甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

一本杉と1955年

2017年05月21日 06時55分52秒 | 父母のこと、あれこれ
 1955年なんて、私は影も形もありませんでした。この世にいなかったんです。

 ふりかえると、母はこのころ、十代半ばでした。若いなあ。

 春日八郎さんが「泣けた、泣けた」と歌ってた頃には、そんな歌が世の中にあるって、知ってたんだろうか。田舎育ちだから、知らなかったかもしれない。

 でも、母のもっと小さい頃、伯母や母の伯母さんなどは、よく映画などに出かけたということですから、田舎でも、都会の文化を吸収しようという意気込みはあったかもしれない。当時の映画は娯楽の王道であり、みんなが競って見に行っていたのかもしれません。

 母が「別れの一本杉」で鼻唄をうたうなんていうことは、たぶんなかったと思うから、そんなに春日八郎さんのこと、好きだったとは言えません。でも、母が青春真っ盛りの頃に、高野公之さん作詞、船村 徹さん作曲のこの曲が生まれた。



 というのをラジオを聞いた日の夜、書いていたようです。もう何日も前です。

 私は、春日八郎さんのこの歌を知ってはいましたが、改めて歌に向き合ったことがなくて、ラジオで聞いてみて、船村さんとコンビを組んだ高野さんが早くに亡くなられたこと、春日さんの落ち着いた歌声、そういったことにも感心したのですが、その歌われている内容に、古い日本を見たような気がしたのです。

 有村架純ちゃんの朝ドラ「ひよっこ」は、「別れの一本杉」の時代から十年のちの日本を描こうとしている。高度経済成長の時代なので、それなりに産業に勢いがある感じです。

 「別れの一本杉」の時代は、まだそこまで経済成長が顕在化していない、控えめな感じの、伝統的日本の叙情をうたっているような気がしたのです。

 朝鮮戦争による好景気もあったでしょうが、それは戦争関連産業だけであり、日本全体が経済一辺倒になっていたのではなかったような、まだまだ地方には農業中心の、浮世絵にできそうな日本が残っていた。

 そこに、好きな子を地元に残して都会へ出て行く男。男は、村はずれの一本杉のところで彼女と別れ、そのままずっと都会へ出てしまう。別れて何年か過ぎて、彼女はもう二十歳は過ぎたかもしれない。それでも自分のことを待ってくれているのかなと、男の都合で考えてしまうのだけれど、今ならそんな男なんて忘れて、新しいステキな、そばにいてくれる人を探すのが当たり前なのに、六十年前の日本では、ずっと待つことがわりと自然であったなんて……。

 そして、母ですが、母はそういうのが当たり前の時代に、青春期を過ごし、そういう空気を吸っていた。だから、今の母があるわけで、私は?

 私の青春期のうた、どういうのがあるのか、あれもこれも忘れてしまって、何にもない今があるだけで、もう一度思い出さないといけません。



 とりあえず、みかんの花は昔の人の匂いを思い出させてくれるような気がします。もっとみかんの花のにおいをかみしめなきゃ、忘れたものがよみがえりません。

★ 投稿した後に、ふと思い出しました。1955年といえば、「バック・トウ・ザ・フューチャー(1985)」が扱っていた時代です。デロリアン号に乗って30年前にもどり、そこで父母たちの青春劇を応援するのが楽しいドラマでした。あの中のアメリカは、それはもう元気でした。日本みたいにしっとり・シンミリしていなかった。

 そうです。私はふたたび日本の辛気くさい、じっとりした演歌の世界をとりもどせといいたいのです。たぶん無理だとは思いますが、あの貧乏で、みっともなくて、テンポの悪い感じを少しでも取り戻して、日本本来の苦しい時にでも、どういうわけか笑っている、底抜けに明るい、何にでも好奇心のある、無邪気な本来の日本人(江戸以前の日本人)にもどりたいのです。変に片意地を張らない。偉そうにならない。ウソはつかない。本来の私たちになりたいのです。


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1 コメント

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別れの一本杉 (雨あがりのペイブメント)
2017-05-21 13:18:02
 いい歌ですね。
作詞家・高野公男は私の故郷の近くに生まれました。
 作曲家・船村徹栃木県出身で、二人とも茨城弁と栃木弁がいつまでたっても抜けなかったようです。
 「別れの一本杉」にまつわる二人の関係は
私のブログ「哀悼 船村徹」としてシリーズでアップし、現地にも行ってきました。
 よかったら覗いてみてください。
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