干刈あがたさんは1943年生まれ。うちのオカンと4つしか年は違いません。加藤登紀子さんも同い年だそうで、一度あがたさん原作のドラマに出たら、なんと原作は知り合いの奥さんだと知ってから、電話ががかって来たとか、そんなことも書いてありました。
うちのオカンくらいの女性なんですね。でも、二十何年前に亡くなっておられます。ああ、あがたさん、私はうかつにも知らんぷりをしていました。本当に申し訳ないです。
あがたさんの1987年のエッセイ集「おんなコドモの風景」から、あがたさんが時代とどんなふうに向き合ってきたのか、それを振り返ってみて、インタビューワーの大学生に語っている記事から抜き出してみます。
私たちの高校時代は60年安保に重なり、二十代は高度経済成長期をひたすらつっ走った。三十代はと言うと68年頃からの学生運動がぱたっと止んで、世の中の価値観が大きく変動していく時期だった……。
そして四十代、この80年の混沌とした中で、価値の解体を目の当たりにしている。いわば世の中の戦後史と自分史が重なっている世代でしょうね。私たちはその道の途上では、ただがむしゃらにやるだけで、立ち止まっていろいろなことをゆっくり考える余裕はなかった。
そして四十代、この80年の混沌とした中で、価値の解体を目の当たりにしている。いわば世の中の戦後史と自分史が重なっている世代でしょうね。私たちはその道の途上では、ただがむしゃらにやるだけで、立ち止まっていろいろなことをゆっくり考える余裕はなかった。
先輩たち、そんなふうに過ごして来たみたいです。何だか、あがたさんの話ではなくて、うちのオカンとか、うちのお父さんたちの話を聞かせてもらっている気分になってきました。
父はあまり自分を語らないし、自分が走って来たこと、弁明しない人でしたけど、オカンは「あんたたちを育てるために一生懸命に過ごして来た」というのは何度も聞かされましたよ。
私たちの世代とは、少し生き方が違ってたのかなあ。少しずつゆとりとか、やさしい時代とか、ロストジェネレーションとか、ポッカリしてる部分もありますね。今の若い人たちはまた違うんですけど。
それが80年代に入ったここ三、四年に、はた、と考えはじめる。ああ、今まで何だったのかなって。そんな時、かつて背後に流れていた音楽が聞こえてくるんです。ボブ・ディランや、ジョン・レノンの存在が今になってふっと現れてくるのね。それも、 何という名の曲で、何という名のアルバムでっていうことはちっとも知らないのだけれど、メロディーは確かに知っている、そんな曲ばかり。それを聴くと、その時の自分がどこにいて何をしていたかが一気に甦ってきて、理屈でない体のどこかに音楽が入っていたな、ということをしみじみ思うのね。
80年代に、60ねんだいの音楽を振り返る動きって、ありましたっけ。私たちは面白おかしく見てたけど、1985年ころの「バック・トウ・ザ・フューチャー」というのは1955年くらいに戻ってみる作品でした。
80年代に、60ねんだいの音楽を振り返る動きって、ありましたっけ。私たちは面白おかしく見てたけど、1985年ころの「バック・トウ・ザ・フューチャー」というのは1955年くらいに戻ってみる作品でした。
そう、80年代って、新しいものも生み出してたけど、自分たちの前の世代を大事にしよう、そのころのものを掘り起こそうとか、前向きな懐古的手法みたいなのも生まれてたんでしょうか。
そして、ビートルズにしろ、ローリングストーンズにしろ、ボブ・ディランにしろ、みんな過去から今までを音楽でつなげてくれていた人たちで、今にもつながってくれている人だっています。
私はやはり60年安保の時に多感な高校時代を過ごしたこともあって、ものを考えるときにまず“社会”に目が行った。それが、結婚後ずっと家庭の中で主婦として生活するうちに、日常生活を通して、社会を見、国や政治のことを感じるという感覚ができてきたのね。最近は、どんな小さなことも世の中の仕組み全てにつながっているのだ、ということが本当によくわかってきた。子どもの言葉一つにしてもテレビの影響とか親の言葉を反映していたり、家庭の中の女の感覚にしても、社会に強いられているものはいっぱいあるわけだし……。
今までの男の人たちには、社会は社会、家庭は自分の背中にある、という感覚が強かったけれど、生活の中にどっぷりと漬かっている女の感覚からいうと“生活の地続きに社会がある”ということを非常に強く感じます。
そして、中年になったあがたさんは、走って来た部分と、家庭の中でずっと過ごさざるを得なかった部分と、突然、離婚して子どもたちを抱え、ひとりで家庭を支えていかなければならず、見え方も変わりしてきたのに、男どもは相変わらず昔の価値観でやってるかもしれないね、というのを教えてくれています。
そして、中年になったあがたさんは、走って来た部分と、家庭の中でずっと過ごさざるを得なかった部分と、突然、離婚して子どもたちを抱え、ひとりで家庭を支えていかなければならず、見え方も変わりしてきたのに、男どもは相変わらず昔の価値観でやってるかもしれないね、というのを教えてくれています。
本が出てから三十年以上経過して、世の中はどう変わったんでしょう。相変らずのところと、昔とは違う部分とを抱えながら、今に至っているというのは確かなようです。
今の若い人たち、きっと80年代後半ごろに生まれた人たち、みんな世の中の中心として、古い人たちよりはるかに優秀な気がします。でも、もろさ、弱さも抱えていて、目先のことにとらわれる所もあるようです。
古い人たちが道を譲り、若い人たちを前面に押し立てればいいのに、前に立たせつつ足を引っ張ってる気がして、何だかモヤモヤします。
誰か、この世代で、年寄りの意見も入れつつ、前に進もうとする人、出てこないかな。よその国では少しずつ現れているんですけどね。