にしん蕎麦で昼食を済ましたんで
再び東大路通りを北上しまひょ。
生憎の雨でしたが京都の町も
乙なもんでおます。
(東大路通りにて 道路標識)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この東大路通りちゅうのは今熊野から
祇園や八坂神社の横を通過しまっせ。
それから京都大学の側を通り抜けて
修学院で北大路通りと繋がっている
東山を南北に走るメイン道路でおます。
北大路通りの交差点から先は細くなり
北山通りで終わるようでんな。
昔の「東山通り」と呼ぶこともます。
京都市内では「通り」→「通」と書き
平仮名は付けないようでっけど
読みやすいように「り」を付けて置きまひょ。
(智積院への案内標識)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は訪れたことがないので
立ち寄ってみまひょかな。
仏教には詳しくない鉄ちゃん爺やでっけど
ネットの受け売りでご免なはれ。
(総本山 智積院=ちしゃくいん 冠木門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
真言宗という宗旨は約50もの宗派に分かれている
大きな教団でっけど、ご本尊は大日如来さんですわ。
その中心的な18宗派が「真言宗十八本山」という
親睦と連携をするための組織を作ってますんや。
その名前を「真言宗各派大本山会」と呼び
ここ智積院に本部が置かれているんだって。
18のお寺の長老さんが1年交代で会長になり
真言宗では「長者」さんとお呼びするそうな。
(真言宗・智山派 総本山 智積院の 金堂)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は江戸時代から1947年(昭和22年)まで
三度も大きな火災に遭遇し古い建物は残ってまへん。
ここに東山随一とも称される日本庭園がおます
なんでも利休好みの名園なんだそうですわ。
長谷川等伯の一門が描いた安土桃山時代の
障壁画が焼けずに25枚ほど残ってますんや。
(智積院 講堂への南門入口)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
元々は祥雲寺(しょううんじ)と呼ばれるお寺で
豊臣秀吉の夭折した鶴松を祀る菩提寺でしたんや。
大書院の裏手に残る庭園は豊臣秀吉時代の
祥雲寺の庭が残っていると考えられるとか。
その客殿に描かれていたのが長谷川東伯の障壁画で
三度の火災にも一部が持ち出されて現在は
国宝に指定されている名画なんだそうですわ。
その豊臣秀吉が亡くなった直後にこの祥雲寺を含む
広大な土地を伏見城に居た徳川家康公が
真言宗の玄ユウと言う僧侶に与えたんだって。
この玄ユウという方は根来寺の智積院に居られたが
1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来寺焼き討ち
で京都に逃れて郊外で放浪しておられたとか
徳川家康とお付き合いがあったんようでんな。
入口で尋ねたら障壁画は宝物館に納められていて
代りにレプリカが展示されているそうなので
入場して拝観するのはヤメにしましたんや。
(智積院の大書院と講堂を撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
豊臣秀吉が滅ぼしてしまった根来寺をよりによって
豊臣秀吉の長男の菩提寺を壊して再建させるとは
徳川家康公らしい陰湿なやり方ではおます。
お寺の建物や門は全てが阿弥陀ケ峯の豊臣秀吉の墓に
お尻を向けて、ご丁寧にも配置されてまっせ。
しかもお寺を建てさせたのが豊臣秀吉の部下である
加藤清正ですからどんな心境だったんでしょうな。
智積院はその苦労に報いるべくお寺の寺紋に今でも
加藤清正の「桔梗」の紋を使用してるようですわ。
画像に見える「桔梗」の紋は明智光秀の紋とは
少しだけ異なっているんだって。
(智積院 大日如来の ご朱印)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は現在では真言宗・智山派の総本山となっていて
全国に約3000近い末寺を持つ真言宗のなかでは
一番大きな勢力を持つ教団のようですわ。
成田山・新勝寺 高尾山・薬王院
川崎大師・平間寺 名古屋では大須観音
関東や東海で有名なお寺が、ここの末寺の大本山でっせ。
真言宗・智山派と成ったのは明治以降のようでっけど。
でも智積院を参詣する方は少ないのでは。
私もネットで検索するまで知りまへんでしたから。
(智積院 本坊) (法務所&講伝所)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここで僧侶は新義真言宗の教義を学ぶ建物のようですな。
新義真言宗とは12世紀に真言宗中興の祖「興教大師」が
高野山の広義真言宗と別の考え方を唱えたそうで
後に高野山から根来寺への移動となったそうですわ。
広義真言宗とは本尊の大日如来さまが自ら説法する
本地説法身を説くんだと考える教学なんだって。
高野山・真言宗や四国・善通寺に京都・醍醐寺など
京都・東寺や同じく京都・仁和寺などもしかり。
前回に紹介した泉涌寺も広義真言宗に入りまっせ。
片や新義真言宗は大日如来さんが説法のために
加持身となって教えを説くという教義だそうな。
智山派・京都の智積院や豊山派・大和の長谷寺に
真言律宗・奈良の西大寺など。
関東では音羽の護国寺が豊山派のお寺なんだそうな。
開祖空海を最上に頂く広義真言宗の各派と
興教大師をも合せてお祀りする新義真言宗の違いは
わてらのような凡人には難しくて分かりまへんけど。
(智積院 正門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
智積院を出ると豊臣秀吉の廟に向かう「女坂」と
呼ばれる二車線の道路が東西に走ってますんや。
ここは京都女子大や京都女子短大が阿弥陀ケ峯への
麓におますんで最近はそのように呼ばれるんやそうな。
この日は土曜日の午後でしたんで
女学生さん歩いてはりまへんでしたわ。
(阿弥陀ケ峯への 通称 女坂)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
奥の方に大きな鳥居が見えてまっしゃろ。
少し前にお話しました豊臣秀吉の廟に登れないように
徳川幕府が「新日吉神社」を移設して柵を設けた所で
現在は左へ道を曲げてから新しい参道を
明治になってから作り替えたようでんな。
画像の左側に「豊国廟」との石碑がおますんやけど
わてがカメラのアングルをミスして写ってまへんわ。
この画像の右手が智積院の境内で山の麓まででっせ
逆に左手に妙法院門跡というお寺がおますんや。
(妙法院門跡の 正門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は天台宗の三門跡寺院の一つなんでっせ。
三十三間堂は今でもこのお寺の所有物だと以前に
ブログに書き込ませて頂いたお寺でんな。
門跡寺院とは明治維新までは法親王さまか五摂家の
子息しか門主になれなかった格式の高いお寺でおます。
この妙法院も江戸時代の初め徳川幕府に接近し
大仏殿や方広寺や現在の国立博物館まで含めて
広大な土地を所有した有力な寺院だったようでんな。
(妙法院 庫裏) (国宝に指定)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1595年(文禄4年)に豊臣秀吉が創建した
大仏の開眼法要や秀吉の祖先を供養するために
各宗派から合わせて千人の僧侶を集めた時に
ここで食事などを提供したとの記録がおます。
豊臣家が滅ぶまで千僧供養は行なわれたとのこと。
その後は火災にも会ってないので当時のまま
残っていると考えられての国宝指定でっしゃろな。
この妙法院は残念ながら一般公開はされてませんのや。
境内からこの国宝の庫裏と勅使門や車寄せを
外から眺められるぐらいでしたわ。
京都の寺院にはこのように一般公開しない
お寺や塔頭が多くおますんでね。
(妙法院門跡 唐破風の車寄せ)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
雨の中を方広寺の方へ足を延ばしてみまひょ。
現在は休館中の国立博物館を写してみました。
(国立 京都博物館 西門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(国立 京都博物館 本館)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここは江戸時代には先程の妙法院門跡の土地でしたが
明治維新後に政府が没収して国立博物館にしたとか。
この国立博物館の北側に巨大な石垣がおますんや。
これは方広寺の大仏を造った時に豊臣秀吉が
各大名に寄進させた物が残っているんだって。
(豊臣秀吉時代の 巨大な石垣)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
確認できなかったけど、加賀へ帰りたいと石が
泣いたとの伝説が残る「加賀石」が有るんだって。
京都市内には豊臣秀吉時代の史跡はこの石垣と
「耳塚」と呼ばれる供養塔だけだとの事。
だから貴重な石垣なんだね、知らなかったので
昨年秋に方広寺を訪れた時は写さなかったんだ。
(史跡 耳塚)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
太閤秀吉の朝鮮の役で戦死した軍民の耳や鼻を削ぎ
日本に持ち帰って戦果として報告したんだそうな。
残酷な話だけど当時は当たり前のことだったとか。
豊臣秀吉の命令でここに纏めて葬り供養塔を
立てたものが現在まで残っているんだって。
江戸時代の初期の絵地図に今と同じ姿で
描かれているので当時のまま残っているようでんな。
(豊国神社 境内から撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鳥居の先に見えるのが豊臣秀吉が大仏殿を造った際に
参詣の道として造らせた正面通りでっせ。
奥の方で現在は細くなって鴨川を渡ってその先の
東本願寺の庭園で突き当りとなってますんや。
耳塚はこの画像の左手で道が細くなる手前に
正面通りに面して置かれてま。
実はこの日は夕方にOBと飲み会を予定し
時間があるので祇園まで歩くつもりでした。
約15000歩足らずなんだけどフクラハギが
つってしまい中止にしましたんや。
最後に飲み会の画像を1枚だけ貼り付けて置きま。
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
三人共に酔がまわってきたような顔でんな。
わてが三橋美智也の「哀愁列車」を歌っている
確かそんな処をマスターが写したようですわ。
ほんなら~ 今日はこれでお仕舞い さいなら~♪
再び東大路通りを北上しまひょ。
生憎の雨でしたが京都の町も
乙なもんでおます。
(東大路通りにて 道路標識)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この東大路通りちゅうのは今熊野から
祇園や八坂神社の横を通過しまっせ。
それから京都大学の側を通り抜けて
修学院で北大路通りと繋がっている
東山を南北に走るメイン道路でおます。
北大路通りの交差点から先は細くなり
北山通りで終わるようでんな。
昔の「東山通り」と呼ぶこともます。
京都市内では「通り」→「通」と書き
平仮名は付けないようでっけど
読みやすいように「り」を付けて置きまひょ。
(智積院への案内標識)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は訪れたことがないので
立ち寄ってみまひょかな。
仏教には詳しくない鉄ちゃん爺やでっけど
ネットの受け売りでご免なはれ。
(総本山 智積院=ちしゃくいん 冠木門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
真言宗という宗旨は約50もの宗派に分かれている
大きな教団でっけど、ご本尊は大日如来さんですわ。
その中心的な18宗派が「真言宗十八本山」という
親睦と連携をするための組織を作ってますんや。
その名前を「真言宗各派大本山会」と呼び
ここ智積院に本部が置かれているんだって。
18のお寺の長老さんが1年交代で会長になり
真言宗では「長者」さんとお呼びするそうな。
(真言宗・智山派 総本山 智積院の 金堂)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は江戸時代から1947年(昭和22年)まで
三度も大きな火災に遭遇し古い建物は残ってまへん。
ここに東山随一とも称される日本庭園がおます
なんでも利休好みの名園なんだそうですわ。
長谷川等伯の一門が描いた安土桃山時代の
障壁画が焼けずに25枚ほど残ってますんや。
(智積院 講堂への南門入口)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
元々は祥雲寺(しょううんじ)と呼ばれるお寺で
豊臣秀吉の夭折した鶴松を祀る菩提寺でしたんや。
大書院の裏手に残る庭園は豊臣秀吉時代の
祥雲寺の庭が残っていると考えられるとか。
その客殿に描かれていたのが長谷川東伯の障壁画で
三度の火災にも一部が持ち出されて現在は
国宝に指定されている名画なんだそうですわ。
その豊臣秀吉が亡くなった直後にこの祥雲寺を含む
広大な土地を伏見城に居た徳川家康公が
真言宗の玄ユウと言う僧侶に与えたんだって。
この玄ユウという方は根来寺の智積院に居られたが
1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来寺焼き討ち
で京都に逃れて郊外で放浪しておられたとか
徳川家康とお付き合いがあったんようでんな。
入口で尋ねたら障壁画は宝物館に納められていて
代りにレプリカが展示されているそうなので
入場して拝観するのはヤメにしましたんや。
(智積院の大書院と講堂を撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
豊臣秀吉が滅ぼしてしまった根来寺をよりによって
豊臣秀吉の長男の菩提寺を壊して再建させるとは
徳川家康公らしい陰湿なやり方ではおます。
お寺の建物や門は全てが阿弥陀ケ峯の豊臣秀吉の墓に
お尻を向けて、ご丁寧にも配置されてまっせ。
しかもお寺を建てさせたのが豊臣秀吉の部下である
加藤清正ですからどんな心境だったんでしょうな。
智積院はその苦労に報いるべくお寺の寺紋に今でも
加藤清正の「桔梗」の紋を使用してるようですわ。
画像に見える「桔梗」の紋は明智光秀の紋とは
少しだけ異なっているんだって。
(智積院 大日如来の ご朱印)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は現在では真言宗・智山派の総本山となっていて
全国に約3000近い末寺を持つ真言宗のなかでは
一番大きな勢力を持つ教団のようですわ。
成田山・新勝寺 高尾山・薬王院
川崎大師・平間寺 名古屋では大須観音
関東や東海で有名なお寺が、ここの末寺の大本山でっせ。
真言宗・智山派と成ったのは明治以降のようでっけど。
でも智積院を参詣する方は少ないのでは。
私もネットで検索するまで知りまへんでしたから。
(智積院 本坊) (法務所&講伝所)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここで僧侶は新義真言宗の教義を学ぶ建物のようですな。
新義真言宗とは12世紀に真言宗中興の祖「興教大師」が
高野山の広義真言宗と別の考え方を唱えたそうで
後に高野山から根来寺への移動となったそうですわ。
広義真言宗とは本尊の大日如来さまが自ら説法する
本地説法身を説くんだと考える教学なんだって。
高野山・真言宗や四国・善通寺に京都・醍醐寺など
京都・東寺や同じく京都・仁和寺などもしかり。
前回に紹介した泉涌寺も広義真言宗に入りまっせ。
片や新義真言宗は大日如来さんが説法のために
加持身となって教えを説くという教義だそうな。
智山派・京都の智積院や豊山派・大和の長谷寺に
真言律宗・奈良の西大寺など。
関東では音羽の護国寺が豊山派のお寺なんだそうな。
開祖空海を最上に頂く広義真言宗の各派と
興教大師をも合せてお祀りする新義真言宗の違いは
わてらのような凡人には難しくて分かりまへんけど。
(智積院 正門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
智積院を出ると豊臣秀吉の廟に向かう「女坂」と
呼ばれる二車線の道路が東西に走ってますんや。
ここは京都女子大や京都女子短大が阿弥陀ケ峯への
麓におますんで最近はそのように呼ばれるんやそうな。
この日は土曜日の午後でしたんで
女学生さん歩いてはりまへんでしたわ。
(阿弥陀ケ峯への 通称 女坂)
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奥の方に大きな鳥居が見えてまっしゃろ。
少し前にお話しました豊臣秀吉の廟に登れないように
徳川幕府が「新日吉神社」を移設して柵を設けた所で
現在は左へ道を曲げてから新しい参道を
明治になってから作り替えたようでんな。
画像の左側に「豊国廟」との石碑がおますんやけど
わてがカメラのアングルをミスして写ってまへんわ。
この画像の右手が智積院の境内で山の麓まででっせ
逆に左手に妙法院門跡というお寺がおますんや。
(妙法院門跡の 正門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は天台宗の三門跡寺院の一つなんでっせ。
三十三間堂は今でもこのお寺の所有物だと以前に
ブログに書き込ませて頂いたお寺でんな。
門跡寺院とは明治維新までは法親王さまか五摂家の
子息しか門主になれなかった格式の高いお寺でおます。
この妙法院も江戸時代の初め徳川幕府に接近し
大仏殿や方広寺や現在の国立博物館まで含めて
広大な土地を所有した有力な寺院だったようでんな。
(妙法院 庫裏) (国宝に指定)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1595年(文禄4年)に豊臣秀吉が創建した
大仏の開眼法要や秀吉の祖先を供養するために
各宗派から合わせて千人の僧侶を集めた時に
ここで食事などを提供したとの記録がおます。
豊臣家が滅ぶまで千僧供養は行なわれたとのこと。
その後は火災にも会ってないので当時のまま
残っていると考えられての国宝指定でっしゃろな。
この妙法院は残念ながら一般公開はされてませんのや。
境内からこの国宝の庫裏と勅使門や車寄せを
外から眺められるぐらいでしたわ。
京都の寺院にはこのように一般公開しない
お寺や塔頭が多くおますんでね。
(妙法院門跡 唐破風の車寄せ)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
雨の中を方広寺の方へ足を延ばしてみまひょ。
現在は休館中の国立博物館を写してみました。
(国立 京都博物館 西門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(国立 京都博物館 本館)
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ここは江戸時代には先程の妙法院門跡の土地でしたが
明治維新後に政府が没収して国立博物館にしたとか。
この国立博物館の北側に巨大な石垣がおますんや。
これは方広寺の大仏を造った時に豊臣秀吉が
各大名に寄進させた物が残っているんだって。
(豊臣秀吉時代の 巨大な石垣)
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確認できなかったけど、加賀へ帰りたいと石が
泣いたとの伝説が残る「加賀石」が有るんだって。
京都市内には豊臣秀吉時代の史跡はこの石垣と
「耳塚」と呼ばれる供養塔だけだとの事。
だから貴重な石垣なんだね、知らなかったので
昨年秋に方広寺を訪れた時は写さなかったんだ。
(史跡 耳塚)
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太閤秀吉の朝鮮の役で戦死した軍民の耳や鼻を削ぎ
日本に持ち帰って戦果として報告したんだそうな。
残酷な話だけど当時は当たり前のことだったとか。
豊臣秀吉の命令でここに纏めて葬り供養塔を
立てたものが現在まで残っているんだって。
江戸時代の初期の絵地図に今と同じ姿で
描かれているので当時のまま残っているようでんな。
(豊国神社 境内から撮影)
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鳥居の先に見えるのが豊臣秀吉が大仏殿を造った際に
参詣の道として造らせた正面通りでっせ。
奥の方で現在は細くなって鴨川を渡ってその先の
東本願寺の庭園で突き当りとなってますんや。
耳塚はこの画像の左手で道が細くなる手前に
正面通りに面して置かれてま。
実はこの日は夕方にOBと飲み会を予定し
時間があるので祇園まで歩くつもりでした。
約15000歩足らずなんだけどフクラハギが
つってしまい中止にしましたんや。
最後に飲み会の画像を1枚だけ貼り付けて置きま。
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三人共に酔がまわってきたような顔でんな。
わてが三橋美智也の「哀愁列車」を歌っている
確かそんな処をマスターが写したようですわ。
ほんなら~ 今日はこれでお仕舞い さいなら~♪