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51 鉄のさび赤く落ちたる砂利にたちて忙しく青きはたを振る人
たぶん駅で見た鉄道の風景だと思います。でも、青い旗ってあるんだろうか、それが気になります。保線管理のお仕事の人たちは赤か白かというイメージです。
青い旗、どんな意味があるのかな。安全ということでしょうか。ただ、赤さび色の砂利と青い旗はいい組み合わせです。まさか賢治さんの創作ではないし、昔はそういうシステムがあったのかもしれません。ガルシンの『信号』を思い出します。もう同じところをクルクル回ってい感じです。
97 よろめきて汽車を下ればたそがれの小砂利は雨にひかりけるかな
よくもまあ、こんな事柄に注目しましたね。これを切り取れるからすごい人です。
たそがれの駅、しばらく汽車に乗っていたので、足もしびれている。昔は客車からホームに降りるのも一苦労で、ヨタヨタっと降りてみると、霧雨みたいなのが降っている。やがて汽車は出て行きますが、駅の空漠とした空間に砂利だけがリアルに輝いている。他はみんなどこかうつろで、何だか疲れた1日の終わりです。
174 思はずもたどり来しかこの線路高地に立てど目はなぐさまず
賢治さん、そんなに何もかもを解決させてくれる鉄道ってないんですよ。汽車はただ風景の中を通り過ぎていくだけだし、人間は、風景に慰められる時もあるけれど、結局は人間そのものに立ち向かうしかない。
遠くに行けば、少しは現実を忘れられるけれど、ふたたびもどれば人間たちの世界です。
そんなのはとっくにわかっているんでしょうね。でも、旅せずにはいられないし、風景と語り合わねば落ち着かない。そして、風景は何も語らない。そうですね、何も語ってくれないというのを確かめるため、どこかへ出かけるんでしょう。何もかも忘れて、「まあ、キレイ」と感嘆しなくちゃ! それで少しはまぎれるのかも……。
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178 風ふけば岡の草の穂波立ちて遠き汽車の音もなみだぐましき
これは悲しい涙ではないですね。汽車の音を聞いて、さあ、がんばらなくちゃ! ボクもこうして生きている。汽車も遠くをめざして走っている。風も草も、みんな生きて世界に充ち満ちている。
そんなことが頭の中をめぐると、頼りない自分も、こうして悲壮だけれど、少しだけたくましく生きている実感が感じられる。それはうれしいでもないし、怒りでもないし、楽しいでもない。愛おしいの「かなし」に近いのかもしれません。
180 はだしにて夜の線路をはせ来(きた)り汽車に行き逢へりその窓は明るく
裸足で線路を歩くなんて、今の世の中では許されないことです。これは空想ですね。ただ線路をたどって、どこかへ行きたいというのを表している。そうすると必ずそれを阻止する大きな流れがやってくる。その灯りの中に人々の姿が見えて、光明が見えたということでしょう。
現代の私たちなら、高いビルの上から駅を行き来する電車の光を見つめて、その中の人々を想うのでしょうが、賢治さんはそんな遠目からのことはしないで、裸足で線路を歩いて、汽車に出会うまで行ってやろうとする。
これが賢治さん的です。現場で生の姿を見ないと気が済まないのでしょう。
189 鉄橋の汽車に夕陽の照りしかばここまでペンキ匂ひくるかな
鉄橋のペンキの匂い、いいですね。私たちならそんなものは気にしていないのに、賢治さんにはわかるらしい。感性が豊かなんだ。そりゃ、当たり前ですね。見習いたいです。
私は、ペンキの匂いよりもタールの匂い、あれは嫌いではありません。
207 停車場のするどき笛にとび立ちて暮れの山河にちらばれる鳥
夕暮れ、年の暮れ、どっちだっていいですね。駅での汽笛・警笛・発車の合図、みんな鋭い音がします。鳥たちは一瞬だけ驚いたフリをするけれど、すぐにまたもどってくるでしょう。
そんなに鳥たちに好かれている駅って、貴重です。
松阪駅はハトたちに愛される駅でしたが、いたるところにトゲトゲがつけられ、ハトたちの休憩場所はなくなりつつあります。ハトを許さない松阪駅。それもこれもトリとヒトとの営みですね。
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275 浅草の木馬にのりて哂(わら)ひつつ夜汽車を待てどこころまぎれず
夜汽車に乗るユーウツ、もうみんな忘れているかも知れません。今だって夜行バスに乗るとき、多少のドキドキとユーウツはあるでしょうけど、昔みたいにすべての生活を背負って汽車に乗り込むという気分はないでしょう。一番安いお金で、わりとリラックスして、他人とも関わらずに夜を過ごせる、そう思って乗るんですから。一夜明ければ、目的地に着いてしまうし、今と変わらない延長線上にその町はあるはず。
昔はそうではありません。鉄路でつながってはいますが、東京から夜行で地方に行くということは、ものすごく遠いところに行く気分だし、すべての生活がその肩にのっかって田舎に着いてしまうのです。どーんと疲れてしまう、そんな感じだったかな。
だから、何をしても心楽しまない。こういうユーウツ、ぜひ何度か味わいたいです。どこかにあるとは思うけれど……。
285 伊豆の国三島の駅にいのりたる星にむかひてまたなげくかな
賢治さんと静岡の三島って、あまり結びつきません。どうしてこんなところで祈っているのかな、それが知りたいです。
309 わがために待合室に灯をつけて駅夫は問ひぬいづち行くやと
若き賢治さんに、年配の駅員さんが訊きます。「どこに行かれるんですか」と。
これは地元でのことではないですね。きっとよその駅で、訊かれたんでしょう。それが何となくグサッと刺さる。これはどういうことなのか、何かおしゃべりしたいような、したくないような、不安なのにそれを隠すように硬い表情をしてしまう、そういう駅でのヒトコマだったのかな。
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37 泣きながら北にはせゆく塔などのあるべき空のけはひならずや
これは鉄道の短歌なのかどうか、それさえわかりませんが、空の風景がどんどん行き過ぎているのかなと思って抜き出しました。
二句切れなのかな。泣きながら北に向かっている。すると空には、ポツン、ポツンと鉄塔などが立っている。少しうすら寒い気分になって、しばらく時間をやり過ごしている。
そういう気分を詠んだのかなと思いました。
賢治さんの汽車、何かわかりましたか? カンタンにはわかりませんね。