甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

我舞台に立てり、お粗末の一席(大河力三)

2015年09月22日 11時59分37秒 | 父母のこと、あれこれ
 実家から父の雑記帳を持ち出してきました。

 日記と違って、新聞からの抜き書きとか、いろいろな文章が入っていました。うちの父が折々にメモしたものでした。本人が書き写したものですから、本人が書いたものではなさそうです。

 でも、今の人に読んでもらえるようなものがあるかもしれないと、持ってきたもので、早速、抜き書きしてみました。

 日記よりも単発でやれそうで、気まぐれな私にはいいですね。日記だと五十年分あるので、それを掘り起こすのは大変な作業だから、なかなか手を付ける気が起こりませんでした。50年の日記の前に雑記帳から始めたいと思います。




・93年11月6日   大河力三

 この春、4月頃、Kさんがフォークダンスやろうやないか、と言って、一日先生に皆さん習ってきて、翌日からやり始めた。平成音頭のリズムに乗ってやるのだ。みなさん踊りやったり、盆踊りのベテラン揃い、私も入れと言われ、いつもの山の仲間同士、恥ずかしがることもないと、手取り足取りして教えてもらい、どうにかやれるようになり、毎朝体操後みんなで楽しんできた半年間。

 先日突然、H会長が区老連の大会に我々のフォークダンスを舞台に上がってやることになったというのだ。
 「オレ恥ずかしいからイヤ」と言っていたのだが、その当日が来てしまった。私はカメラをカバンに入れて集合場所に行って、「オレ写真写すわ」と言ったら、Kの奥さんに、
「写真写さんでもええ、出なあかん」と言われた。

 会場に入って次々に演じられる舞台を見ると、みな揃いの衣装での踊りや詩吟、上は白で下は黒のスカートでのコーラスなど、美しく、みなそれぞれの舞台姿であった。舞台が済んだら花束などももらっていた。

 いよいよ出番近く、舞台裏に集合した。H会長が「いつもラジオ体操の後でやっているそのままの格好で出てきたらええねん。そのまま、そのまま」と言っていたが、今まで見た舞台、みなキレイで、ええ格好やったやないか、男連中はええが、うちのご婦人連中誰もよそ行きの服(みんな持ってんねんで)着て来てへん。また、よそ行きの化粧もしてへんねんで(化粧したらもっともっとキレイやねんで)……。

 どうなることかと思っているうち、出番中と外との二重の輪になるものと並び終わらぬうちに、幕が開いた。
 「おい、あっち向いて礼や」と言うので、もたもたして米つきバッタのような礼。
 頭下げている者、上げている者、また下げる者、客席から爆笑と拍手がわき上がった。平成音頭のテープが流れ始めると、毎日やっていることだから、全員そろってリズムに乗ることができた。いつもこのフォークダンスしている時は、軽口が飛び交い、笑いながらやっているのに、今日は笑顔がない。
 私は出たからにゃ、いつものようにと前に来た女の人に戯れ口を二、三度飛ばしてみたが、効果ない。外の輪で踊っていたYさんは客席の方に出るのを避けているように進まないので、隣の人との間がだいぶ開いた。

 そうこうしているうちに、どうにか我々のフォークダンスも終わった。また客席に向かって米つきバッタのような礼。H会長がマイクで何やらしゃべっていたが、湧き上がる拍手と爆笑に消され、何を言っているのかわからない。まるで吉本のお笑いの観客のようだ。誰1人花束を贈ってくれなかった。
 家に帰り、ウチの保護者に、
「オレ舞台に上がって、フォークダンス踊ってきてん」と言ったら、
「やめときやー言うのに、アンタみたいな、薄汚いオジイゴンベが、タネまくような格好やったと思うは」と言われて、オレもそう思う。
 ごんべがタネまきゃ、カラスがほじくる
と自分で唄いながらやってみたら、平成音頭でなくとも、ピタリと合うではないか。途端にあの観客の爆笑が目に浮かぶ。我舞台に立てり、お粗末の一席。 




 この大河力三さんって、だれなんでしようね。大阪の方なんでしょうか。93年なら、父も若かったでしょうね。定年をすぎてほんの少ししか経っていません。

 父がこんな軽い感じの文章を書いたとは思えないので、きっとどこかの冊子にあったのを書き写したんでしょう。

 でも、どうしてこれを書き写す必要があったのか、少しわからないですね。


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