奈良県の「大和 飛鳥」じゃおまへんで~
高松塚古墳の極彩色壁画が発見されて大和飛鳥は一躍有名になりましたな。
あれは1972年(昭和47年)の事でっさかいにもう40年も昔になりますかしら。
それからは明日香村を巡る観光がブームになりましたな。
大阪の南河内にも飛鳥がおますんやけど、こちらはほとんど知られてまへんわ。
ほな、ご案内しまひょ~
(歴史の道 河内飛鳥 古市)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
日本で一番古い国道である竹内街道(たけのうちかいどう)は飛鳥時代の
7世紀には出来ていたそうですわ。
難波宮(現在の大阪城南側)から上町台地を南下して堺の三国ヶ丘から
東へ向きを変え、鉄ちゃん爺やの住む古市から河内飛鳥を通り
二上山の鞍部にある「竹内峠」を越えて大和の飛鳥までが竹内街道でおます。
これは中国や朝鮮から往来する使節や要人に日本が立派な文化国家であると
見せつける為に造られた官道で途中にある巨大古墳なども
その土木事業等の優れた技術を彼らに印象づけるためだとも言われてまんな。
(西淋寺 山門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この西淋寺(さいりんじ)は今でこそ、小じんまりしたお寺でっけど
奈良時代の書物には七堂伽藍が立ち並ぶ河内の国第一の寺院だと記されてますんや。
このお寺は中国か朝鮮か定かじゃおまへんが、大陸から渡来した王仁(ワニ)氏の
一族で「西文」(かわちのふみ)氏の創建したお寺だそうですわ。
西文氏(かわちのふみし)は漢字や文章に秀でていたので大和朝廷に
事務官僚として仕えた中流官人の一族だったようでんな。
門前にこんな石碑が立ってますんや。
(欽明天皇・桓武天皇 勅願のお寺)
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欽明天皇が何故、この渡来人のお寺を勅願寺としたのか文献は何も語ってまへん。
わてが~ 独断と偏見でこんな想定をしてみましたんや。
欽明天皇のお妃に「堅塩媛」(きたしひめ)と言うお方がいらっしゃいました
このお方と欽明天皇の間には七男六女という多くの皇子・皇女が生まれ
天皇のお子さんをこんなに多く生んだお妃は歴史上いらっしゃるのかしら。
この「堅塩媛」というお方は父親が蘇我稲目ですが母親は不明とされています。
このお寺が「堅塩媛」(きたしひめ)と深い関係がある生家だったとの説。
西文氏(かわちのふみし)の血を引いているので母親は不明とされたのでは?
「堅塩媛」(きたしひめ)のお子さんである用明天皇(聖徳太子の父)や
推古天皇(初の女性天皇)が即位されているので
後日になって欽明天皇勅願寺と命名されたんだと、わては考えますんや。
欽明天皇は公的にはまだ仏教を受け入れてなかったはず。
蘇我の血統は大化の改新や奈良時代の天武天皇系の断絶で途切れていると
考えていた処、「堅塩媛」(きたしひめ)と欽明天皇のお子さんで
桜井皇子という方が大化の改新に登場する皇極天皇の祖父なんですよね。
天武天皇系が断絶し桓武天皇はこの桜井皇子の血を受けておられるし
母親は同じく高野新笠とお呼びする渡来系の女性だそうです。
桓武天皇は渡来人には特別な感情を持っておられたのかもしれませんよ。
そんな縁で西淋寺(さいりんじ)は欽明・桓武両天皇の勅願寺となったんでしょうな。
(西淋寺 金堂)
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小ぢんまりとした本堂でっしゃろ。
このお寺は平安時代には一旦寂れて鎌倉時代に西大寺の叡尊によって再建されて
昔の姿を取り戻したんやそうですわ。
処が戦国時代になって鉄ちゃん爺やが住んでいる高屋城が河内守護の畠山一族や
四国の細川・三好それに大和の筒井・越智などと百年近い戦乱の中心となり
最後は織田信長によりお城も西淋寺も焼失させられてしまいました。
その上最後には明治の廃仏毀釈で一時は廃寺にまで追い込まれたそうでんがな。
この建物は昭和になってから再建された物でっしゃろな。
歴史の道を訪ねて各地からこられた方がこのお寺は有名なんですが
場所が分からず迷っておられるのを時々見かけますんや。
我が地元でも若い方はこのお寺の場所や由来を知らない方が多いそうですわ。
(西淋寺 説明板)
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画像に見える瓦は「鴟尾」(しび)といって大屋根の両端に飾るもので
実物は我が町の市役所の1階に展示されてまっせ。
当時は大きな寺院だったことを示す遺物でおますな。
もう一つこんなのも境内に残ってますんや。
(西淋寺 塔の心礎石)
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高さが2m 重量が27トンもの大きな塔の基礎に敷いてあった石でっせ。
この石は観光用のパンフレットや手引書にも載っている有名な物ですわ。
なんでも飛鳥時代の心礎柱石としてはこれが最大のようだっせ。
記録によると西側に金堂が在り東側に塔が並ぶ法起寺式伽藍配置というんだって。
(奥の院 宝生院址から 発掘された五輪塔)
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この五輪塔は1958年(昭和33年)偶然に地中から発掘されたんですわ。
先程も書きました高屋城を造るときに河内守護・畠山氏がこの五輪塔を城の土台に
埋めていた物が昭和になって見つかったちゅうことでんな。
鎌倉時代中期に西淋寺・奥の院が高屋の丘陵に造られたと記録されてますな。
鎌倉時代を代表する五輪塔だそうで西淋寺を中興させた律宗・西大寺の叡尊他の
墓石かもしくも供養塔だとの説があるようですわ。
この西淋寺を訪れた人はこれらの五輪塔と先ほどの大きな基礎石を見るだけで
何もないお寺だなとガッカリして帰るかもしれませんで。
(歴史の道 カラータイル)(江戸時代の古市村)
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ここ古市村は江戸時代には代官所が置かれ南河内の中心として栄えたんだっせ。
両替屋(現在の銀行)や大きな商家が並ぶ古市村の賑わいを描いてますんや。
今は上流にダムが出来て船が遡上できませんが江戸時代には大坂から
大和川を通り石川のここ古市まで剣先船がやって来たんやそうな。
明治以降は船便が衰退し河内の中心は東大阪方面に移ったんですけど。
(河内を流れる 石川)
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この石川の流れる付近は昔は河内の国は石川郡と呼んでましたんでっせ。
大和の飛鳥にも石川という地名が在り西淋寺の元の名前である向原寺も
蘇我稲目が欽明天皇から預かった仏像を自宅を初めてお寺にしたのが
向原寺で、飛鳥川という小さい流れも両方に存在しますな。
不思議と河内飛鳥と大和飛鳥には似た地名や名前があるのに気がつきました。
蘇我氏はここ石川郡の河内飛鳥と大和飛鳥の両方に支配地を持っていたのかも?
(大和 飛鳥川) (奈良県橿原市付近)
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(河内 飛鳥川) (大阪府羽曳野市)
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蘇我氏は葛城地方が発祥の地と言われてますので葛城山にまたがる河内飛鳥も
大和飛鳥に進出する前から支配していた可能性もあるようでっせ。
ある学者は蘇我氏のスタートは河内飛鳥だと言う人も居られるようですな。
聖徳太子や用明天皇それに推古天皇の御陵は河内飛鳥の川を遡った最上流
竹内街道の河内側山裾にほぼ、並んで設けられています。
この辺りが蘇我氏の古くから根拠地だったのが要因かもしれませんな。
(河内飛鳥 石川の堤防から 高屋城址を望む)
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この辺りの駒ヶ谷という処から織田信長は高屋城を攻めるのを眺めたとか。
河内・高屋城は織田信長により落城後に取り壊されたと書かれていますな。
この高屋城址の向こう側に鉄ちゃん爺やの自宅がおますんや。
ほな、今日はこれで失礼します。 さいなら~
高松塚古墳の極彩色壁画が発見されて大和飛鳥は一躍有名になりましたな。
あれは1972年(昭和47年)の事でっさかいにもう40年も昔になりますかしら。
それからは明日香村を巡る観光がブームになりましたな。
大阪の南河内にも飛鳥がおますんやけど、こちらはほとんど知られてまへんわ。
ほな、ご案内しまひょ~
(歴史の道 河内飛鳥 古市)
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日本で一番古い国道である竹内街道(たけのうちかいどう)は飛鳥時代の
7世紀には出来ていたそうですわ。
難波宮(現在の大阪城南側)から上町台地を南下して堺の三国ヶ丘から
東へ向きを変え、鉄ちゃん爺やの住む古市から河内飛鳥を通り
二上山の鞍部にある「竹内峠」を越えて大和の飛鳥までが竹内街道でおます。
これは中国や朝鮮から往来する使節や要人に日本が立派な文化国家であると
見せつける為に造られた官道で途中にある巨大古墳なども
その土木事業等の優れた技術を彼らに印象づけるためだとも言われてまんな。
(西淋寺 山門)
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この西淋寺(さいりんじ)は今でこそ、小じんまりしたお寺でっけど
奈良時代の書物には七堂伽藍が立ち並ぶ河内の国第一の寺院だと記されてますんや。
このお寺は中国か朝鮮か定かじゃおまへんが、大陸から渡来した王仁(ワニ)氏の
一族で「西文」(かわちのふみ)氏の創建したお寺だそうですわ。
西文氏(かわちのふみし)は漢字や文章に秀でていたので大和朝廷に
事務官僚として仕えた中流官人の一族だったようでんな。
門前にこんな石碑が立ってますんや。
(欽明天皇・桓武天皇 勅願のお寺)
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欽明天皇が何故、この渡来人のお寺を勅願寺としたのか文献は何も語ってまへん。
わてが~ 独断と偏見でこんな想定をしてみましたんや。
欽明天皇のお妃に「堅塩媛」(きたしひめ)と言うお方がいらっしゃいました
このお方と欽明天皇の間には七男六女という多くの皇子・皇女が生まれ
天皇のお子さんをこんなに多く生んだお妃は歴史上いらっしゃるのかしら。
この「堅塩媛」というお方は父親が蘇我稲目ですが母親は不明とされています。
このお寺が「堅塩媛」(きたしひめ)と深い関係がある生家だったとの説。
西文氏(かわちのふみし)の血を引いているので母親は不明とされたのでは?
「堅塩媛」(きたしひめ)のお子さんである用明天皇(聖徳太子の父)や
推古天皇(初の女性天皇)が即位されているので
後日になって欽明天皇勅願寺と命名されたんだと、わては考えますんや。
欽明天皇は公的にはまだ仏教を受け入れてなかったはず。
蘇我の血統は大化の改新や奈良時代の天武天皇系の断絶で途切れていると
考えていた処、「堅塩媛」(きたしひめ)と欽明天皇のお子さんで
桜井皇子という方が大化の改新に登場する皇極天皇の祖父なんですよね。
天武天皇系が断絶し桓武天皇はこの桜井皇子の血を受けておられるし
母親は同じく高野新笠とお呼びする渡来系の女性だそうです。
桓武天皇は渡来人には特別な感情を持っておられたのかもしれませんよ。
そんな縁で西淋寺(さいりんじ)は欽明・桓武両天皇の勅願寺となったんでしょうな。
(西淋寺 金堂)
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小ぢんまりとした本堂でっしゃろ。
このお寺は平安時代には一旦寂れて鎌倉時代に西大寺の叡尊によって再建されて
昔の姿を取り戻したんやそうですわ。
処が戦国時代になって鉄ちゃん爺やが住んでいる高屋城が河内守護の畠山一族や
四国の細川・三好それに大和の筒井・越智などと百年近い戦乱の中心となり
最後は織田信長によりお城も西淋寺も焼失させられてしまいました。
その上最後には明治の廃仏毀釈で一時は廃寺にまで追い込まれたそうでんがな。
この建物は昭和になってから再建された物でっしゃろな。
歴史の道を訪ねて各地からこられた方がこのお寺は有名なんですが
場所が分からず迷っておられるのを時々見かけますんや。
我が地元でも若い方はこのお寺の場所や由来を知らない方が多いそうですわ。
(西淋寺 説明板)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
画像に見える瓦は「鴟尾」(しび)といって大屋根の両端に飾るもので
実物は我が町の市役所の1階に展示されてまっせ。
当時は大きな寺院だったことを示す遺物でおますな。
もう一つこんなのも境内に残ってますんや。
(西淋寺 塔の心礎石)
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高さが2m 重量が27トンもの大きな塔の基礎に敷いてあった石でっせ。
この石は観光用のパンフレットや手引書にも載っている有名な物ですわ。
なんでも飛鳥時代の心礎柱石としてはこれが最大のようだっせ。
記録によると西側に金堂が在り東側に塔が並ぶ法起寺式伽藍配置というんだって。
(奥の院 宝生院址から 発掘された五輪塔)
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この五輪塔は1958年(昭和33年)偶然に地中から発掘されたんですわ。
先程も書きました高屋城を造るときに河内守護・畠山氏がこの五輪塔を城の土台に
埋めていた物が昭和になって見つかったちゅうことでんな。
鎌倉時代中期に西淋寺・奥の院が高屋の丘陵に造られたと記録されてますな。
鎌倉時代を代表する五輪塔だそうで西淋寺を中興させた律宗・西大寺の叡尊他の
墓石かもしくも供養塔だとの説があるようですわ。
この西淋寺を訪れた人はこれらの五輪塔と先ほどの大きな基礎石を見るだけで
何もないお寺だなとガッカリして帰るかもしれませんで。
(歴史の道 カラータイル)(江戸時代の古市村)
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ここ古市村は江戸時代には代官所が置かれ南河内の中心として栄えたんだっせ。
両替屋(現在の銀行)や大きな商家が並ぶ古市村の賑わいを描いてますんや。
今は上流にダムが出来て船が遡上できませんが江戸時代には大坂から
大和川を通り石川のここ古市まで剣先船がやって来たんやそうな。
明治以降は船便が衰退し河内の中心は東大阪方面に移ったんですけど。
(河内を流れる 石川)
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この石川の流れる付近は昔は河内の国は石川郡と呼んでましたんでっせ。
大和の飛鳥にも石川という地名が在り西淋寺の元の名前である向原寺も
蘇我稲目が欽明天皇から預かった仏像を自宅を初めてお寺にしたのが
向原寺で、飛鳥川という小さい流れも両方に存在しますな。
不思議と河内飛鳥と大和飛鳥には似た地名や名前があるのに気がつきました。
蘇我氏はここ石川郡の河内飛鳥と大和飛鳥の両方に支配地を持っていたのかも?
(大和 飛鳥川) (奈良県橿原市付近)
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(河内 飛鳥川) (大阪府羽曳野市)
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蘇我氏は葛城地方が発祥の地と言われてますので葛城山にまたがる河内飛鳥も
大和飛鳥に進出する前から支配していた可能性もあるようでっせ。
ある学者は蘇我氏のスタートは河内飛鳥だと言う人も居られるようですな。
聖徳太子や用明天皇それに推古天皇の御陵は河内飛鳥の川を遡った最上流
竹内街道の河内側山裾にほぼ、並んで設けられています。
この辺りが蘇我氏の古くから根拠地だったのが要因かもしれませんな。
(河内飛鳥 石川の堤防から 高屋城址を望む)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この辺りの駒ヶ谷という処から織田信長は高屋城を攻めるのを眺めたとか。
河内・高屋城は織田信長により落城後に取り壊されたと書かれていますな。
この高屋城址の向こう側に鉄ちゃん爺やの自宅がおますんや。
ほな、今日はこれで失礼します。 さいなら~