USBメモリーから10年前の古い画像を復元しまひょ。
鉄ちゃん爺やの想い出フォトでもおますんや。
今回はJRの現役で使用されている最古の駅舎を二つ。
実は鉄道マニア仲間でも意見が二つに分かれるんですわ。
(JR武豊線 亀崎駅舎) (2010年10月撮影)
1886年(明治19年)に官設鉄道として開業した時の
駅舎だという説があるので事実なら現役の駅舎としては最古に。
撮影してから、もう10年が過ぎてしまったんでんな。
鉄ちゃん爺やが保存する駅舎の中で自慢できる画像かも?
(愛知県半田市の マンホールの蓋) (2010年10月撮影)
現在のJR武豊線はJR東海道本線の大府駅から分岐し
半田市の南側に隣接する愛知県知多郡の武豊町まで
知多半島の東側を走るJRのローカル線なんですよ。
JR名古屋駅から直通の電車が一部ながら乗り入れも。
明治10年代後半に半田港(現在の武豊港)に資材を陸揚げし
官設鉄道として武豊駅~熱田駅までが施設されたんでっせ。
当時は中山道線という官設鉄道を計画したるも峻険な信州の山岳や
木曽谷の為に、現在の東海道本線を優先することに変わったとか。
当初は海上から艦砲射撃で鉄道を破壊されることを恐れたのかも。
(JR亀崎駅 駅名標) (2010年10月撮影)
1889年(明治22年)に武豊駅から長浜駅を経由して福井県の
敦賀港までが開通し、日本海に達する官設鉄道が出来ましたんや。
当時は軍事的にも日本海に抜ける鉄道が重視されたんでっせ。
東海道本線が関ヶ原駅から大津市の馬場駅で全線が開通したのが
その半年後だったと記録されているようでっけど。
その後、東海道本線が開通し大府駅から先が切り離されて
現在のJR武豊線になってしまったという経緯がおますんや。
この亀崎駅舎は明治の28年頃に一度だけ焼失したとの記録が。
別の記事では焼けたのは亀崎駅の鉄道官舎だったとの説も。
半田市の郷土史にも正確な資料がなく、現在では最古の駅舎は
JR武豊線の亀崎駅だとの説も、否定はされてないようでんな。
(JR亀崎駅構内の 建物資産標)(M19=明治19年)
(JR亀崎駅構内 建物資産標を拡大)
証明には成らないものの、JR東海でも明治19年1月に竣工した
開業時の駅舎だとの説を取っているようでんな。
証拠がないので登録文化財には指定されてはいない感じ。
(JR亀崎駅舎を 裏手から撮影) (2010年10月撮影)
何度か外観は修復されているように感じますが日本最古の駅舎として
鉄道マニアには知られた駅舎の一つに成っているんでっせ。
息子の住む岡崎市に立ち寄った際に訪れたんだったかな。
(終点の JR武豊駅舎) (2010年10月撮影)
こちらは愛知県知多郡武豊町(たけとよちょう)に成りまんねん。
中央競馬の武豊(たけゆたか)さんと同じ漢字になるんだとかで
平成の時代に2度ばかり一日町長をされたとか聞いてまっけど。
彼は滋賀県の栗東市の生まれ武豊町とは直接の繋がりはおまへん。
(JR武豊線 キハ75系 気動車) (2010年10月撮影)
当時は電化されて無かったのでディゼルカーが運用されてました。
現在は電化されて東海道本線と同じ車両が使われているはず。
このキハ75系の気動車も現在ではJR高山線やJR紀勢線で
最後のご奉公をしているんだろうなと考えまぁ。
JR武豊駅の話が長くなりましたが、8年前に訪れた
四国のJR善通寺駅舎の方に話を移しまひょ。
(JR土讃線 善通寺駅舎) (2013年10月撮影)
こちらは1889年(明治22年)3月30日に竣工したとの
記録が当時の国鉄や市役所に残っされているとか。
入口部分を「車寄せ」と呼ぶんでっけど1922年(大正11年)
陸軍大演習に来られる皇太子(後の昭和天皇)の行啓(ぎょうけい)に
伴って増設されたとの記録が残っているんだって。
何度か修復はされているようだが駅舎の本体部分は紛れもなく
明治22年の建造物で、国の登録文化財にも指定されてまぁ。
もしJR亀崎駅舎が焼けていたとすれば、こちらが現役での
最古の駅舎になると鉄道マニアの意見もおますんや。
(善通寺駅前の 大通りを撮影) (2013年10月撮影)
善通寺と言えば弘法大師がお生まれになった街として、加えて
真言宗の三大霊場の一つである善通寺も紹介しておきまひょ。
こちらの方が四国八十八か所巡りなどの影響もあって有名かも?
(真言宗総本山 善通寺 本堂) (2013年10月撮影)
(真言宗 善通寺の五重塔) (2013年10月撮影)
真言宗の三大霊場とは和歌山県の高野山に京都市内の東寺さん
加えて四国の善通寺さんを合わせて言うんだとか。
別に真義真言宗という別の宗派もおますので参考のため。
(香川県善通寺市の マンホールの蓋) (2013年10月撮影)
四国の善通寺市には戦前まで陸軍の第11師団が置かれ四国四県に
おのおの連隊が在るものの、師団の司令部は善通寺に存在したとか。
初代の師団長が有名な乃木将軍で当時は陸軍中将で赴任されたはず。
特に善通寺市内には旧の陸軍第11師団の施設が多く残されて居る
且つ、現在も使用されているという珍しい状況なんだって。
(善通寺市 偕行社) (2013年10月撮影)
偕行社とは陸軍の将校さん以上しか利用ができない施設でっせ。
この偕行社の車寄せも1922年(大正11年)の陸軍大演習に
皇太子(後の昭和天皇)をお迎えする際に増設されたんだとか。
偕行社の室内の写真も紹介しておきまひょ。
(善通寺市 偕行社の室内) (2013年10月撮影)
(善通寺市 旧陸軍第11師団兵器庫) (2013年10月撮影)
遠くに善通寺の五重塔が見えてまっしゃろ。
大本山の宗教施設と四国有数の軍事拠点が同居する
珍しい街が香川県の善通寺市なのかも知れまへんな。
この赤レンガの兵器庫は現在も使用されているようでっせ。
明治38年~明治44年頃に建てられた施設だとのこと。
(自衛隊 善通寺駐屯地) (2013年10月撮影)
現在も自衛隊の四国4県で中心的な旅団司令部が存在するとか。
写真を撮っていたら衛兵の方が、こちらへ近づいてきましたので
急いで立ち去りました、やはり撮影は禁止の軍事機密でっかな?
新しいPCで思い出の画像を復元しブログに載せることに成功!
どうもバックアップを忘れていた平成28年~令和元年ごろの
画像がSDカードに残っているか現在は確認中なんですけど。
本日はこれにてお仕舞にしまひょ、ほな~ さいなら~♪
鉄ちゃん爺やの想い出フォトでもおますんや。
今回はJRの現役で使用されている最古の駅舎を二つ。
実は鉄道マニア仲間でも意見が二つに分かれるんですわ。
(JR武豊線 亀崎駅舎) (2010年10月撮影)
1886年(明治19年)に官設鉄道として開業した時の
駅舎だという説があるので事実なら現役の駅舎としては最古に。
撮影してから、もう10年が過ぎてしまったんでんな。
鉄ちゃん爺やが保存する駅舎の中で自慢できる画像かも?
(愛知県半田市の マンホールの蓋) (2010年10月撮影)
現在のJR武豊線はJR東海道本線の大府駅から分岐し
半田市の南側に隣接する愛知県知多郡の武豊町まで
知多半島の東側を走るJRのローカル線なんですよ。
JR名古屋駅から直通の電車が一部ながら乗り入れも。
明治10年代後半に半田港(現在の武豊港)に資材を陸揚げし
官設鉄道として武豊駅~熱田駅までが施設されたんでっせ。
当時は中山道線という官設鉄道を計画したるも峻険な信州の山岳や
木曽谷の為に、現在の東海道本線を優先することに変わったとか。
当初は海上から艦砲射撃で鉄道を破壊されることを恐れたのかも。
(JR亀崎駅 駅名標) (2010年10月撮影)
1889年(明治22年)に武豊駅から長浜駅を経由して福井県の
敦賀港までが開通し、日本海に達する官設鉄道が出来ましたんや。
当時は軍事的にも日本海に抜ける鉄道が重視されたんでっせ。
東海道本線が関ヶ原駅から大津市の馬場駅で全線が開通したのが
その半年後だったと記録されているようでっけど。
その後、東海道本線が開通し大府駅から先が切り離されて
現在のJR武豊線になってしまったという経緯がおますんや。
この亀崎駅舎は明治の28年頃に一度だけ焼失したとの記録が。
別の記事では焼けたのは亀崎駅の鉄道官舎だったとの説も。
半田市の郷土史にも正確な資料がなく、現在では最古の駅舎は
JR武豊線の亀崎駅だとの説も、否定はされてないようでんな。
(JR亀崎駅構内の 建物資産標)(M19=明治19年)
(JR亀崎駅構内 建物資産標を拡大)
証明には成らないものの、JR東海でも明治19年1月に竣工した
開業時の駅舎だとの説を取っているようでんな。
証拠がないので登録文化財には指定されてはいない感じ。
(JR亀崎駅舎を 裏手から撮影) (2010年10月撮影)
何度か外観は修復されているように感じますが日本最古の駅舎として
鉄道マニアには知られた駅舎の一つに成っているんでっせ。
息子の住む岡崎市に立ち寄った際に訪れたんだったかな。
(終点の JR武豊駅舎) (2010年10月撮影)
こちらは愛知県知多郡武豊町(たけとよちょう)に成りまんねん。
中央競馬の武豊(たけゆたか)さんと同じ漢字になるんだとかで
平成の時代に2度ばかり一日町長をされたとか聞いてまっけど。
彼は滋賀県の栗東市の生まれ武豊町とは直接の繋がりはおまへん。
(JR武豊線 キハ75系 気動車) (2010年10月撮影)
当時は電化されて無かったのでディゼルカーが運用されてました。
現在は電化されて東海道本線と同じ車両が使われているはず。
このキハ75系の気動車も現在ではJR高山線やJR紀勢線で
最後のご奉公をしているんだろうなと考えまぁ。
JR武豊駅の話が長くなりましたが、8年前に訪れた
四国のJR善通寺駅舎の方に話を移しまひょ。
(JR土讃線 善通寺駅舎) (2013年10月撮影)
こちらは1889年(明治22年)3月30日に竣工したとの
記録が当時の国鉄や市役所に残っされているとか。
入口部分を「車寄せ」と呼ぶんでっけど1922年(大正11年)
陸軍大演習に来られる皇太子(後の昭和天皇)の行啓(ぎょうけい)に
伴って増設されたとの記録が残っているんだって。
何度か修復はされているようだが駅舎の本体部分は紛れもなく
明治22年の建造物で、国の登録文化財にも指定されてまぁ。
もしJR亀崎駅舎が焼けていたとすれば、こちらが現役での
最古の駅舎になると鉄道マニアの意見もおますんや。
(善通寺駅前の 大通りを撮影) (2013年10月撮影)
善通寺と言えば弘法大師がお生まれになった街として、加えて
真言宗の三大霊場の一つである善通寺も紹介しておきまひょ。
こちらの方が四国八十八か所巡りなどの影響もあって有名かも?
(真言宗総本山 善通寺 本堂) (2013年10月撮影)
(真言宗 善通寺の五重塔) (2013年10月撮影)
真言宗の三大霊場とは和歌山県の高野山に京都市内の東寺さん
加えて四国の善通寺さんを合わせて言うんだとか。
別に真義真言宗という別の宗派もおますので参考のため。
(香川県善通寺市の マンホールの蓋) (2013年10月撮影)
四国の善通寺市には戦前まで陸軍の第11師団が置かれ四国四県に
おのおの連隊が在るものの、師団の司令部は善通寺に存在したとか。
初代の師団長が有名な乃木将軍で当時は陸軍中将で赴任されたはず。
特に善通寺市内には旧の陸軍第11師団の施設が多く残されて居る
且つ、現在も使用されているという珍しい状況なんだって。
(善通寺市 偕行社) (2013年10月撮影)
偕行社とは陸軍の将校さん以上しか利用ができない施設でっせ。
この偕行社の車寄せも1922年(大正11年)の陸軍大演習に
皇太子(後の昭和天皇)をお迎えする際に増設されたんだとか。
偕行社の室内の写真も紹介しておきまひょ。
(善通寺市 偕行社の室内) (2013年10月撮影)
(善通寺市 旧陸軍第11師団兵器庫) (2013年10月撮影)
遠くに善通寺の五重塔が見えてまっしゃろ。
大本山の宗教施設と四国有数の軍事拠点が同居する
珍しい街が香川県の善通寺市なのかも知れまへんな。
この赤レンガの兵器庫は現在も使用されているようでっせ。
明治38年~明治44年頃に建てられた施設だとのこと。
(自衛隊 善通寺駐屯地) (2013年10月撮影)
現在も自衛隊の四国4県で中心的な旅団司令部が存在するとか。
写真を撮っていたら衛兵の方が、こちらへ近づいてきましたので
急いで立ち去りました、やはり撮影は禁止の軍事機密でっかな?
新しいPCで思い出の画像を復元しブログに載せることに成功!
どうもバックアップを忘れていた平成28年~令和元年ごろの
画像がSDカードに残っているか現在は確認中なんですけど。
本日はこれにてお仕舞にしまひょ、ほな~ さいなら~♪
嬉しくなりますね。
それも自分が使用して居る間のことですが・・・
使わなくなったら、何のよ役にも経ちませんね。
それにしても撮った日付は意外に新しいのですね。
剣道四段だった甥っ子が卒業する時に、警察に就職しようか迷って居る時に相談してきて、
進めましたが、
ぐんぐん出世して半田警察署長をしていました。
今では何がどこにあるのか分からない状態です
やっと自分では「顔」に見える物を探して
ブログに出してみました。
長男は、陸自でした。
此処善通寺で入隊したので、サメ氏と入隊式に参列したんですよ。
レンガ造りの建物も見ました。
呉の海軍ともちょっと似ています。
善通寺にも行きましたよ。
戒壇巡りも、人生初、此処でしました。
長男は、その後、偵察隊となり、御殿場から春日井に行きました。
そして、出世して?部下を持つことが厭だと辞めました。
全ての訓練を終えたあとに・・・
もう、昔の話です。
ところで、松本駅の古い駅舎の写真をお持ちではありませんか。
40年ほど前まではたしか、木造の黒っぽい駅舎だったように思いますが。
今は近代的なビルの中の駅舎となり、とてもつまらない駅舎になり好きではありません。
超、便利にはなりましたが・・・・・・
JRもこれだけ通勤客も減る、観光客も減る、人の動きが減ったら苦しいから、廃線にしたい路線だらけでしょうねぇ。
鉄道会社は、今後どうなっていくのでしょうか?
どうも平成29年~令和元年ぐらいの
画像がバックアップできてないようです。
やはり手抜きせずにバックアップを取ることをしなければと反省しています。
有りませんが画像などは
何時でもできるとバックアップを手抜きしたのが反省の気持ちでしたね。
善通寺市ですよね。
私は10年前の一度だけしか訪れてませんが
落ち付いた魅力のある街だと思いました。
そのようなコメントを頂いたのを思い出しましたよ。
あの偕行社には私の実父がまだ少尉に任官した直後に連隊長のお供で
訪れたことがあると聞きました。