世の中には、いろんなアイデアを持つ人がいて、それを売り込むためには、手を変え品を変えてセールスに乗り出すわけです。そして、一番為政者に耳触りのいいアイデアが採用され、結果として人々はそのアイデアに振り回されることになっていきます。
為政者は、基本的には人々のことなんかは考えない。人々がどう思うかよりも、自分のやりたいことや今政治的にどんなことが望まれているか、人というよりも世の中を相手にしていると言った方がいいのかもしれない。
とにかく、自分がいかに立派であったか、名前と実績を残そうと躍起になるのです。特に政権末期はそうなるようです。必死になってジタバタして後世への置き土産を残したと満足して政権を手放したい。
やがては世代交代をして、後の世の為政者は、たいてい、前の時代の否定・清算をして(そうするとさらに支持率がアップするみたいで、人々って当てにならないのです)、自分の時代を開こうとする。何度もスクラップ・アンド・ビルドが繰り返されていくのです。無駄みたいだけど、政治というのはそういうものなのかもしれない。いや、そうでないと動けないのかもしれません。何度も何度も堂々巡りをしながら進んでいくのでしょう。
何度も何度も、刷新・リフレッシュ繰り返され、同じことがめぐっていく。まるで人間って進歩がないようです。でも、少しずつはよくなっているのだと思わないことには、とてもやってられないし、少しはよくなっているんでしょう。
人々も同じようでいながら、ころころ時代に合わせて変わっていくし、前の時代には平気だったことが、次の時代には耐えられないことになったり、受け止める方も変わるんでしょうね。
変わらないのは、為政者は自分のことを考え、人々も自分の生活を考えている。お互いが別のことを考えていて、意見が一致するということはなく、お互いがあまり影響されないで、最低限のつながりであればいいと思っていることでしょう。
人々が熱狂的に王様を支持するなんて、そんなのはあり得ない絵空事です。
『史記』の商君列伝(ちくま文庫)から、商鞅(しょうおう、BC390~BC338)の人生をたどろうとしています。
商鞅さんは、戦国時代の秦の政治家・将軍・法家・兵家でした。肩書はたくさんありますね。姓は姫、氏は公孫。名は鞅でした。また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)ともいうそうです。名前もたくさんあります。
商鞅(しょうおう)というのは、後に秦の商・於に封じられたために、商君鞅という意味の尊称で、これが歴史的な扱いとなりました。人生最後の肩書きがそのまま続いていくようです。
彼は法家思想(法による統治)を基本として秦の国政改革を進めて、後の秦の天下統一の礎を築きました。けれども、やがては周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵したものの、秦軍に攻められ戦死しました。
彼がまだ魏の国にいたころの話です。魏の恵王さんが即位にいたるまでに、趙や斉の介入を許したり、秦・宋・韓などとも争いが絶えず、国力を伸張させることはおぼつかない状況であったそうです。
それでも、即位した王様は意欲満々です。そこで、公族でなおかつ宰相・公叔痤(こうしゅくざ)さんが臨終の間際に王様に言います。
「私が亡くなった後に、食客の公孫鞅(こうそんおう)を宰相としてください。必ずや魏を強大な国にしてくれるでしょう。
もし、この提案を採り入れてくださらない場合は、すぐにも公孫鞅を殺害してください。もし他国がこの男を登用してしまえば、魏にとって大いなる脅威となり、取り返しがつきませんから。どうぞ、お願いします。」と遺言したそうです。
恵王はどうしたでしょう?
恵王は、公叔痤が耄碌(もうろく)してしまって、人を見る目もなくして、とうとうこんな世迷いごとを言っているのだと思ったそうです。公叔痤さんの提案は聞き入れられず、公孫鞅さんは登用も誅殺もされなかったのでした。
恵王さんにその気がないと感じた公叔痤さんは、すぐに公孫鞅さんを呼び出して、王様に君を推薦したが、全く王は取り合う様子がなかった。だから、君はどこか違う所で自分の才能を生かしなさいと提案してくれて、師匠の言葉を有り難いものと感じ、公孫鞅さんは秦の国へ行くことになりました。そこが彼の新天地でした。
秦の孝公さんに見出されて宰相となると、秦の国政を大改革して瞬く間に強国にすることに成功する。この功績により、公孫鞅さんは商の地に封じられて商鞅と呼ばれることになるのでした。強国となった秦の度々の侵攻により、魏は徐々に領土を削られてゆきます。予言通りになってしまいますが、今さら後悔してももう遅かった。
紀元前341年、馬陵の戦いにおいて魏軍は田忌・孫臏の率いる斉軍に敗れ、嫡子の上将軍の太子申が捕えられるという惨敗を喫します。
それを好機と捉えた秦の商鞅さんが、その翌年の紀元前340年にすかさず西から侵攻し、商鞅さんと親交があった総大将の公子卬さん(恵王の異母弟?)を欺き、これを捕虜として大勝したために、魏は都を安邑から、東方の大梁(現在の開封)に遷さなければならないほど追い込まれていきます。
これ以降、魏は梁とも呼ばれるようになります。かくして失意の中にいた恵王は溺愛した太子申の同母弟の公子赫を世子に定めます。それと同時に恵王は、
「あの時に私が公叔痤の言葉を聴いて、公孫鞅とやらを処刑すればこんなことにならなんだのに…」と洩らして、商鞅を殺さなかったことを大いに悔いたということです。
まあ、パターン通りの後悔をして、苦汁を飲まされたことになります。でも、すべて身から出た錆、というのか、自分が招いた失敗・敗北ではありました。
「確信のない行為は、名誉とならず、確信のない事業は、功績となりません。それにまた、常人より優れた行いのある者は、とかく、世間にけなされ、独特の思慮ある者は、かならず民にそしられるものです。
愚者は事の成果さえわかりませんが、智者は、まだきざしもないうちにわかります。
だから人民は、事の初めに意見を聞くべきものではなく、成功してから、楽しみを共にすべきものであります。
至徳を論ずる者は、俗説にこびず、大功を成す者は、衆人にはかりません。聖王は、いやしくも国を強くすることができるなら、かならずしも先例にのっとらず、いやしくも民を益することができるなら、かならずしも礼制に従わないのであります。」
愚者は事の成果さえわかりませんが、智者は、まだきざしもないうちにわかります。
だから人民は、事の初めに意見を聞くべきものではなく、成功してから、楽しみを共にすべきものであります。
至徳を論ずる者は、俗説にこびず、大功を成す者は、衆人にはかりません。聖王は、いやしくも国を強くすることができるなら、かならずしも先例にのっとらず、いやしくも民を益することができるなら、かならずしも礼制に従わないのであります。」
これらは、公孫鞅さんが秦の王様に新しい政策を推し進める時に、提案した内容になっています。こんなふうに話されたら、王としても動かざるを得なかったように思われます。