40代になりたてのころ、なんだか右のあばらの下あたりがイジイジとうずく時がありました。ここには肝臓があるというのは知っていましたが、それが痛みを訴えることなどないわけですから、何かいやだなと思っていたことがあります。
朝になると決まって調子が悪くて、そのころは通勤にはボブ・ディランがフォークやトラッドの曲をカバーしたアルバムを聞いていたので、何となくしみじみして、人生はあっという間だよなとか、自分はどうしてここにいて、通勤のクルマの列の中にいて、何をしているんだろうとか、考えていたような感じでした。
考えているとはいえ、特に何かアクションを起こすわけではなく、何となく不安で、その不安におびえ、不安を忘れようとし、何でもないと思い返し、とにかく一日を過ごすということがありました。
それから十数年、今のところ元気で、肝臓に年々脂肪はたまっているのかもしれませんが、とにかくお腹が突き出てはいるものの、筋肉は年々なくなるものの、とりあえず何ともなく暮らしています。ボブ・デイランは好きで、オリジナル曲も、カバーも好きなんですけど、わざわざ聞こうとはしなくなりました。よほどのことがないと、わざわざ聞こうとしません。
私は、「風に吹かれて」とか、「スロートレイン・カミング」とか、もう30年以上前のが好きなんですけど、それ以前のも、それからのも、少しずつ買って、聞いて、すぐ聞かなくなって、時々聞いてしています。
どちらかというと、何かにぶち当たったとき、神妙な気持ちのとき、ラジオで聞いてふたたび聞きたくなったときなど、折にふれて聞いています。何を教えてくれるわけではないですけど、曲の内容もちゃんと理解していないのに、お経のように、何かの宗教音楽のように、何かわけもわからずワンフレーズだけ歌いたいとき、聞いています。
もっとちゃんと聞けよ、とディランさんに怒られるかもしれないけど、いい加減に聞いています。
私たちは、今を生きていますが、なかなか生きているという充実感もなくて、ただ日々の暮らしをしています。それで「こころ旅」などで、私がよくもらい泣きするのは、亡くなった人たちを偲んでいるお手紙なんかがくると、そうなんだよ、私たちは忘れているけれど、それらはすぐ私たちのそばにあるんだよと思ったりします。
私たちは、たいてい忘れて、うかつに過ごしています。忘れているからうかつに過ごせると言ってもいいのかもしれない。いつも自らの死を思い続けるなんて、とても苦しいことで、できればそんなことは考えたくない。
でも、今も自らの生と死を見つめておられる人は必ずいて、どうしてこれから自分は生きていこうと思っておられることでしょう。そして、なかなか答えは見つからないかもしれない。
私の好きな「徒然草」に、こんなエピソードがあります。
みんなで賀茂川の競馬を見物しています。特等席から見ようと木の上にのぼったのはいいけれど、そこでいねむりをするウッカリ者がいました。それを見物客のある人が「あんな危ない木の上でいねむりをして、大バカものだ」とコメントして、まわりの人たちもニヤニヤしながら見ている場面がありました。
そこで兼好さんが「我らが生死(しょうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」と切り返します。
「木から落ちそうなヤツを笑っている私たちも、うっかりしていることには変わりはない。同じように愚かなものなんじゃないのかい」というような意味合いでしょうか。
それを聞いた鎌倉末期のみなさんは、そうだね。あんたいいこと言うねと感心して、兼好さんに席を空けてあげるという微笑ましいシーンが続くのですが、このみんなが生と死を忘れていて、それをチクリと刺されると素直に反省するところ、とてもみんなステキで、私もそうだよなあと一緒にウンウンと言いたくなります。
たぶん、声も上げないで、ひたすら感心して、すごいこと言う方だなあとその後ろ姿を見るだけだと思いますが、とにかくそういうのを時々は思い出したいです。
だから、時々白黒写真を撮って、自分の目では見えないけど、そこにある私たちの世界の別の面を切り取っていこうと思います。
白黒写真を撮る、言い訳みたいなことですね。そのわりに腕はあいかわらずですけど……。
朝になると決まって調子が悪くて、そのころは通勤にはボブ・ディランがフォークやトラッドの曲をカバーしたアルバムを聞いていたので、何となくしみじみして、人生はあっという間だよなとか、自分はどうしてここにいて、通勤のクルマの列の中にいて、何をしているんだろうとか、考えていたような感じでした。
考えているとはいえ、特に何かアクションを起こすわけではなく、何となく不安で、その不安におびえ、不安を忘れようとし、何でもないと思い返し、とにかく一日を過ごすということがありました。
それから十数年、今のところ元気で、肝臓に年々脂肪はたまっているのかもしれませんが、とにかくお腹が突き出てはいるものの、筋肉は年々なくなるものの、とりあえず何ともなく暮らしています。ボブ・デイランは好きで、オリジナル曲も、カバーも好きなんですけど、わざわざ聞こうとはしなくなりました。よほどのことがないと、わざわざ聞こうとしません。
私は、「風に吹かれて」とか、「スロートレイン・カミング」とか、もう30年以上前のが好きなんですけど、それ以前のも、それからのも、少しずつ買って、聞いて、すぐ聞かなくなって、時々聞いてしています。
どちらかというと、何かにぶち当たったとき、神妙な気持ちのとき、ラジオで聞いてふたたび聞きたくなったときなど、折にふれて聞いています。何を教えてくれるわけではないですけど、曲の内容もちゃんと理解していないのに、お経のように、何かの宗教音楽のように、何かわけもわからずワンフレーズだけ歌いたいとき、聞いています。
もっとちゃんと聞けよ、とディランさんに怒られるかもしれないけど、いい加減に聞いています。
私たちは、今を生きていますが、なかなか生きているという充実感もなくて、ただ日々の暮らしをしています。それで「こころ旅」などで、私がよくもらい泣きするのは、亡くなった人たちを偲んでいるお手紙なんかがくると、そうなんだよ、私たちは忘れているけれど、それらはすぐ私たちのそばにあるんだよと思ったりします。
私たちは、たいてい忘れて、うかつに過ごしています。忘れているからうかつに過ごせると言ってもいいのかもしれない。いつも自らの死を思い続けるなんて、とても苦しいことで、できればそんなことは考えたくない。
でも、今も自らの生と死を見つめておられる人は必ずいて、どうしてこれから自分は生きていこうと思っておられることでしょう。そして、なかなか答えは見つからないかもしれない。
私の好きな「徒然草」に、こんなエピソードがあります。
みんなで賀茂川の競馬を見物しています。特等席から見ようと木の上にのぼったのはいいけれど、そこでいねむりをするウッカリ者がいました。それを見物客のある人が「あんな危ない木の上でいねむりをして、大バカものだ」とコメントして、まわりの人たちもニヤニヤしながら見ている場面がありました。
そこで兼好さんが「我らが生死(しょうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」と切り返します。
「木から落ちそうなヤツを笑っている私たちも、うっかりしていることには変わりはない。同じように愚かなものなんじゃないのかい」というような意味合いでしょうか。
それを聞いた鎌倉末期のみなさんは、そうだね。あんたいいこと言うねと感心して、兼好さんに席を空けてあげるという微笑ましいシーンが続くのですが、このみんなが生と死を忘れていて、それをチクリと刺されると素直に反省するところ、とてもみんなステキで、私もそうだよなあと一緒にウンウンと言いたくなります。
たぶん、声も上げないで、ひたすら感心して、すごいこと言う方だなあとその後ろ姿を見るだけだと思いますが、とにかくそういうのを時々は思い出したいです。
だから、時々白黒写真を撮って、自分の目では見えないけど、そこにある私たちの世界の別の面を切り取っていこうと思います。
白黒写真を撮る、言い訳みたいなことですね。そのわりに腕はあいかわらずですけど……。