今回は1615年(元和元年)旧暦5月6日のお話し。
丁度、400年前のお話しになりまんな。
眞田幸村さん大坂夏の陣での活躍を辿ってみまひょ。
豊臣方は京都から生駒山沿いに南下する徳川方の本隊を
木村重成と長宗我部盛親が東大阪の横合いから攻撃する。
一方で大和から進出する徳川の別働隊を河内平野への
出口で補足するのに後藤又兵衛や眞田幸村と毛利勝永の
主力軍で約18000人を差し向けましたんや。
大坂冬の陣の和睦で大坂城の外堀から内堀まで徳川方の
謀略で埋められて仕舞い裸城になってましたんですわ。
城に籠って敵の攻撃を受けたんじゃ勝ち目はおまへんがな。
これじゃ出向いて野戦を仕掛けるより策がないとの結論。
(後藤又兵衛=基次 家紋の幟)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
5月4日は平野郷で1泊し早朝から藤井寺の道明寺村へ
そこで先発の後藤又兵衛が指揮する約2800人は
夕方には道明寺村に布陣したようでんな。
後藤又兵衛の考えた作戦は現在の大阪府柏原市の国分町辺りの
高地に登り眼下の奈良街道を通る敵を襲撃するんだったとか。
そんな計画で後藤又兵衛は国分村に進出しようとしたら
敵は既に亀の瀬を超えて国分村にまで出てきてたんですわ。
このまま河内の平野に敵を入れては勝ち目がないと考えた
後藤又兵衛は自分の軍勢を国分村の西側にある小松山に
5月5日の夕暮から登らせましたんや。
第二陣が到着するまで小松山で持ち応えようとの作戦でんな。
(小松山を 道明寺側から撮影) (大阪府柏原市片山町)
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小松山は大坂の河内平野へ出てくる最後の丘陵地帯でおます。
北側を大和川の本流が流れ西側を大きな支流である石川が
小松山の北西の麓で合流して大坂城へ向けて流れ下る
そんな地形で此処を渡河されたら後は防御が難しいんですわ。
徳川方は松平忠輝を総大将に約35000人の大軍でっせ。
徳川方は5月6日の夜半から水野勝成・本多忠政・松倉重政他が
三方から後藤又兵衛を攻撃するも奥田忠次などの戦死者を出し
小松山を攻略するのに太陽が昇った後も苦戦したんだって。
本来は眞田幸村・毛利勝永の第二陣が到着すべきなのに
この日は早朝から霧が深くて間に合わなかったとの記録。
さすがの後藤又兵衛の部隊も早朝から徳川方の大軍を引き受け
昼前には小松山から石川の川原に押し戻されてしまったとか。
後藤又兵衛は一部の兵を道明寺方面へ逃がした後に部下と共に
敵軍に突入し鉄砲の銃弾を胸に受け戦死したとされています。
5月6日のお昼前になり豊臣方の第二陣が到着し石川を挟んで
両軍が入り乱れての混戦に成ったんだそうな。
(伊達政宗 家紋の幟)
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(徳川方が渡河した 石川と道明寺川原)
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徳川方も第二陣の伊達政宗の指揮する約1万人の軍勢を小松山の
南側に展開し石川を渡る作戦を始めたんだって。
バラバラに到着した豊臣方は道明寺村で薄田隼人が戦死し次第に
押される展開になり、これで勝負は決したとも考えたとか。
伊達政宗軍の先鋒は片倉小十郎重長の率いる騎馬鉄砲隊。
一気に誉田八幡宮の眞田幸村軍に押しかけようとしたんだって。
(真田幸村 家紋の幟)
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(真田幸村が布陣した 誉田八幡宮の拝殿)
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ここで我らの眞田幸村率いる鉄砲隊の登場でっせ。
眞田幸村は騎馬で押し掛ける伊達勢を50mまで引きつけ
味方の鉄砲隊を全て伏せて待ち構えていたんだって。
当時の鉄砲はそれぐらいの距離でないと敵に
致命傷を与える事が出来ないそうだっせ。
そこで一斉射撃して伊達勢の前進を止めて逆に道明寺村の
方向へ押し返して反撃を開始したと記録されてまぁ。
伊達政宗軍も主力部隊で応戦し両軍は睨み合いになったとか。
午後2時頃になり東大阪方面で徳川本隊と合戦した木村重成が
戦死し豊臣方は破れて大坂城へ引き揚げるとの情報。
徳川家康の本隊が北側から迫れば豊臣方は圧倒されまんがな。
眞田幸村は後藤又兵衛を戦死させたことに責任を感じて
ここで討ち死も考えたが毛利勝永に説得されて共に
大坂城へ撤退する道を選んだとの事。
徳川方では水野勝成や本多忠政らが追撃を主張したが
伊達政宗が早朝からの戦いで我が軍は被害が多くて
今からの追撃なんて出来ないと発言したとか。
それで最後の決戦は翌日5月7日に決まり徳川方は
進軍を止めたとか、眞田幸村隊や毛利勝永隊もこの日は
平野郷を通って天王寺方面へ撤収したようでんな。
(眞田幸村の本陣 茶臼山古墳)
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当時の大坂城は東側には大和川が北側には淀川が流れ
天然の要害に成って居て大坂冬の陣でも徳川方の大軍を
もってしても大坂城を攻め落とせなかったんでっせ。
真田丸で大坂冬の陣を戦った眞田幸村も今回はもっと
上町台地を南へ向かった茶臼山古墳に陣取った訳でんな。
(浄土宗 一心寺 本堂)
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茶臼山古墳はそんな大きな軍勢を置ける場所じゃおまへん。
おそらく~ 北側に在る一心寺が本営だったと考えられまぁ。
ここは大坂冬の陣では徳川家康公が本陣を置いた場所。
今回は攻守が入れ替わって眞田幸村が陣を構えたんですわ。
大阪では納骨された遺骨で10年に一体の仏様を作り
お骨仏の寺として現在も有名なお寺でっせ。
宗派は違いまっけど鉄ちゃん爺やの両親も別々の
お骨仏になってここに祀られてますんや。
(毛利勝永の本陣 四天王寺の南大門)
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この画像は西大門でっけど毛利勝永隊は南大門を中心に
四天王寺を挟んで上町台地のこの付近で一番高い地点に
陣取って南側から迫って来る徳川方に備えたそうですわ。
現在でも谷町筋からあべの筋へと幹線道路が大坂城から
南へ緩やかに下りながら堺市まで続いてますんや。
当時はおそらく熊野街道だったと考えますんやけど。
この幹線道路を挟んで眞田幸村隊と毛利勝永隊が最後の
決戦をする為に備えていたようですわ。
眞田幸村と毛利勝永は徳川方を引き付けるだけ引き付け
時期を見て徳川家康の本陣を一気に襲うと決めたんだって。
(大坂夏の陣図屏風) (重要文化財のコピー)
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中央やや右側に四天王寺の鳥居が描かれてまっしゃろ。
その鳥居を挟んで下に眞田幸村隊が反対の上には
毛利勝永隊が徳川方に攻め寄せているのが描かれてまぁ。
この大坂夏の陣図屏風は「黒田屏風」とも呼ばれまして
黒田長政が戦後に一流の絵師に描かせた物だそうです。
本物は大阪城の天守閣内に飾られているはずでっせ。
豊臣時代の大坂城はこの「黒田屏風」が唯一だとか。
だから昭和の大阪城天守閣を再建する際にも参考にしたようで
今となっては貴重な重要文化財となってますんや。
(本多出雲守忠朝のお墓)
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この方は徳川家康公の四天王の一人で本多平八郎忠勝の次男で
大坂夏の陣で徳川方の大名として唯一戦死された武将なんですよ。
なんでも前夜に深酒で大事な戦いに遅れて徳川家康公から
「親に似ぬせがれめ~」と譴責されたのを恥じて
天王寺口での決戦では先鋒を努めて戦死されましたんや。
現在は一心寺というお寺の境内で「断酒の神様」として
酒乱で苦しむ方には霊験あらたかなお墓なんだって。
(本多出雲守忠朝のお墓に 断酒願いのしゃもじ)
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皆さまは眞田幸村がこの戦いで松平忠直の軍勢を蹴散らし
徳川家康の本陣に迫り馬印が倒れて旗本や家康公自身が
半里(約2km)~1里も逃げたとの伝説をご存知でっしゃろ。
眞田幸村伝説が生まれた戦いでっけど真実は少し?
確かに眞田幸村隊は松平忠直隊と衝突しこれを突破したけど
相手は大坂城へ一番乗りを狙ったの、ですれ違ったような感じ。
確かに徳川家康公は一時は戦死も覚悟したとの伝説はおますけど。
約4kmぐらい南に在る、あびこ観音の本堂の下に隠れたとか。
(眞田十勇士 安居神社社務所にて)
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色んな大坂夏の陣の記録を読んで見ると~
実態は毛利勝永の軍勢が本多忠朝の部隊を壊滅させて続く
二番手の小笠原秀政の軍や榊原隊をも突破したので。
徳川方の旗本や主力勢が毛利勝永隊への応戦に向かった隙を突いて
眞田幸村隊は浅野勢が寝返ったぞと叫びながら迫ったそうです。
この毛利勝永という方はお父さんが豊前小倉城主14万石で
関ヶ原の戦いで西軍に付いた為に没落、毛利勝永も伏見城などで
徳川方に参戦したので土佐の山内家へ親子で蟄居さされました。
毛利と云う家名は太閤秀吉の命令で中国地方の名家を称する事を
受けて元は森勝信・勝永だったのを毛利に変えたそうですね。
(眞田幸村 終焉の地)
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ここは奈良街道に面する少彦名神(すくなびこなのかみ)と
菅原道真公をお祀りする安居神社又は安居天神と云いますんや。
眞田幸村は徳川家康公を追って深入りしたが流石に徳川方は
大軍でっしゃろ態勢を整えて眞田幸村隊を包囲してせん滅。
眞田幸村はかろうじてこの安居神社の境内に逃げ込んだとか。
(眞田幸村の銅像)
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戦いに疲れ果て境内の松の木を背に座っていたんだそうな。
三光神社に在った凛々しい眞田幸村の銅像とは随分と違いまっしゃろ。
ここで眞田幸村を探索して現れたのが越前の松平忠直の鉄砲組頭で
西尾仁左衛門宗次という大物の武将でおました。
(眞田幸村戦死跡之碑) (安居神社 境内)
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眞田幸村はこの地で無様な姿で討ち死はしたくなかったようでんな。
「われの首を討って そちの巧名にせよ」
豊臣秀頼公から拝領した采配を添えて首を与えたんだって。
この西尾仁左衛門宗次という武将は真面目なお方だったようで
正直に眞田幸村の最期を殿さまの松平忠直に申し出たそうですわ。
だから戦って討ち取った首じゃないとの理由で恩賞は僅かだったとか。
彼は故郷の越前に戻ってから「眞田地蔵」を領地内に建立して
眞田幸村の菩提を死ぬまで弔ったと伝えられてまっせ。
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もう一方の毛利勝永は現在のあべのハルカス辺りで眞田幸村隊の
敗退を見て部隊をまとめて、追撃を阻みながら大坂城へ戻ったとか。
後に豊臣秀頼公の自刃を見届けてから、自身も自刃したとの説。
軍を統率して戦いをした点を眞田幸村と比較したら最後まで崩れず
将としての器は毛利勝永の方が優れていたと思いますんや。
でも世の中は眞田幸村を褒め称えて江戸時代になっても眞田幸村の
戦記物は徳川幕府も禁書にせず庶民に読まれたようでんな。
(大阪城内 幸村桜) (信州上田市から寄贈)
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大阪城と信州の上田城は眞田幸村の取り持つ縁で友好城郭の
お付き合いをする仲なんだそうでっせ。
この桜はその記念に上田市から寄贈された物なんだって。
最後に眞田幸村の三女が大坂夏の陣の後に探し出されて
あの誉田八幡宮で対戦した伊達政宗の重臣で白石城主になった
片倉小十郎重長の妻(後室)におさまってはりまっせ。
その三女 阿梅の弟で眞田幸村の次男坊・大八が後に
仙台眞田家を起こしているのは異例なことですわ。
長男の眞田大助は大坂城内で戦死したと伝わってますけど。
だから眞田幸村と云うお方は徳川時代になっても武士の鑑として
あの伊達政宗すら了承したとは歴史の面白い処でもおますな。
蛇足ながら仙台眞田家は現在も続いているとの事でっせ。
ほんなら~ 今日はこれでお仕舞い さいなら~♪
丁度、400年前のお話しになりまんな。
眞田幸村さん大坂夏の陣での活躍を辿ってみまひょ。
豊臣方は京都から生駒山沿いに南下する徳川方の本隊を
木村重成と長宗我部盛親が東大阪の横合いから攻撃する。
一方で大和から進出する徳川の別働隊を河内平野への
出口で補足するのに後藤又兵衛や眞田幸村と毛利勝永の
主力軍で約18000人を差し向けましたんや。
大坂冬の陣の和睦で大坂城の外堀から内堀まで徳川方の
謀略で埋められて仕舞い裸城になってましたんですわ。
城に籠って敵の攻撃を受けたんじゃ勝ち目はおまへんがな。
これじゃ出向いて野戦を仕掛けるより策がないとの結論。
(後藤又兵衛=基次 家紋の幟)
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5月4日は平野郷で1泊し早朝から藤井寺の道明寺村へ
そこで先発の後藤又兵衛が指揮する約2800人は
夕方には道明寺村に布陣したようでんな。
後藤又兵衛の考えた作戦は現在の大阪府柏原市の国分町辺りの
高地に登り眼下の奈良街道を通る敵を襲撃するんだったとか。
そんな計画で後藤又兵衛は国分村に進出しようとしたら
敵は既に亀の瀬を超えて国分村にまで出てきてたんですわ。
このまま河内の平野に敵を入れては勝ち目がないと考えた
後藤又兵衛は自分の軍勢を国分村の西側にある小松山に
5月5日の夕暮から登らせましたんや。
第二陣が到着するまで小松山で持ち応えようとの作戦でんな。
(小松山を 道明寺側から撮影) (大阪府柏原市片山町)
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小松山は大坂の河内平野へ出てくる最後の丘陵地帯でおます。
北側を大和川の本流が流れ西側を大きな支流である石川が
小松山の北西の麓で合流して大坂城へ向けて流れ下る
そんな地形で此処を渡河されたら後は防御が難しいんですわ。
徳川方は松平忠輝を総大将に約35000人の大軍でっせ。
徳川方は5月6日の夜半から水野勝成・本多忠政・松倉重政他が
三方から後藤又兵衛を攻撃するも奥田忠次などの戦死者を出し
小松山を攻略するのに太陽が昇った後も苦戦したんだって。
本来は眞田幸村・毛利勝永の第二陣が到着すべきなのに
この日は早朝から霧が深くて間に合わなかったとの記録。
さすがの後藤又兵衛の部隊も早朝から徳川方の大軍を引き受け
昼前には小松山から石川の川原に押し戻されてしまったとか。
後藤又兵衛は一部の兵を道明寺方面へ逃がした後に部下と共に
敵軍に突入し鉄砲の銃弾を胸に受け戦死したとされています。
5月6日のお昼前になり豊臣方の第二陣が到着し石川を挟んで
両軍が入り乱れての混戦に成ったんだそうな。
(伊達政宗 家紋の幟)
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(徳川方が渡河した 石川と道明寺川原)
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徳川方も第二陣の伊達政宗の指揮する約1万人の軍勢を小松山の
南側に展開し石川を渡る作戦を始めたんだって。
バラバラに到着した豊臣方は道明寺村で薄田隼人が戦死し次第に
押される展開になり、これで勝負は決したとも考えたとか。
伊達政宗軍の先鋒は片倉小十郎重長の率いる騎馬鉄砲隊。
一気に誉田八幡宮の眞田幸村軍に押しかけようとしたんだって。
(真田幸村 家紋の幟)
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(真田幸村が布陣した 誉田八幡宮の拝殿)
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ここで我らの眞田幸村率いる鉄砲隊の登場でっせ。
眞田幸村は騎馬で押し掛ける伊達勢を50mまで引きつけ
味方の鉄砲隊を全て伏せて待ち構えていたんだって。
当時の鉄砲はそれぐらいの距離でないと敵に
致命傷を与える事が出来ないそうだっせ。
そこで一斉射撃して伊達勢の前進を止めて逆に道明寺村の
方向へ押し返して反撃を開始したと記録されてまぁ。
伊達政宗軍も主力部隊で応戦し両軍は睨み合いになったとか。
午後2時頃になり東大阪方面で徳川本隊と合戦した木村重成が
戦死し豊臣方は破れて大坂城へ引き揚げるとの情報。
徳川家康の本隊が北側から迫れば豊臣方は圧倒されまんがな。
眞田幸村は後藤又兵衛を戦死させたことに責任を感じて
ここで討ち死も考えたが毛利勝永に説得されて共に
大坂城へ撤退する道を選んだとの事。
徳川方では水野勝成や本多忠政らが追撃を主張したが
伊達政宗が早朝からの戦いで我が軍は被害が多くて
今からの追撃なんて出来ないと発言したとか。
それで最後の決戦は翌日5月7日に決まり徳川方は
進軍を止めたとか、眞田幸村隊や毛利勝永隊もこの日は
平野郷を通って天王寺方面へ撤収したようでんな。
(眞田幸村の本陣 茶臼山古墳)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
当時の大坂城は東側には大和川が北側には淀川が流れ
天然の要害に成って居て大坂冬の陣でも徳川方の大軍を
もってしても大坂城を攻め落とせなかったんでっせ。
真田丸で大坂冬の陣を戦った眞田幸村も今回はもっと
上町台地を南へ向かった茶臼山古墳に陣取った訳でんな。
(浄土宗 一心寺 本堂)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
茶臼山古墳はそんな大きな軍勢を置ける場所じゃおまへん。
おそらく~ 北側に在る一心寺が本営だったと考えられまぁ。
ここは大坂冬の陣では徳川家康公が本陣を置いた場所。
今回は攻守が入れ替わって眞田幸村が陣を構えたんですわ。
大阪では納骨された遺骨で10年に一体の仏様を作り
お骨仏の寺として現在も有名なお寺でっせ。
宗派は違いまっけど鉄ちゃん爺やの両親も別々の
お骨仏になってここに祀られてますんや。
(毛利勝永の本陣 四天王寺の南大門)
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この画像は西大門でっけど毛利勝永隊は南大門を中心に
四天王寺を挟んで上町台地のこの付近で一番高い地点に
陣取って南側から迫って来る徳川方に備えたそうですわ。
現在でも谷町筋からあべの筋へと幹線道路が大坂城から
南へ緩やかに下りながら堺市まで続いてますんや。
当時はおそらく熊野街道だったと考えますんやけど。
この幹線道路を挟んで眞田幸村隊と毛利勝永隊が最後の
決戦をする為に備えていたようですわ。
眞田幸村と毛利勝永は徳川方を引き付けるだけ引き付け
時期を見て徳川家康の本陣を一気に襲うと決めたんだって。
(大坂夏の陣図屏風) (重要文化財のコピー)
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中央やや右側に四天王寺の鳥居が描かれてまっしゃろ。
その鳥居を挟んで下に眞田幸村隊が反対の上には
毛利勝永隊が徳川方に攻め寄せているのが描かれてまぁ。
この大坂夏の陣図屏風は「黒田屏風」とも呼ばれまして
黒田長政が戦後に一流の絵師に描かせた物だそうです。
本物は大阪城の天守閣内に飾られているはずでっせ。
豊臣時代の大坂城はこの「黒田屏風」が唯一だとか。
だから昭和の大阪城天守閣を再建する際にも参考にしたようで
今となっては貴重な重要文化財となってますんや。
(本多出雲守忠朝のお墓)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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この方は徳川家康公の四天王の一人で本多平八郎忠勝の次男で
大坂夏の陣で徳川方の大名として唯一戦死された武将なんですよ。
なんでも前夜に深酒で大事な戦いに遅れて徳川家康公から
「親に似ぬせがれめ~」と譴責されたのを恥じて
天王寺口での決戦では先鋒を努めて戦死されましたんや。
現在は一心寺というお寺の境内で「断酒の神様」として
酒乱で苦しむ方には霊験あらたかなお墓なんだって。
(本多出雲守忠朝のお墓に 断酒願いのしゃもじ)
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皆さまは眞田幸村がこの戦いで松平忠直の軍勢を蹴散らし
徳川家康の本陣に迫り馬印が倒れて旗本や家康公自身が
半里(約2km)~1里も逃げたとの伝説をご存知でっしゃろ。
眞田幸村伝説が生まれた戦いでっけど真実は少し?
確かに眞田幸村隊は松平忠直隊と衝突しこれを突破したけど
相手は大坂城へ一番乗りを狙ったの、ですれ違ったような感じ。
確かに徳川家康公は一時は戦死も覚悟したとの伝説はおますけど。
約4kmぐらい南に在る、あびこ観音の本堂の下に隠れたとか。
(眞田十勇士 安居神社社務所にて)
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色んな大坂夏の陣の記録を読んで見ると~
実態は毛利勝永の軍勢が本多忠朝の部隊を壊滅させて続く
二番手の小笠原秀政の軍や榊原隊をも突破したので。
徳川方の旗本や主力勢が毛利勝永隊への応戦に向かった隙を突いて
眞田幸村隊は浅野勢が寝返ったぞと叫びながら迫ったそうです。
この毛利勝永という方はお父さんが豊前小倉城主14万石で
関ヶ原の戦いで西軍に付いた為に没落、毛利勝永も伏見城などで
徳川方に参戦したので土佐の山内家へ親子で蟄居さされました。
毛利と云う家名は太閤秀吉の命令で中国地方の名家を称する事を
受けて元は森勝信・勝永だったのを毛利に変えたそうですね。
(眞田幸村 終焉の地)
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ここは奈良街道に面する少彦名神(すくなびこなのかみ)と
菅原道真公をお祀りする安居神社又は安居天神と云いますんや。
眞田幸村は徳川家康公を追って深入りしたが流石に徳川方は
大軍でっしゃろ態勢を整えて眞田幸村隊を包囲してせん滅。
眞田幸村はかろうじてこの安居神社の境内に逃げ込んだとか。
(眞田幸村の銅像)
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戦いに疲れ果て境内の松の木を背に座っていたんだそうな。
三光神社に在った凛々しい眞田幸村の銅像とは随分と違いまっしゃろ。
ここで眞田幸村を探索して現れたのが越前の松平忠直の鉄砲組頭で
西尾仁左衛門宗次という大物の武将でおました。
(眞田幸村戦死跡之碑) (安居神社 境内)
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眞田幸村はこの地で無様な姿で討ち死はしたくなかったようでんな。
「われの首を討って そちの巧名にせよ」
豊臣秀頼公から拝領した采配を添えて首を与えたんだって。
この西尾仁左衛門宗次という武将は真面目なお方だったようで
正直に眞田幸村の最期を殿さまの松平忠直に申し出たそうですわ。
だから戦って討ち取った首じゃないとの理由で恩賞は僅かだったとか。
彼は故郷の越前に戻ってから「眞田地蔵」を領地内に建立して
眞田幸村の菩提を死ぬまで弔ったと伝えられてまっせ。
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もう一方の毛利勝永は現在のあべのハルカス辺りで眞田幸村隊の
敗退を見て部隊をまとめて、追撃を阻みながら大坂城へ戻ったとか。
後に豊臣秀頼公の自刃を見届けてから、自身も自刃したとの説。
軍を統率して戦いをした点を眞田幸村と比較したら最後まで崩れず
将としての器は毛利勝永の方が優れていたと思いますんや。
でも世の中は眞田幸村を褒め称えて江戸時代になっても眞田幸村の
戦記物は徳川幕府も禁書にせず庶民に読まれたようでんな。
(大阪城内 幸村桜) (信州上田市から寄贈)
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大阪城と信州の上田城は眞田幸村の取り持つ縁で友好城郭の
お付き合いをする仲なんだそうでっせ。
この桜はその記念に上田市から寄贈された物なんだって。
最後に眞田幸村の三女が大坂夏の陣の後に探し出されて
あの誉田八幡宮で対戦した伊達政宗の重臣で白石城主になった
片倉小十郎重長の妻(後室)におさまってはりまっせ。
その三女 阿梅の弟で眞田幸村の次男坊・大八が後に
仙台眞田家を起こしているのは異例なことですわ。
長男の眞田大助は大坂城内で戦死したと伝わってますけど。
だから眞田幸村と云うお方は徳川時代になっても武士の鑑として
あの伊達政宗すら了承したとは歴史の面白い処でもおますな。
蛇足ながら仙台眞田家は現在も続いているとの事でっせ。
ほんなら~ 今日はこれでお仕舞い さいなら~♪