鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や    京都 今熊野を散策 (続編)

2014-03-08 17:05:11 | 大阪
にしん蕎麦で昼食を済ましたんで
再び東大路通りを北上しまひょ。

生憎の雨でしたが京都の町も
乙なもんでおます。

(東大路通りにて 道路標識)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この東大路通りちゅうのは今熊野から
祇園や八坂神社の横を通過しまっせ。

それから京都大学の側を通り抜けて
修学院で北大路通りと繋がっている
東山を南北に走るメイン道路でおます。

北大路通りの交差点から先は細くなり
北山通りで終わるようでんな。

昔の「東山通り」と呼ぶこともます。

京都市内では「通り」→「通」と書き
平仮名は付けないようでっけど
読みやすいように「り」を付けて置きまひょ。

(智積院への案内標識)


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このお寺は訪れたことがないので
立ち寄ってみまひょかな。

仏教には詳しくない鉄ちゃん爺やでっけど
ネットの受け売りでご免なはれ。

(総本山 智積院=ちしゃくいん  冠木門)


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真言宗という宗旨は約50もの宗派に分かれている
大きな教団でっけど、ご本尊は大日如来さんですわ。

その中心的な18宗派が「真言宗十八本山」という
親睦と連携をするための組織を作ってますんや。

その名前を「真言宗各派大本山会」と呼び
ここ智積院に本部が置かれているんだって。

18のお寺の長老さんが1年交代で会長になり
真言宗では「長者」さんとお呼びするそうな。

(真言宗・智山派 総本山 智積院の 金堂)


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このお寺は江戸時代から1947年(昭和22年)まで
三度も大きな火災に遭遇し古い建物は残ってまへん。

ここに東山随一とも称される日本庭園がおます
なんでも利休好みの名園なんだそうですわ。

長谷川等伯の一門が描いた安土桃山時代の
障壁画が焼けずに25枚ほど残ってますんや。

(智積院 講堂への南門入口)


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元々は祥雲寺(しょううんじ)と呼ばれるお寺で
豊臣秀吉の夭折した鶴松を祀る菩提寺でしたんや。

大書院の裏手に残る庭園は豊臣秀吉時代の
祥雲寺の庭が残っていると考えられるとか。

その客殿に描かれていたのが長谷川東伯の障壁画で
三度の火災にも一部が持ち出されて現在は
国宝に指定されている名画なんだそうですわ。

その豊臣秀吉が亡くなった直後にこの祥雲寺を含む
広大な土地を伏見城に居た徳川家康公が
真言宗の玄ユウと言う僧侶に与えたんだって。

この玄ユウという方は根来寺の智積院に居られたが
1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来寺焼き討ち
で京都に逃れて郊外で放浪しておられたとか
徳川家康とお付き合いがあったんようでんな。

入口で尋ねたら障壁画は宝物館に納められていて
代りにレプリカが展示されているそうなので
入場して拝観するのはヤメにしましたんや。

(智積院の大書院と講堂を撮影)


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豊臣秀吉が滅ぼしてしまった根来寺をよりによって
豊臣秀吉の長男の菩提寺を壊して再建させるとは
徳川家康公らしい陰湿なやり方ではおます。

お寺の建物や門は全てが阿弥陀ケ峯の豊臣秀吉の墓に
お尻を向けて、ご丁寧にも配置されてまっせ。

しかもお寺を建てさせたのが豊臣秀吉の部下である
加藤清正ですからどんな心境だったんでしょうな。

智積院はその苦労に報いるべくお寺の寺紋に今でも
加藤清正の「桔梗」の紋を使用してるようですわ。

画像に見える「桔梗」の紋は明智光秀の紋とは
少しだけ異なっているんだって。

(智積院 大日如来の ご朱印)


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このお寺は現在では真言宗・智山派の総本山となっていて
全国に約3000近い末寺を持つ真言宗のなかでは
一番大きな勢力を持つ教団のようですわ。

成田山・新勝寺  高尾山・薬王院

川崎大師・平間寺 名古屋では大須観音

関東や東海で有名なお寺が、ここの末寺の大本山でっせ。

真言宗・智山派と成ったのは明治以降のようでっけど。

でも智積院を参詣する方は少ないのでは。

私もネットで検索するまで知りまへんでしたから。

(智積院 本坊) (法務所&講伝所)


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ここで僧侶は新義真言宗の教義を学ぶ建物のようですな。

新義真言宗とは12世紀に真言宗中興の祖「興教大師」が
高野山の広義真言宗と別の考え方を唱えたそうで
後に高野山から根来寺への移動となったそうですわ。

広義真言宗とは本尊の大日如来さまが自ら説法する
本地説法身を説くんだと考える教学なんだって。

高野山・真言宗や四国・善通寺に京都・醍醐寺など
京都・東寺や同じく京都・仁和寺などもしかり。

前回に紹介した泉涌寺も広義真言宗に入りまっせ。

片や新義真言宗は大日如来さんが説法のために
加持身となって教えを説くという教義だそうな。

智山派・京都の智積院や豊山派・大和の長谷寺に
真言律宗・奈良の西大寺など。

関東では音羽の護国寺が豊山派のお寺なんだそうな。

開祖空海を最上に頂く広義真言宗の各派と
興教大師をも合せてお祀りする新義真言宗の違いは
わてらのような凡人には難しくて分かりまへんけど。

(智積院 正門)


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智積院を出ると豊臣秀吉の廟に向かう「女坂」と
呼ばれる二車線の道路が東西に走ってますんや。

ここは京都女子大や京都女子短大が阿弥陀ケ峯への
麓におますんで最近はそのように呼ばれるんやそうな。

この日は土曜日の午後でしたんで
女学生さん歩いてはりまへんでしたわ。

(阿弥陀ケ峯への 通称 女坂)


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奥の方に大きな鳥居が見えてまっしゃろ。

少し前にお話しました豊臣秀吉の廟に登れないように
徳川幕府が「新日吉神社」を移設して柵を設けた所で
現在は左へ道を曲げてから新しい参道を
明治になってから作り替えたようでんな。

画像の左側に「豊国廟」との石碑がおますんやけど
わてがカメラのアングルをミスして写ってまへんわ。

この画像の右手が智積院の境内で山の麓まででっせ
逆に左手に妙法院門跡というお寺がおますんや。

(妙法院門跡の 正門)


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このお寺は天台宗の三門跡寺院の一つなんでっせ。

三十三間堂は今でもこのお寺の所有物だと以前に
ブログに書き込ませて頂いたお寺でんな。

門跡寺院とは明治維新までは法親王さまか五摂家の
子息しか門主になれなかった格式の高いお寺でおます。

この妙法院も江戸時代の初め徳川幕府に接近し
大仏殿や方広寺や現在の国立博物館まで含めて
広大な土地を所有した有力な寺院だったようでんな。

(妙法院 庫裏) (国宝に指定)


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1595年(文禄4年)に豊臣秀吉が創建した
大仏の開眼法要や秀吉の祖先を供養するために
各宗派から合わせて千人の僧侶を集めた時に
ここで食事などを提供したとの記録がおます。

豊臣家が滅ぶまで千僧供養は行なわれたとのこと。

その後は火災にも会ってないので当時のまま
残っていると考えられての国宝指定でっしゃろな。

この妙法院は残念ながら一般公開はされてませんのや。

境内からこの国宝の庫裏と勅使門や車寄せを
外から眺められるぐらいでしたわ。

京都の寺院にはこのように一般公開しない
お寺や塔頭が多くおますんでね。

(妙法院門跡  唐破風の車寄せ)


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雨の中を方広寺の方へ足を延ばしてみまひょ。

現在は休館中の国立博物館を写してみました。

(国立 京都博物館 西門)


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(国立 京都博物館 本館)


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ここは江戸時代には先程の妙法院門跡の土地でしたが
明治維新後に政府が没収して国立博物館にしたとか。

この国立博物館の北側に巨大な石垣がおますんや。

これは方広寺の大仏を造った時に豊臣秀吉が
各大名に寄進させた物が残っているんだって。

(豊臣秀吉時代の 巨大な石垣)


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確認できなかったけど、加賀へ帰りたいと石が
泣いたとの伝説が残る「加賀石」が有るんだって。

京都市内には豊臣秀吉時代の史跡はこの石垣と
「耳塚」と呼ばれる供養塔だけだとの事。

だから貴重な石垣なんだね、知らなかったので
昨年秋に方広寺を訪れた時は写さなかったんだ。

(史跡 耳塚)


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太閤秀吉の朝鮮の役で戦死した軍民の耳や鼻を削ぎ
日本に持ち帰って戦果として報告したんだそうな。

残酷な話だけど当時は当たり前のことだったとか。

豊臣秀吉の命令でここに纏めて葬り供養塔を
立てたものが現在まで残っているんだって。

江戸時代の初期の絵地図に今と同じ姿で
描かれているので当時のまま残っているようでんな。

(豊国神社 境内から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

鳥居の先に見えるのが豊臣秀吉が大仏殿を造った際に
参詣の道として造らせた正面通りでっせ。

奥の方で現在は細くなって鴨川を渡ってその先の
東本願寺の庭園で突き当りとなってますんや。

耳塚はこの画像の左手で道が細くなる手前に
正面通りに面して置かれてま。

実はこの日は夕方にOBと飲み会を予定し
時間があるので祇園まで歩くつもりでした。

約15000歩足らずなんだけどフクラハギが
つってしまい中止にしましたんや。

最後に飲み会の画像を1枚だけ貼り付けて置きま。



photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

三人共に酔がまわってきたような顔でんな。

わてが三橋美智也の「哀愁列車」を歌っている
確かそんな処をマスターが写したようですわ。

ほんなら~ 今日はこれでお仕舞い  さいなら~♪
コメント (16)
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