国とのデカップリングも必要となりましょう。日本市場、並びに、日本企業が中国に支配されるようになれば、もはや、日本経済が独自の道を選択する余地もなくなる、否、中国によって排除されてしまうからです。
この方向性は日本国に限られたことではなく、全世界の国々が、自らのユニークさを高めていく世界こそ、実のところ、真の意味での多様性が自立性と一体となって尊重される世界とも言えましょう。そして、それは、それぞれが完全に分離された孤島化としての‘ガラパゴス化’ではなく、相互に参考とすべきもの、あるいは、導入すべきものがあれば、自発的に取り入れてゆくという柔軟性や通気性を備えていれば、人類全体の発展に資するのではないかと思うのです(多様性と調和するグローバリズム…)。
菅総裁が掲げている政策方針を見ますと、実のところ新自由主義的な政策が並び、従来の規模追求型のグローバリズムの枠に留まるどころか、むしろ、改革の名の下でそれを加速化させようとしているように見えます。それは、結果的に日本企業に不利な競争を強い、国内市場を中国企業を含むグローバル企業に明け渡す結果を招くかもしれません。全世界規模でグローバリズム批判が強まる中、日本の企業、並びに、国民の多くは、中国の脅威を削ぐ意味においても、画一化と支配が一体化した従来型のグローバリズムからの転換を望んでいるのではないかと思うのです。