中国の歴史とことばで触れた人たちなんですけど、『徒然草』で兼好さんも書いてるから、つれづれなる人々というところにも書いておきます。
唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯(たくわ)へもなくて、水をも手して捧(ささ)げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手にむすびてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。
中国の古代の人で、許由という人がいたそうです。この人は、家財道具を一切持たず、蓄えもなく、何にも持たない人なので、水を飲むにも手で水を汲んで飲むという生活をしていました。それをたまたま見てしまった人が、水をくむためヒョウタンみたいなものをプレゼントしたということでした。
鳴り瓢(なりひさご)というくらいだから、木の枝にかけて置いたら、カラカラと音でもしたんでしょうか。あまりにそれが煩わしいということで、許由さんはそれを捨てたということでした。そして、いつも通り手で水をすくって飲んだということでした。どれくらい、心の中はサッパリしたことでしょう。物に執着しないというのは、心さわやかだと思うのです。
孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(わらひとつか)ありけるを、夕(ゆう)べにはこれにふし、朝にはをさめけり。
それからまた、孫晨という人がいたそうなんですが、どんな暮らしをしていたのか、冬のある日、フトンも何もなくて、わら一束だけしか持たなくて、夜になったらそれらをかぶって寝て、朝になったらそれらを片付けて、生活をしていたということでした。物を持たないということにとことんこだわった、シンプルライフの極みではないかと思われます。
唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記(しる)しとどめて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。〈18段〉
さて、私が言いたいのは、いつものように、ものにこだわるなということではあるんですが、中国の人たちは、こうした話をおもしろいというのか、感心したというのか、ある程度気に入ったから、こういう生き方をした人を記憶にとどめたいと思ったから、これを記録し、後の人々に伝えたのだと思うのです。
そして、自分たちなのですが、こういうものを持たない生活というものには興味がなくて、そういう生活をする人にも関心がないし、もしそういう生活をした人がいたとしても、ただの貧乏暮らしだろうと切り捨ててしまったことでしょう。
ものにこだわらない生活、あこがれはあるけど、できるのかというと自信がありません。でも、できる限りの可能性を求めて、たくさんの若い人たちが山をめざしているのも確かです。みんな自給自足がしたいのです。最低限の生活で、伸び伸びと生きること。
子どもの教育、病気になった時、山の生き物たちとの共存、そこにたどり着くまでの生活道路、電気・水道、すべてを捨て去りたいのに、これらの問題をどうクリアするの。生活費はどうするの。ゼロ円生活もいいけど、最低限のお金もいるだろう。
あれやこれやの悩みごとが押し寄せるでしょう。それらが解決できるのであれば、かなりの人たちが都会を離れて、山暮らしをすると思うのです。
とりあえず、テレビは要らない。ネットはどうするの? 私はパソコンで遊ぶの、好きでしょう? そうなんです。今のところ、やめられない。でも、これもあと何年かしたら、卒業できるかもしれない。何もないところで生きる。難しいかな。実家の母なら、何をバカなことを言っているの! と一蹴されるだろうな。
山が無理なら、田舎暮らしは? せいぜい考えていきたいです。お酒もいつかはやめなきゃいけないな。ピタッとやめられそうな気はするんだけど。