哲学者の小林敏明さん(20年以上ライプチッヒで研究活動をしているそうです)が、2022年の5月16日の朝日新聞で語っておられました。インタビューを記者が再構成した記事のようです。
今、ドイツでは人々はウクライナ支援に悩みつつ傾いているということでした。その時に、過去のドイツのしてきたトラウマと人々は向き合っているということでした。同じ地平線の上で行われている戦争なので、リアルなんですけど、その戦争においてドイツはどのような態度をとるべきか、揺れているということでした。
もちろん、ウクライナを支援することにためらいはないのだけれど、過去の自分たちの国の歴史を改めて見ているということでした。
ロシアの侵攻で触発されたドイツ人の恐怖や不安は、ロシアと同時に、自らのトラウマとの対峙に発してはいないだろうか。
戦争がひとごとでなくなった、とはそうした意味もあるように感じる。市民虐殺が報じられたブチャの映像で、アウシュビッツを連想した人がいるかもしれない。自民族の過去の重さに思いをはせた人もあるかもしれない……。
ドイツに住みながら、土地の空気を感じているらしいのです。果たして私たちの国は、どれくらい今回の「戦争」に向き合っているでしょうか。どこかよそごとという空気もあるように思います。
このことは、突き詰めれば敗戦国ドイツだけにとどまらない話へと行きつく。
フロイトは、人間には破壊や憎悪という攻撃衝動の本性があるとして、それをタナトス(死の欲動)と呼んだ。戦争は不可避なのだ。それでも人間は罪責感や良心によってその欲動を抑え込み、文化や秩序を発展させてきた。
ただし抑制が過剰になるとメランコリー(うつ病)に傾き、それに耐えられなくなると暴発を生む、とも。人間は、だから戦争とメランコリーの間で絶えず揺れる厄介な存在なのである。
精神分析のフロイトさんは、人間は攻撃の本性があると見ていた。それが必然的に戦争をもたらす。それを抑えるために、人間は攻撃的なものを抑える文化的なものを作ることにした。でも、この抑制は強すぎると、内省的で深い落ち込みへと転落する。抑制→転落→攻撃→抑制、クルクルしながら人間は生きてきたんでしょうか。
90年前、アインシュタインと戦争論で書簡を交わしたフロイトは、悲観的でありつつ、人間が芸術活動などを通してタナトスを昇華させ、平和を実現する未来に望みをかけた。
人間の横には深い川が流れている。そこにはまっておぼれたり、川から上がってハイテンションで訳の分からんことを口走ったりする、そんな私たちがいる、ということですか。
そんな、分析だけではこの事態は何も変えられないけど、どうにかしたいのです。
そう、だれかロシアに吟遊詩人みたいに、歌をうたって旅して歩く人現われないかな。フィンランドにはスナフキンはいたのに、ロシアにはいなかったのか……。ロシアの人に聞いてもらえる歌の芸持ってたら、言って歌いたいです。