あがたさんちの下の子(小6)が、近所で有名なマミヤくんの話をしています。マミヤくんは一つ学年は下だし、学校もよその学校なんだそうです。それでも名前も存在も知られていて、チラッとどこかで見かけるだけで、「マミヤにあった」と自慢げに語っているそうです。
おうちの事情というのも、よその学校の子なのに、みんなから知られているということでした。そんな有名な人って、どこにでもいるもんなんだろうか。
マミヤ君はアル中のお祖父さんと二人で暮らしているのだそうだ。授業にはほとんど出てこないが、給食の時間だけ学校に来る子なのだという。
伸二(あがたさんちの下の子)は地元の子供たちのたまり場の公園や、ゲーム機の数台置いてある駄菓子屋などで、彼に会うことがある。喧嘩がめっぽう強く、数人でたむろしている中学生たちも、彼には一目おいているのだそうだ。
こんな小説みたいなこと、あったんだろうか。まるでフィクションみたいだけど、いろんな工区が重なる地域というのが都会にはあるのかもしれませんね。そうなると、うわさがうわさを呼び、事件はどんどん尾ひれをつけて、みんなが一目置く不思議な存在も生まれたんでしょうか。
昔って、そういう風来坊伝説を有り難がることもあったような気もします。みんな伝説とウソッパチの片棒担いで、自分たちはこういう不思議な世界で生きているという、子どもの幻想空間づくりの一つの材料だったのかもしれません。
子どもって、大人の知らないささやかな話を、伝説・神話のごとく持ち上げて、キャーキャー言うところがありましたっけね。
大人である私は、給食の時間に学校へ来なければならない屈辱感や、喧嘩に強くならざるを得ない切なさを思って胸が痛むが、子供たちは違うのかもしれない。
そうなんですよ。子どもは違う次元で生きているんですよ、きっと。残念ながら、知らず知らずにそういう世界から遠ざかっていくんだけど、確かにそういうところにいるんですよ。何だか羨ましいです。
子供は時折、自分の知らない世界をかいま見せてくれる異質な子供に出会い、大人とは違う感じ方で、その子やその背後の世界にこころひかれることがある。
一足早く何かを経験した子、よその土地から来た子、違う文化の匂いのする子など。風の又三郎である。
私は忘れてたけど、そういう子たち、小学校高学年から中学にかけて、私だって出会い、何かを感じてきたのかもしれません。
もう、その時のことばも感じも忘れてるけど、賢治さんの「風の又三郎」とか、こうしたあがたさんのエッセイとか、時々思い出させてくれる文章に出会うんですね。ありがたいし、懐かしいことではありました。