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苦節19年・晋の文公の登場! 中歴32

2015年10月21日 22時25分14秒 | 中国の歴史とことば
 晋という国は、周の成王の弟・叔虞(しゅくぐ)を国の始祖とし、初めは“唐”の地に封ぜられた(前1054)そうです。その地は山西省南部の翼城県あるいは平陽県付近であるか、それとも中部の太原付近であるか、余りはっきりしないという。……まだまだ中国の歴史のわからないことって、いっぱいあるんですね。

 今、太原(ターユアン)には有名な“晋祠(しんし しんのほこら)”があり、邑姜(ゆうきょう 叔虞の母・武王の皇后)などが祭られて晋の発祥の地とされていますが、実際、晋の最初の領地は翼城あるいは平陽県付近のようである。叔虞の子燮の時に“晋侯”と称している。……このネットの研究者さんは、最初の土地をどちらかに決めたがっていますね。そんなことはどっちだっていいことなんですけどね。

 でも、実際に発掘することができたら、これまた歴史がかわるような、びっくりするようなモノが出てくるんでしょう。今の中国からは出てこないかもしれないけれど。

 晋水のそばに遷都した春秋時代の初め、文侯の子・昭公が立つと、文侯の弟・成師は首都“翼”に近い大邑“曲沃”に封ぜられた(前745)。……有望な分家を置くということは、いつか乗っ取ってね、そういうのもありよ、というサインなんでしょう。あの徳川さんだって、紀州の殿様、水戸の殿様がやがて将軍になったりするんだから、分家が本家を支えることはありです。大きな家のシステムとしては必要です。

 分家は“曲沃(きょくよく)の桓叔(かんしゅく)”と呼ばれ、大いに人心を掌握して、勢力を拡大したので、「晋の乱るることそれ曲沃にあるか」と恐れられます。……人はわかりきったことをウワサするものです。分家さんは本家乗っ取りを考えるのは、人間の歴史としてはアリなんですから、それを今さら言う必要はないのに、お家争いをまわりではやし立てるのは、みんな好きなんでしょうね。

 これから60余年の間、3代にわたって、翼城の宗家(そうけ)と曲沃城の分家が公位をめぐって争い、周王室の干渉を排除し、最終的に分家の曲沃の武公が、翼城に入って、晋を統一したのは前679年のことでした。……国の最初から数えてこれで400年くらい経過しています。

 永く続いた大分裂時代は、晋国の政治にはかり知れない影響を与えます。公族や貴族の中に生じた対立だけではなく、在地勢力や戎狄(じゅうてき 西と北の野蛮人)の力が発展して、政局を左右する要素となっていました。

 前676年、献公(けんこう)が即位すると晋の大夫士イが、
「もと晋の群公子多し、(今)誅せざれば乱まさに起らん」と忠告したために、諸公子はことごとく殺され、都の絳(絳県)に城郭を築き、人心の一新が図られます。しかし、なお国政は安定せず、“リ姫の乱”が発生して、太子申生は自殺、公子・重耳(ちょうじ)らは出奔(しゅっぽん)することになります(前655)。

 文公・重耳が十九年にも及ぶ諸国流浪を経て、晋侯をなるのは前636年です。文公の出現によって、初めて晋国は政局が安泰となり、覇者としての実力を蓄えるようになりました。




★ わけのわからないことを書いているでしょ。周という国は、西からやってきて中国の真ん中に国を建てました。東の海側には親戚とか、信頼できる人たちを送って、そこでの土地経営をまかせました。真ん中は周なんですが、本体は全体を支配するのではなくて、個々に派遣した人たちにまかせて、そのトップとして権威と支配権を持っていたんでしょうね。

 それが長い歳月を過ぎる間に、各地の大名が自分の領地を安定させて、本来は派遣された知事さんみたいな存在が、だんだんその地域の王様的な気分が盛り上がって、権威と支配権を持つ周の王様をないがしろにしていく。これも人間社会の中でよくあることで、地元のことは地元が解決するという形が生まれます。

 現在の日本は、地方分権よりも中央集権的な国なので、沖縄の知事さんが基地はもういらないと訴えても、強制的に基地は作ってしまいますし、鹿児島にも原発動き出させた方がいろいろ有利なことがあるよと締めつけて、どうぞ運転してくださいと言わせてしまう。すべて中央の意向がものを言う国となっています。

 それと比べると、春秋時代の晋では、もう勝手に領国支配が進んでいました。各地でみんなそうだったのでしよう。オバカの幽王というのがいましたから、あそこで決定的に周のメンツとか、ありがたみとかが吹っ飛んでしまったんでしょう。

 それから百数十年経過して、前636年まで、晋という国はうまく行っていなかった。り姫(りき)さんという王の後妻さんで、この人が、これまた中国によくあるお家騒動を引き起こし、本妻との間の子どもたちをみんな殺して、自分の子どもを王にしようとしたのでした。



 それで公子(王様なんですけど、王と名乗れるのは周の王様だけで、周王からある特定の地域を任されている人たちは、晋公とか、斉公とか、魯公というふうに「公」と呼ばれています。その子どもなので「公子」という呼ばれ方で、とにかくプリンスなんです)重耳さんは放浪19年で、すごく苦労したみたいです。

 でも、そうした苦労はイマイチ私たちにはピンと来なくて、宮城谷昌光さんの小説を読んで、それなりにわかったような気分にはなりますけど、イマイチキャラとして立ち上がってこないです。

 という長い、前振りの後、やっと晋の国で生まれたことばを紹介できますが、それは次回にしようと思います。ああ、もう寝る時間です。

 日曜日に、伊勢の河崎の一箱古本市に参加することにしたので、そこに出す本を選んでいて、遅くなっちゃいました。お店ごっこですけど、何だか楽しいです。奥さんもウキウキしているみたい。

 夫婦で何かイベントに乗っかるって、楽しいですね。そうです。信楽のことも、またいつか書いておかなきゃダメですね。気が向いたら書きます。

 みなさま、もしお暇なら、日曜日の河崎のひと箱古本市に見に来てくださいね。よろしくお願いします。


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