母のことを書かなくてはならない。
母は天涯孤独の人であった。この世に生まれ、物心ついたときには、身寄りのある人はまわりにいなかったようだ。気づけば母は叔父夫婦の家で寝起きしていたのだった。といっても、本当は母自身の家なのである。母の父親(私の母方の祖父)はフィリピンで戦死していた。フィリピンのどこなのか、孫の私としてはもう少しくわしいことを知りたいし、そこでの戦いがどんなであったのか、少しでも調べてみたいし、訊かねばならないのである。けれど、母はあまり詳しいことを知らないようだった。
母は自分の父親のことになると、ただやたらに悲しい気持ちになって、どこでどんな戦いがあったのか、どこで亡くなったのかというよりも、とにかく悲しいという気持ちが先に立つようだ。私は母方の祖父がどこにいたのか、だれか知っている人に訊いてみたいのだが、調べる方法はないものだろうか。
鹿児島で編成された陸軍の歩兵71連隊はフィリピンのルソン島で壊滅したということだが、ここに私の祖父は所属していたのだろうか。そうした情報を見ただけでもドキンとするし、本当のことがわかってみれば、私だって胸が詰まるような息苦しさを感じてしまうかもしれない。けれども、いつかちゃんとしたことを知りたい。いつだっていいので、これから祖父の戦争でのできごとを少しでも知らなくてはならないし、それが子孫としての義務のような気がする。
弟は、よく母方の祖父に似ていると言われていた。家に残る祖父の写真を見ても、私には何だかピンと来なくて、「とりあえずそういうことらしいが、まあ、あまり似ていないのではないか」と思ってみたりもした。そういう時には、適当に同意しておいて、昔の人の面影を追いかけている人たちのイメージを壊してはならないので、私はただ黙るばかりだった。母方の祖父は凛とした風貌で、その風貌に似ているのが弟ならば、兄の私は誰に似ているのだろう。だれか似ている先祖はいないのだろうか。
幸か不幸か、私は先祖のだれに似ていると言われることもなくオッサンになり、今頃になって無理無理に母から「あなたは、お父さんに似てきた」などと言われ、何とも複雑な気持ちになっている。私は父の代替ではないし、私は先祖のそれぞれのところを取っているわけで、足の変な形は父方の先祖伝来なのかも……とは思う。だれに似てるということでもなく、頭が薄くなり、年年歳歳小さくなってきている。自分でも、声やしゃべり方や、雰囲気が父に似てきたと言われると、複雑な気分と、納得する部分とがある。
母の母・お祖母さんは、母の妹さんを産んだ時に二人とも亡くなってしまっていた。母の妹さんはミチコさんという名前だったか……。そして、地域の新聞記者をしていた叔父が、母の家に入り込み、そのまま母の家は叔父のものになってしまう。夏目漱石の「こころ」の世界は、どこの家庭にでもあることだったのである。
小さいときに一度だけ母に連れられて叔父さんの家に行った私は、叔父さんも戦前の混乱の中であちらこちらで生活し、最終的に国に帰って新聞記者になり、たまたま兄の家に住む人がおらず、そのままそこに住み着いたのだった、と小さい私に言い訳をしていたのを聞いた覚えがある。母が特に何とも思っていない様子だったので、それでいいんじゃないの、とその場では思っていたが、叔父さんの家を出てから、母から「自分の家を取られた」というような話を聞かされて、突然欲張りジジイのようにイメージが変わってしまったことがあった。小さい頃の親の思いというのは、特に親戚に関わる思惑や感情は、親の感情で簡単に左右に振れてしまうのであった。
けれども、それは仕方のないことだったのかもしれない。戦前から戦後にかけての混乱で、日本の農村はもう一度再編成されたのだと思われる。母はそうした混乱の波を受けて、天涯孤独となり、自分の家を失ってしまったのである。母の叔父は、戦後の混乱を受けて、とりあえず自分たちの生活を立て直そうと、自分の兄の家にそのまま入ってしまったのであった。と、今なら言えるけれど、当時は子どもながらに、何だか憎い気持ちがしたものた。
母は、自分が生まれた家を失ってしまった。かわりに自分を育ててくれた家を見つけた。そこは、叔父夫婦の家から五百メートルほど離れたところにあった。そこは母のお母さんのお姉さんが切り盛りする家だった。母にとっての伯母さんは元気な人で、何でもポンポンとことばを投げかけて、相手がそれに反応すると、すぐにまた第二、第三のことばをたたみかけるテンポのある話しぶりの人だった。ことばに表裏がなく、どんなことでも気軽に笑い飛ばし、自信を持って暮らしている感じがあふれていた。
伯母さんは、私の父の家から、長男さんを養子にもらっていた。私にとっての伯父さん(つまり父のお兄さん)は、母の育ての親の伯母さんの旦那さんだったのである。少しこんがらがってくる。小さい時の私は、それがイマイチ理解できていなかった。
かくして、私の父と母は出会うべくして出会うようになっていたのである。だから、母は、育ての親の伯母さん(母のお母さんのお姉さん)からも、伯母さんの旦那さんにも大切に育てられ、伯父・伯母夫婦には2人の子どもがいたのだが、2人と母は3人兄弟のようにして育っていった。
私は、小学校の高学年まで、母は伯父さん・伯母さんの子どもであり、自分たちはその孫だとずっと思っていた。それがある時、突然伯父さんから「お前たちは私の孫ではないし、私はお前たちの祖父でもない」と宣言されて、目の前が真っ暗になったというよりも、突然目の前に大きな壁がニョキニョキ現れて、伯父さんと私たち兄弟を隔ててしまったような、隔絶感を味わった。人には血の濃淡というものがあり、伯父さんとのつながりはないのかもと、がく然としたのだった。それから、少しずつ自分たちの家族の歴史を知るようになり、実はこの伯父さんとは全く血のつながりがないというわけではないのだと、あとあとになって理解するのだった。
母が父に誘われて大阪へ出たのは十代の後半だった。親戚一同で開聞岳の見える、海に突き出た岬の長崎鼻に遊びに行った帰りのこと。父は何度かアプローチをし、本人の感触もつかみ、母の保護者である伯母さんの許しを得て、長崎鼻から指宿方面の汽車に乗って帰る折に、とうとう母に打ち明けた。
「どうか、ボクと一緒に大阪へ行ってはくれないだろうか」と。
母は、一存では決められず、伯母さんに相談をし、伯母さんはあなたの好きなようにしなさいとアドバイスをし、母は大阪へ遊びに行くような気持ちで、承諾をして、父と2人で夜行列車でそのまま大阪へ向かったのである。父はその時ちゃんとキップを用意していたということだから、ある程度の確信があったのだろう。
その話は、以前に聞いたことがあって、それから2人の関係が始まったのだと私ははや合点をしていたのである。実際は、父の妹さんが大阪で仕事をしており、そちらに泊めてもらって、父は自分の仕事をしていて、母は1年余り大阪でのんびりしていて、父からの愛のキューピッドとなる先輩がやってきて、「そろそろ結婚してはどうか? 彼はいつまでも待つとはいっているけれども、そろそろいいんじゃないか」と提案をしたそうだ。母は提案を受け入れて、すぐに2人は結婚したということだった。
道徳的にも問題のない感じだけど、どうしてもっと一足飛びに結婚までいかなかったのか、それはやはり母がまだ若かったからだと思う。父は母と結ばれる前に、つきあいのあった人がいたということである。これはごく最近妻が母から聞いてきた話で、まさかあの父に、別につきあっていた彼女がいたなんて、とても信じられないと思いつつ、母がどうしてそういう情報を妻にだけ教えるのか、そのあたりが納得のいかないと思ったものである。まあ、とにかく2人は結ばれ、2人の間に私たち兄弟が生まれた。
伯母さんは、身寄りのない母にだれかいい人を見つけてあげたいと思っていただろう。その相手がまさか自分の旦那の弟になるとは! そんなことは思ってもみなかったことかもしれない。でも、大阪と鹿児島で生きる道を探してあくせくする姿を見て、時折自宅を訪ねてくる姿も観察し、ある程度の信頼を置いていた。伯母さんにとっては旦那からだいぶ年の離れた弟で、どんなふうに見えていたのだろう。
もしかして、よそで彼女などをつくっていた、都会暮らしのしゃれた感じの父を、どちらかといえば誘導するようにして、母とうまくつながるように仕向けてくれたのかもしれない。大阪の会社の先輩はキューピッドではあるが、それらを見守ってくれていたのは母の伯母さんで、伯母さんは観音様のように2人の糸を結んでくれたのであった。
伯母さんが亡くなって33年が経過している。伯母さんのお墓参りには数えるほどしか行っていない。今回のカゴシマの旅でも行くことはなかった。父と母がカゴシマ生活を楽しんでいた10年くらい前には、2人は何度もお参りをしていたようだ。けれども、私はほとんど行っていない。何とも申し訳ない限りだ。
さあ、母の待つカゴシマの家は、開聞岳が見えなくなったら、眼下に錦江湾と指宿の町が見えてきて、そうしたら、もうすぐそこなのであった。
母は天涯孤独の人であった。この世に生まれ、物心ついたときには、身寄りのある人はまわりにいなかったようだ。気づけば母は叔父夫婦の家で寝起きしていたのだった。といっても、本当は母自身の家なのである。母の父親(私の母方の祖父)はフィリピンで戦死していた。フィリピンのどこなのか、孫の私としてはもう少しくわしいことを知りたいし、そこでの戦いがどんなであったのか、少しでも調べてみたいし、訊かねばならないのである。けれど、母はあまり詳しいことを知らないようだった。
母は自分の父親のことになると、ただやたらに悲しい気持ちになって、どこでどんな戦いがあったのか、どこで亡くなったのかというよりも、とにかく悲しいという気持ちが先に立つようだ。私は母方の祖父がどこにいたのか、だれか知っている人に訊いてみたいのだが、調べる方法はないものだろうか。
鹿児島で編成された陸軍の歩兵71連隊はフィリピンのルソン島で壊滅したということだが、ここに私の祖父は所属していたのだろうか。そうした情報を見ただけでもドキンとするし、本当のことがわかってみれば、私だって胸が詰まるような息苦しさを感じてしまうかもしれない。けれども、いつかちゃんとしたことを知りたい。いつだっていいので、これから祖父の戦争でのできごとを少しでも知らなくてはならないし、それが子孫としての義務のような気がする。
弟は、よく母方の祖父に似ていると言われていた。家に残る祖父の写真を見ても、私には何だかピンと来なくて、「とりあえずそういうことらしいが、まあ、あまり似ていないのではないか」と思ってみたりもした。そういう時には、適当に同意しておいて、昔の人の面影を追いかけている人たちのイメージを壊してはならないので、私はただ黙るばかりだった。母方の祖父は凛とした風貌で、その風貌に似ているのが弟ならば、兄の私は誰に似ているのだろう。だれか似ている先祖はいないのだろうか。
幸か不幸か、私は先祖のだれに似ていると言われることもなくオッサンになり、今頃になって無理無理に母から「あなたは、お父さんに似てきた」などと言われ、何とも複雑な気持ちになっている。私は父の代替ではないし、私は先祖のそれぞれのところを取っているわけで、足の変な形は父方の先祖伝来なのかも……とは思う。だれに似てるということでもなく、頭が薄くなり、年年歳歳小さくなってきている。自分でも、声やしゃべり方や、雰囲気が父に似てきたと言われると、複雑な気分と、納得する部分とがある。
母の母・お祖母さんは、母の妹さんを産んだ時に二人とも亡くなってしまっていた。母の妹さんはミチコさんという名前だったか……。そして、地域の新聞記者をしていた叔父が、母の家に入り込み、そのまま母の家は叔父のものになってしまう。夏目漱石の「こころ」の世界は、どこの家庭にでもあることだったのである。
小さいときに一度だけ母に連れられて叔父さんの家に行った私は、叔父さんも戦前の混乱の中であちらこちらで生活し、最終的に国に帰って新聞記者になり、たまたま兄の家に住む人がおらず、そのままそこに住み着いたのだった、と小さい私に言い訳をしていたのを聞いた覚えがある。母が特に何とも思っていない様子だったので、それでいいんじゃないの、とその場では思っていたが、叔父さんの家を出てから、母から「自分の家を取られた」というような話を聞かされて、突然欲張りジジイのようにイメージが変わってしまったことがあった。小さい頃の親の思いというのは、特に親戚に関わる思惑や感情は、親の感情で簡単に左右に振れてしまうのであった。
けれども、それは仕方のないことだったのかもしれない。戦前から戦後にかけての混乱で、日本の農村はもう一度再編成されたのだと思われる。母はそうした混乱の波を受けて、天涯孤独となり、自分の家を失ってしまったのである。母の叔父は、戦後の混乱を受けて、とりあえず自分たちの生活を立て直そうと、自分の兄の家にそのまま入ってしまったのであった。と、今なら言えるけれど、当時は子どもながらに、何だか憎い気持ちがしたものた。
母は、自分が生まれた家を失ってしまった。かわりに自分を育ててくれた家を見つけた。そこは、叔父夫婦の家から五百メートルほど離れたところにあった。そこは母のお母さんのお姉さんが切り盛りする家だった。母にとっての伯母さんは元気な人で、何でもポンポンとことばを投げかけて、相手がそれに反応すると、すぐにまた第二、第三のことばをたたみかけるテンポのある話しぶりの人だった。ことばに表裏がなく、どんなことでも気軽に笑い飛ばし、自信を持って暮らしている感じがあふれていた。
伯母さんは、私の父の家から、長男さんを養子にもらっていた。私にとっての伯父さん(つまり父のお兄さん)は、母の育ての親の伯母さんの旦那さんだったのである。少しこんがらがってくる。小さい時の私は、それがイマイチ理解できていなかった。
かくして、私の父と母は出会うべくして出会うようになっていたのである。だから、母は、育ての親の伯母さん(母のお母さんのお姉さん)からも、伯母さんの旦那さんにも大切に育てられ、伯父・伯母夫婦には2人の子どもがいたのだが、2人と母は3人兄弟のようにして育っていった。
私は、小学校の高学年まで、母は伯父さん・伯母さんの子どもであり、自分たちはその孫だとずっと思っていた。それがある時、突然伯父さんから「お前たちは私の孫ではないし、私はお前たちの祖父でもない」と宣言されて、目の前が真っ暗になったというよりも、突然目の前に大きな壁がニョキニョキ現れて、伯父さんと私たち兄弟を隔ててしまったような、隔絶感を味わった。人には血の濃淡というものがあり、伯父さんとのつながりはないのかもと、がく然としたのだった。それから、少しずつ自分たちの家族の歴史を知るようになり、実はこの伯父さんとは全く血のつながりがないというわけではないのだと、あとあとになって理解するのだった。
母が父に誘われて大阪へ出たのは十代の後半だった。親戚一同で開聞岳の見える、海に突き出た岬の長崎鼻に遊びに行った帰りのこと。父は何度かアプローチをし、本人の感触もつかみ、母の保護者である伯母さんの許しを得て、長崎鼻から指宿方面の汽車に乗って帰る折に、とうとう母に打ち明けた。
「どうか、ボクと一緒に大阪へ行ってはくれないだろうか」と。
母は、一存では決められず、伯母さんに相談をし、伯母さんはあなたの好きなようにしなさいとアドバイスをし、母は大阪へ遊びに行くような気持ちで、承諾をして、父と2人で夜行列車でそのまま大阪へ向かったのである。父はその時ちゃんとキップを用意していたということだから、ある程度の確信があったのだろう。
その話は、以前に聞いたことがあって、それから2人の関係が始まったのだと私ははや合点をしていたのである。実際は、父の妹さんが大阪で仕事をしており、そちらに泊めてもらって、父は自分の仕事をしていて、母は1年余り大阪でのんびりしていて、父からの愛のキューピッドとなる先輩がやってきて、「そろそろ結婚してはどうか? 彼はいつまでも待つとはいっているけれども、そろそろいいんじゃないか」と提案をしたそうだ。母は提案を受け入れて、すぐに2人は結婚したということだった。
道徳的にも問題のない感じだけど、どうしてもっと一足飛びに結婚までいかなかったのか、それはやはり母がまだ若かったからだと思う。父は母と結ばれる前に、つきあいのあった人がいたということである。これはごく最近妻が母から聞いてきた話で、まさかあの父に、別につきあっていた彼女がいたなんて、とても信じられないと思いつつ、母がどうしてそういう情報を妻にだけ教えるのか、そのあたりが納得のいかないと思ったものである。まあ、とにかく2人は結ばれ、2人の間に私たち兄弟が生まれた。
伯母さんは、身寄りのない母にだれかいい人を見つけてあげたいと思っていただろう。その相手がまさか自分の旦那の弟になるとは! そんなことは思ってもみなかったことかもしれない。でも、大阪と鹿児島で生きる道を探してあくせくする姿を見て、時折自宅を訪ねてくる姿も観察し、ある程度の信頼を置いていた。伯母さんにとっては旦那からだいぶ年の離れた弟で、どんなふうに見えていたのだろう。
もしかして、よそで彼女などをつくっていた、都会暮らしのしゃれた感じの父を、どちらかといえば誘導するようにして、母とうまくつながるように仕向けてくれたのかもしれない。大阪の会社の先輩はキューピッドではあるが、それらを見守ってくれていたのは母の伯母さんで、伯母さんは観音様のように2人の糸を結んでくれたのであった。
伯母さんが亡くなって33年が経過している。伯母さんのお墓参りには数えるほどしか行っていない。今回のカゴシマの旅でも行くことはなかった。父と母がカゴシマ生活を楽しんでいた10年くらい前には、2人は何度もお参りをしていたようだ。けれども、私はほとんど行っていない。何とも申し訳ない限りだ。
さあ、母の待つカゴシマの家は、開聞岳が見えなくなったら、眼下に錦江湾と指宿の町が見えてきて、そうしたら、もうすぐそこなのであった。